富松城跡は、細川高国が尼崎城を
構築する以前から存在し、平地の中
世城郭の原形をよくとどめた堀と土塁の一部が現存する貴重な城館跡です。
この遺構は、文献史料に記された
内容ともよく符合しています。旧地名
の「堀土井」「北垣内」「屋敷」や1994
年の尼崎市教育委員会の発掘調査
から、15世紀前半には、尼崎市史に
書かれている方一町(100メートル四
方) より広い南北180メートル、東西150メートルの範囲に堀が掘られ、土
塁をめぐらした、瓦葺きの本城の体
裁が整った城館であったことが分
かっています。
諸城を攻めるには、まず、攻防の
要害の地として中心的な役割をはた
している富松城を陥落させて、尼崎
城と伊丹城との連絡を断つ。
その戦いに功あった武将を城主に
据えるということが繰り返されていた
ようです。
富松城での攻防の勝敗が、西摂(摂津国西部) の戦局、しいては京の将軍の相続争いにも影響を与えたのです。 |
富松城跡推定復元図
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日本城郭大系の堀 |
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1996年度尼崎市埋蔵文化財調査年報の堀 |
空から見た富松城跡周辺図 |