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試験問題「農業生産の向上と農村の変化」HEADLINE

【観点】
  • 社会的思考・判断

【問題】
2013年実施
次のA~Fの文は、ある時代の農産業や農村の特徴を説明しています。文をよく読んで、各問に答えなさい。

【A】 人々はおもに低湿地に水田をつくり、その周辺の丘にむらをつくって住んだ。むらのまわりには、堀がめぐらされていた。むらの人口は、ふつうは20人から25人くらいで、稲作は人々の共同作業でおこなわれた。むら人は、収穫した稲を(a)におさめ、共同で管理した。

【B】 牛馬による耕作が広がり、牛馬の糞も肥料として使われた。各地で二毛作が可能になり、近畿の一部では三毛作もおこなわれた。また、茶・桑・楮(こうぞ)など、商品として売ることを目的にした作物の栽培もおこなわれはじめた。売ることを目的に生産する作物を(b)という。各地に鍛冶・鋳物・紙すき・織物などの手工業を専門におこなう人々があらわれ、各地に特産品が生まれた。また、京都と地方を結ぶ、瀬戸内海や日本海には船が行きかい、港では問丸が年貢や商品の保管や輸送にあたり、陸上では馬借・車借とよばれた運送業者があらわれた。

【C】 農民は、年貢をおさめるだけでなく、地頭からも労役を課せられ、きびしい負担に苦しんだ。また、飢饉におびやかされることもあった。しかし、牛馬を使用したり、草や木を灰にして肥料に用いたりして、農業生産を向上させた。近畿地方などでは、米づくりが終わると、麦をつくる(c)がおこなわれるようになった。

【D】 農民は苦労して荒れ地を少しずつ開墾し新田にした。やがて100年あまりの間に耕地が2倍近くふえた。衣料には麻にかわって木綿が広く用いられ、明かりには菜種油を用いるあんどんが広まった。そのため農民は、原料となる綿や菜種の栽培に力を入れ、養蚕もさかんにおこなった。農民は、それらの生産物を商人に売りわたした。また肥料に干鰯や油かすを買い入れ、用いるようになり。商人をかねる農民も生まれた。

【E】 6年ごとに戸籍がつくられ、6歳以上の男女に口分田があたえられた。死亡すれば、その口分田は返すことになっていた。これを(d)法という。民衆は、田の面積に応じた租と成年男子に課せられた調・庸を負担した。この時期の農村では、鉄製農具がしだいに普及し、稲の収穫がふえた。しかし、日照りや洪水などで凶作になると、農民は翌年にまく種もみや食料にも不足した。国司は稲を貸しだし、5割の利息をとった。これを(e)という。

【F】 農民は、衣食住などの生活の向上をめざしたので、現金支出がふえた。また、商品作物の種や肥料を商人から借りて耕作したので、生産物を商人に安く買い上げられてしまうことも多かった。その結果、年貢を納めるために、借金をし、借金がかさんで返せずに土地を失う農民が多く生まれた。土地を失った貧しい農民は、広い土地をもつようになった地主から土地を借りて耕し、小作料を収める小作人になった。これにより、豊かな大地主ができる一方で貧しい小作人がふえた。貧しい農民は子どもを奉公に出した。都市に出かせぎに行く農民もふえた。こうして幕藩体制の支配の基礎となる農村がゆらぎはじめた。


(1) 文中のa~eにあてはまる語句を漢字で答えなさい。

(2) A~Fの農村の様子を歴史的に古いものから順に並べると次のどれになりますか。ア~オの記号で答えなさい。
  ア ( A → C → B → D → E → F )
  イ ( A → C → E → B → D → F )
  ウ ( A → E → B → C → D → F )
  エ ( A → E → C → B → D → F )
  オ ( A → E → C → D → B → F )

(3) Fの文にある「こうして幕藩体制の支配の基礎となる農村がゆらぎはじめた」の「こうして」のことを60字以内で説明しなさい。 ※ 原因と結果に注目してFの文を要約するとよい。




【解答・採点基準】
(1) a 高床倉庫    b 商品作物    c 二毛作   d 班田収授   e 出挙
(2)   エ
(3) 「現金支出や借金のために土地を失う貧しい農民がふえた。彼らは、子どもを奉公に出したり、出かせぎに出た。」(50文字)
「貨幣経済の浸透が、豊かな大地主と、土地を失い小作人になる農民を生み出した。土地を失った農民は、農村を出るようになった。」(59文字)
「現金支出と収入や借金が農民の間に貧富の差を広げ、農村から離れる貧しい農民がふえた。」(41文字)
「現金支出や借金のために土地を失う農民がふえた。貧しい農民は農村を離れ都市に出た。」(40文字)



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