Brambly Hedge
―茨の境界―
〈８〉
明るい日差しに誘われて目を醒ますと、そこには惹かれて止まない愛しい人の安らか
な寝顔があった。夜の中に作り出したそれではない柔らかな光の中で見ることが出来る
事実に、自然とカイトは頬が緩むのを感じた。
隣に白い体を晒して眠る恋人は、いっそ無防備とも言えるほどに深い眠りの底に沈み
込んでしまっている。
しどけなく横たわり眠るその姿に一度収まったはずの欲情がぶり返していたりするの
だが、昨夜散々鳴かせてしまっただけに寝ている所を再び襲ってしまうのも忍びなくて、
カイトは何とかその細い肢体を柔かく抱き締めるに留めた。
そしてしばらくはしっとりとした黒髪を梳きながら、その穏やかな寝顔を堪能するこ
とに専念し、自分の理性に乾杯とか思い朝の静かな空気に歓びを感じながらカイトは恋
人の目覚めを待った。
「･･････ん･･･？･･･」
小さく声を洩らし、長い睫が揺れる。ゆっくりと瞼を上げて隠されていた蒼が現れるの
をどこか崇高な気持ちで待った。
「おはよ、シンイチ」
「･･･お、はよ･･･」
朝の挨拶ｖとばかりにまだ眠たそうなシンイチの顔中にキスを贈ると、ふわりと華の綻
ぶような微笑みと一緒に頬にキスを返されて、思わずカイトはベッドに撃沈した。心中
では
（かっっ･･･････！！）
可愛い･･･っ！と声にもでないほどの感激を覚えていた所為なのだが、それをどう勘違い
したのか、シンイチは心配そうに痛む筈の体を起こしてこちらを見つめてきた。
「どっどうしたんだ？」
気分、悪いのか？と言いながら間近で見据えられ、大丈夫だよと笑って、今度はしっと
りと押し包むようなキスをした。そして彼の肩を軽く抱いて、再び二人でベッドに横た
わる。
寄り添って、お互いの温もりを分け合って。昨夜の激しさが嘘のような穏やかな雰囲
気がその場を包み込んだ。
カイトの腕の中で訪れる微睡みに身を任せていたシンイチは、何かを思いついたよう
にはっとカイトを、見上げて言った。
「･･････なあ、これからどうするんだ？」
「そっか･･･どうしよ」
何も考えていなかった。そういえば、自分はここに客人としてきたのではなく「侵入」
してきたのだ。真っ昼間からハンググライダーを飛ばす訳には行かないし、恋人同士に
なれた今、堂々とこの部屋に招かれたいと思う。――勿論、恋人として。
それは夜に客を取るシンイチの立場を考えるとかなり難しい事だと解っているのだが、
それが彼を知らなかった頃や彼と言葉を交わした事のなかった一週間であればともかく、
‘シンイチ’を知ってしまった今では会いたいという欲求を抑える自信は皆無にも等し
い。
「･･･ここに、いるか？」
「っ･･････いいの？」
こちらには願ってもない嬉しい提案に、思わず即答したくなるのを押さえつけて聞き返
すと綺麗に微笑んで頷かれ、力の抜けきっている体を思い切り抱き締めた。
「ありがと･･･････」
「うん。･･･ああ、一応俺の主治医とかも来るんだけど、話しとくから」
シンイチの口から放たれた「主治医」という言葉にカイトはピクリと反応し、一緒にな
れたという嬉しさの余り吹き飛んでしまっっていた不安が甦ってきた。
「･･････そういえば、昨夜俺の前で倒れたよな？･･･どこか、悪いのか？」
目の前で想い人が倒れてしまう、なんてショッキングなことを忘れてしまっていた自分
の迂闊さをカイトは呪った。それまでにも何度か予兆はあったが、その時は自分の手に
届かない所に、彼はいた。
今なら届く。――今なら、彼の傍にいられる。
カイトは強く抱き締めていた腕の力を少しだけ抜いて、シンイチの目を覗き込む。好
きな人の事を知りたいと思うのは当り前。それは自分で調べるのも良いけれど、本人か
ら聞いた方がずっと良い。
「･･･ちょっと･･･心臓が、な」
大したことはないんだけどなと言って薄く笑うシンイチに、思わず泣きそうになりなが
ら抱き着く。
「･･･拙かったんじゃねえの？･･････無理、させた」
自分の欲にばかり走っていた事が情けなくて、甘い匂いのする絹のような黒髪に顔を埋
め、懐くように頬擦りした。･･･今更ながら、耐えられるものじゃなかったといえ己の欲
望に走ってしまった事に反省した。
シンイチを抱いた事に後悔していなかった。そんなことをする方が、彼に失礼だと弁
えているつもりだから。･･･だから、これは懺悔だった。なのに、
「いいんだ、俺が嬉しかったんだから」
と彼は本当に嬉しそうに笑って言うのだ。気にする事はないのだ、と。
「ちょっと」で済まされる筈はなかった。笑っていられるほど軽視できるものでもない
と、カイトはあのホールで抱き上げときに既に気づいていた。
コナンは自分と彼は同い年なのだと言っていた。カイトは今年19になる。身長は高
く、その肉体は裏の仕事の所為もあって無駄無く鍛えられて引き締まっている。
対するシンイチは、身長は高くも低くもない身長があるが、如何せんその白い肢体は
細すぎた。華奢な肩、折れてしまいそうな手足に簡単に抱き込めてしまう細すぎるくら
