細川両家の争い


                                  富松城跡を活かすまちづくり委員会

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  勢いをきわめた細川政元(まさもと)が、家督を公卿(くぎょう)出身の澄之(すみゆき)から澄元(すみもと)にかえたことから、澄之、澄元の家臣間に対立が生じ、1507年6月、澄之をかつぐ家臣のはかりごとにより政元は殺されます。幕府は、澄之を相続人としましたが、今度は澄元、高国(たかくに)が認めようとしません。

 2カ月後の8月、高国がとつぜん反撃に出て澄之の宿所を襲い切腹に追いやりました。高国の名は高まり、足利幕府の中心人物となりますが、一方、澄元は高国の行ったことを、にがにがしく思っていました。

  このように管領(かんれい)家の相続をめぐって、細川氏が両家に分立して抗争するのは、はじめは、澄之と澄元であったのが、後に澄元と高国となり、更に澄元の子・晴元(はるもと)と高国というように続きます。これに将軍家の相続争いもからんで、はげしい抗争となったのです。




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