今日の社会は、人類がこれまで経験したことのないスピードで、しかも地球規模で変化しようとしている。そのような社会において、「基礎学力の徹底」を誤解して、「生きる力」や「問題解決能力」の育成と切断された教育方法(授業)が展開されることを私は恐れる。これからの社会がどのように変化しようと、全く新しい方法や考え方が突然生まれてくるわけではない。今後新しく発生する問題に対しても、これまでの人類の築き上げてきた文化を振り返り、人類の共有資産である知識を、智恵とするまで咀嚼して「生きる力」に昇華するしかないからである。
言い換えれば、「知っていること」を増やしても、生活の智恵や行動の基準・規範として「分かる」ことがなければその学びは空虚である。
最近、私は、健康維持のためにウォーキングを始めた。1日1万歩が最低限の目標だと教えられ、同時に、目安として1時間歩けばよいとも聞いた。私はこれを信じて疑わなかった。しかし、歩数計を携帯し歩き始めて、それは間違いであると気づいた。1時間は3600秒であり、1時間で1万歩を歩くことは不可能に近い。計算ができていなかったのである。「1時間は、3600秒」と知っていても、分かっていなかったのである。このように、「知っている」ことが「分かっている」ことにならない事象は身の回りに多く見られる。
例えば、私の知る限り、「一人っ子」は少数派である。かつてのような5~6人の子どもがいる家族は少なくなったが、子どもがいる家庭の場合、子ども数は2人以上の場合が大多数を占める。家庭訪問などで教員はこれを知っている。にもかかわらず、「最近は、少子化で一人っ子が多いから
… 」という評論家の意見に、多くの教員は無批判に同意する。子どもを産まない人が増えているから、社会的に「少子化」が進んでいるのであって、「一人っ子」が極端に増加しているのではない。
また、「昔は、おじいちゃんやおばあちゃんと同居している大家族が多かったが、最近は核家族が増えているから、子育てがわからない … 」と現代家族の問題性を説明されても、多くの人々は、無批判に受け入れている。これなどは、算数的に疑問のある立論である。なぜなら、子ども数が多い時代に、老親と同居できる成人の子どもの比率が高いはずがないからである。まして、平均寿命が今日よりも20年以上も短かった時代に、親と同居している子どもや孫が比率的に多かったというのは、にわかには信じがたいはずである。このように、「当たり前」として「知っている」ことの中にも「分からないこと」は潜んでいる。
ところで、自分の生活に当てはめたり、社会現象を見ることに、学習内容を応用できるような学力状態を「分かる」とした場合、「知識・理解」と「分かる」ことの間には距離がある。
すなわち、「分かる」状態に辿り着くためには、「知識」を学び取らせるだけではなく、子どもたちの気づきや洞察力を引き出す教材や授業構成が必要であろう。また、学んだことを具体的なことに当てはめる練習を繰り返すことが、「分かり直す」ことになり、学んだことが定着しやすいという研究報告もある。テストの問題に正解が出せるだけではない、「分かる」ことを教育目標にすえる、より具体的な授業が求められるゆえんである。
学ぶ過程が苦しくても、学習後には、学んだ喜びや次の学習課題への意欲が生まれる、そのような授業や取り組みが、基礎学力を定着させ、「生きる力」も育むであろう。
2005年1月