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現代家族の危うさHEADLINE

 早朝、小学生の兄弟らしき二人の男の子たちが、コンビニのおでんを頬張りながら、ランドセルを背に登校を急いでいる、そのような光景を見ながら、時々私は出勤する。別の日には、幼い少女たちが、「今晩はこの弁当を食べようか」などと相談しながら、コンビニの電子レンジの前に立っている夕暮れ時の様子に出くわしたこともある。
 家族そろって食事を取る日常生活の幸せ。それも危うい家族と子どもたちが多いように思える。
 近年、家族が変わり、子どもが変わったと指摘されることが多い。しかし、家族や子どもを包んでいる環境・条件が急速に変化してきたために、「家族」や子どもが、それに適応しようとしてニュー・スタイルの「生き方」が生まれているのであろう。
 かつては、漬け物だけではなく、味噌も醤油も家庭で作られていた。それが「おふくろの味」の元だった。その「おふくろの味」の元は、企業の生産する調味料に画一化された。果ては、包丁も持たず、電子レンジに食事を提供してもらうのが日常化している家庭すらある。ここに至っては、食事さえ個性を失いつつある。「食育」が説かれる背景にある現象である。
 思うに、今、子どもたちの「生きる力」が危うい。高度な工業化・情報化社会への適応力としての「生きる力」ではなく、最も原始的な意味での「生きる力」が危うい。それは、元来、家族が、その果たしてきた「生きるすべ」や「生活の知恵」を子孫に伝える働きを失い、子どもの教育全般を学校教育や他の教育機関に依存するようになったからである。
 農耕社会の時代の子どもたちは「家族社会」の中で教育された。「家族社会」では、親夫婦と子どもたちは一緒に働き共に暮らした。子どもは親の働く姿を見て成長し、親のすることを真似ることが「生きるすべ」を手に入れることであった。そのような親子関係の中で、親への信頼や尊敬が生まれた。
 しかし、身分制の社会と決別した時から、子どもたちは親との同業を捨て、自分の職業を自分の能力で開拓しなければならなくなった。それが自由社会の掟である。そして、高度な産業社会になった今日では、職住は分離し、子どもに見えるのは、疲れて「だらしなく」寝ころんでいる親の姿でしかない。給与は銀行振り込みで、親の労働の対価という値打ちを感じ取りにくい状況に追い込まれている。親子の絆を精神的・経済的に確認できる場面は、日常的には極めて少なくなっている。
 一方、情報機器が発達するまでは、自分達の日常の世界と違う人たちと出会うことは極めて珍しいことであった。ところが、今は、様々な機器のおかげで世界中の人たちの動勢が見聞きできる。別の見方をすれば、親しくはないけれど、いつも非日常的な美人やハンサムボーイと時間を共にすることができる環境になったとも言える。日常と非日常の区別がつかない位に、マス・メディアの情報が作り出す空間で、大人も子どもも暮らしているのである。
 この現象は、一流のプロと素人が毎日対決・勝負しなければならない状況を作り出したとも言える。マス・メディアは、洗練された手口で、艶やかに情報を提供する。それに対して、日常生活の中での保護者や教員は、「泥臭く」ダサイ。よほど練られた「ネタ」でもない限り太刀打ちできるものではない。
 子どもたちを学習に誘うためには、これまでとは違う「攻め方」を考案しなければ、家庭の保護者の力は、圧倒的に不利な状況に追いつめられてることに気づくべきであろう。
 そのことは、学校の授業にもあてはまり、これまで通りの「普通の授業」だけでは子どもたちの学習意欲を引き出すことは極めて困難になっている。今後、求められるのは、子どもたちが主体的に「よりよく生きる」ために、洪水のように垂れ流される情報を「調理」する方法や見極める力を育成することであろう。今日の教員の奮起に期待が寄せられる所以である。

2006年1月

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