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猪名寺廃寺周辺の歴史に思いを寄せてEADLINE

 
兵庫県尼崎市の園田地区は、猪名川の中州とその支流・藻川の右岸に展開する地域である。その藻川の最北端部分の右岸に小高い森が見える。佐璞丘(さぼくおか)である。この佐璞丘に猪名寺廃寺跡がある。以下に、猪名寺廃寺周辺の歴史を通して、園田地区の紹介をしたい。
NHKで放映され人気を集めている尼子騒兵衛さんの「忍たま乱太郎」。その主人公が猪名寺乱太郎である。「忍たま乱太郎」の舞台イメージは佐璞丘の自然林だったと聞いたことがある。佐璞丘の一部は、法園寺の境内となっている。その境内で、大正期に掘り出された猪名寺廃寺の三重塔の巨大な塔心礎と、猪名野神社元宮が目視できる。
今年の秋祭りに十年以上途切れていた猪名野神社の神輿の巡行があった。伊丹市の猪名野神社を発ちお旅所の佐璞丘の元宮まで神輿が出向くものである。
振り返ると、私が小学生の頃、毎年秋祭りには「お渡り」があり、行列を見物することが楽しみであった。京都の時代祭さながらの行列に、子ども心に地域の歴史の深さに感動していた。「お渡り」は元禄16年(1703年)から行われ、昭和38年(1963年)を最後に途絶えている。
10月14日の本祭りの日、「お渡り」は、尼崎市内の猪名寺・南清水や伊丹市内の各町内から出た太鼓やだんじりが猪名野神社(伊丹市)まで神輿を迎えに行くことから始まり、太鼓に先導された行列が有岡城跡や旧大坂街道を通り、お旅所の元宮まで練り歩くのである。行列は、太鼓を先頭に、塩水・洗米・切麻を持つ人、天狗の面をつけた先導役の猿田彦、金弊を持つ男の子、銀弊を持つ女の子、車に乗った神主、四神鉾、金灯籠、樽職人が抱えた鉾(近衛家が奉納した高さ7mのもの)、太刀・弓矢・神宝・唐櫃を運ぶ仕丁、巫女、楽人、左大臣、右大臣、神馬、日鉾・月鉾・向小西鉾、副斎主・斎主、神輿、氏子総代、警固人、高張り提灯と、華やかに延々と続いた。
この「お渡り」は、猪名寺と伊丹が深く結びついていたことを示す伝承行事でもあった。酒造地帯として江戸時代に栄えた伊丹と、猪名寺は共に天領として経済共同体を形成していたのであろう。猪名寺を含む園田地区・猪名川流域の竹林が伊丹の酒樽を作る資源であったという。
猪名野神社は『摂津名所図絵』にも記録のある神社だが、伊丹の猪名野神社は、猪名寺佐璞丘から延喜4年(904年)に移されたものである。戦国時代には、荒木村重の居城・有岡城の惣構(そうがまえ)北端を防御する「きしの砦」とされた。本殿は、江戸時代の貞享3年(1686年)に建立されたもので今日に至っている。
一方、猪名野には、新羅王から船造りの技術者が派遣され住み着いたと『日本書紀』応神天皇31年8月条に記されている。その技術者は猪名部と呼ばれた。そのような背景から、猪名寺佐璞丘の猪名野神社(元宮)は、渡来系の猪名氏の氏神をまつる社であったと考えられる。また、猪名寺はその猪名氏の氏寺であったのであろう。かつては猪名寺村といい、古くは今日の町一帯が「寺」であったと言われる。
ところで、猪名寺廃寺跡は白鳳から室町に至る複合遺跡である。標高11mの丘状の洪積台地にある。戦前および昭和26年、同33年の発掘調査の結果、伽藍配置は南面する法隆寺式とされ、中門から巡る回廊は塔・金堂を囲み、講堂はその北回廊外と推定され、創建時期は 出土瓦等の遺物などから白鳳期とされる。猪名寺は南北朝時代に赤松円心の兵火にあい、天災などを越えて、戦国時代の荒木村重と織田信長の戦による兵火(天正6年(1578年))で焼失したとされる。おそらく、佐璞丘もその時に焼き尽くされたであろう。
藻川と佐璞丘の東斜面の間に水路が流れている。三平井である。今は大半が暗渠で隠れている水路だが、藻川の右岸の堤に立てばよく見える。
三平伝説は伝える。天正3年(1575年)、日照りが続き田畑がひび割れた。時の領主の荒木村重は、万多羅寺村・岡院・塚口の村々が猪名川の水を引くことを許可しなかった。庄屋の息子、三平は猪名川の堤を破り四斗樽をつなぎ水を村に引き田畑を潤した。三平は堤で自らの命を絶ったという。その後、万多羅寺村、岡院、塚口の村々は三平井から田畑に水を引くことになる。まさに、藻川右岸に位置する園田村の私たちの命をつなぎ育んだ水路なのである。佐璞丘の南には、真浄坊遺跡、中ノ田遺跡が眠る。猪名川水系が育んだ命と文化。その上に私たちは息づいている。                          2012年10月

佐璞丘に自生するカラムシ(古代の麻布の原料)

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