1575年(天正3)5月のころといわれていますが、摂津平野一帯はひどい水ききんでした。田植えの時期なのに、一滴の雨も降らず田植えができません。たまたま田植えのすんだ稲も枯れはじめました。特に水の便の悪かった塚口付近の村や万多羅寺(まんだらじ)・御園(みその)・岡院(ごいん)の水不足は深刻でした(いずれも現在の兵庫県尼崎市内)。
農民たちは雨乞いをして雨を待ちました。また代表を領主・荒木村重のもとに送り、藻川(もがわ・猪名川の支流)から水を引きたいと何度も願い出たのですが、許可されません。農民はあせり、苦しみ、つかれ果てました。
この窮状を見かねて、水と自分の命を取りかえる覚悟をしたのが、この付近の庄屋の息子三平(村名不明)でした。
猪名川の堤防を破り、農民が苦労して作った水路に水を引く以外に方法がありませんでした。死を覚悟した三平は、村の有志に四斗ダルをたくさん買い集めさせ、タルの底をぬいてつぎあわせると長い管ができるように準備しました。
夜に入って、白装束に身を固めた三平は、藻川の堤防(尼崎市猪名寺佐璞丘(いなでらさぼくおか)の東)を破り、用意していた四斗ダルの管に水を引き入れました。農民が待ち望んだ猪名川の水が、タルの管から水路へと走り、ひびわれた田へどんどん流れて入りました。「水だ、水だ」と喜び叫ぶ農民の声があちこちに聞こえてきます。その声を遠くで聞きながら、三平は水路のほとりで自害したということです。
昭和に入って、御園地区内の三平井(さんぺいゆ)のほとりに、三平の記念塔が建てられ、今も毎年5月17日には三平井組が主催して、その前で三平供養の法要が営まれています。
資料出所:尼崎市中学校社会科教育研究会編『尼崎の歴史』尼崎市教育委員会 平成17年p.42(倉橋が若干修正引用)

三平供養塔(岡院・ごいん)
(岡院:江戸時代までの地名)
(現在の兵庫県尼崎市御園・みその) |

三平井(さんぺいゆ)の由来を記した碑文 |

三平井と大井樋門(藻川右岸:尼崎市猪名寺) |
三平井と大井の共同樋門
(藻川の右岸:尼崎市猪名寺 南面から望む) |