い細い腰――･･･男の生きるの中で体に現れる成長が遅すぎるのは、彼を蝕む病魔の所為
なのではないか。
しかも、かなりの意地っ張りだと知れた彼が、人前で倒れてしまうほどの。
「そんなに･･･気にする事じゃないんだよ」
本当に。
言い聞かせるように繰り返される言葉に、カイトは彼に抱き着いた懐いた状態のままで
コクリと頷いた。
「･･･なあ、こっちからも聞いて良いか？」
上目遣いで見上げながら問われる声に、カイトは勿論と頷く。
「･･････カイトって･･･何者なんだ？」
「･･･へ？」
思わず間抜けになってしまう。殆ど一般人と変らぬ気配を纏っていた筈なのに、シンイ
チはそれが偽りなのだと言っているのだ。
「言っただろう･･･？一般人とも高貴な身分の者とも違う雰囲気がお前にはあるんだ」
優雅の中にも鋭さを、柔かい物腰の中にも暗く深い闇を宿し、飄々としているようで、
常に冷静な目で物事を見る事を知っている。
――お前は、何者だ？
疲れている筈なのに、その目の力は全く煙る事なく逆に鋭い光を伴った蒼い目で見据
えられて、カイトはぞくぞくと背筋に何かが走るのを感じた。
（･･･正体問われてるのに興奮するなんて･･･俺も相当ヤバイよなぁ〜）
内心苦笑したが、表向きには不敵な笑いを称えてシンイチの頬を軽く撫でてカイトは言
った。
「･･････何者だと思う？･･･尤も、俺が何であろうとシンイチが好きなことは変わりない
けどね」
当ててごらん？
「――･･････冷涼な、気配･･･ここの屋上に来た時は、お前は風のイメージだった。白。
それは･･････お前の、本質？」
「そうであって、そうでもないね」
「･･････白･･･夜･･･光――否、月光。･･････そうだ、月が･･････」
静かに意味を成さない単語を呟くシンイチは、顎に手を置いて真剣に考えている。おそ
らく聡明な頭脳は今、めまぐるしく回転してカイトの本質を･･･カイトという人間全てを
見極めようとしているのだろう。
カイトの内に潜む、裏の顔を。
「･･･警部に･･･聞いた事がある。最近巷を騒がせる泥棒がいるって。･･････そいつは犯
罪者なのに夜に目立つ白い衣装を着て、翼を広げて降り立ち、美しいマジックで人々を
魅了しながら鮮やかに獲物を盗み出す･･････」
ゆっくりと記憶を掘り返し確かめるように呟いて、シンイチはじっとカイトの紫紺の
内包された目を正面から見つめた。そこにあるのは不安でも不信でも疑念でもなく、た
だただ純粋なる好奇心。
「･･････カイトって･･･もしかしてかい――っ･･･？」
「はい、そこまでな」
最後まで答えを出そうと口を開いたシンイチの言葉を止めたのは、カイトの使い込まれ
た綺麗な指だった。些か怪訝そうに首を傾げるシンイチにカイトは優しく微笑んで、軽
くその可憐な唇に口付けて頬を撫でた。
「･･･かいと？」
「こっから先は、これから解る事だから、さ」
すぐに、会いに来るから。･･････シンイチに知ってもらう為に。
言外に言いきって、ちゃんと伝わった事を表すように嬉しそうに微笑むシンイチを見て、
カイトはホッと息をつくと同時に彼に戯れ程度の軽い口接けを贈り、クスクスと二人で
笑い合った。
もう既に昼近かった太陽は、次第に西へと傾き沈んでいく。建物と建物の間に沈み行
く夕日の赤はどこか壮絶な輝きを持っていて、美しいがずっと見ているとそこから来る
闇に引き摺り込まれそうになる。
「･･････そろそろ、仕事だな･･･」
傍らに寝そべる彼はポツリと夕日を見ながらそんな事を言い、軽くカイトにキスを贈っ
てからベッドから降りようとし･･･その手を、カイトは思わず掴んで引き寄せ、不機嫌に
下降してしまった事を隠しもしないで低く低く囁く。
「･････行くんだ？」
行って欲しくない。それは正直な本心だ。しかし彼を彼自身の領域で縛る事が出来る筈
もなく、それが叶う事はないと解ってはいるけれど。
カイトのあからさまな嫉妬にシンイチは微笑み、精悍な顔付きの頬を細い指で辿ってか
ら告げる。
「俺、毎日夜ヤルばっかの理由で客取っている訳じゃないからさ。･･･な、スズキ公爵っ
て知ってるか？」
「勿論」
シンイチを抱き込んだまま頷くと、彼はにっこりと微笑んで言った。
「そこの次女が俺の常連でな、他にも警邏のお偉い方とかいるけど･･･今夜もあの子なん
だ」
「･････････女の子も取ってるんだ？」
性別は違っても彼に触れる事には変わりない。底無しの独占欲でカイトは低く聞くと、
彼はそんなカイトに苦笑して軽いキスを頬に贈ってからゆっくりと離れた。
「そりゃあな。･･････でも、彼女のここに来る目的は俺じゃないから･･･ここで待ってて
くれるか？」
大丈夫だから。すぐに帰るから。彼の蒼い目はそう告げていた。ましてや「信じてくれ
るか？」と小首を傾げながら訊ねられれば頷かない訳にはいかず、嬉しそうに笑ってベ
ッドから降りるシンイチを今度は引き止められなかった。
「･･････そうだなぁ･･･信じるのが難しいって言うんなら――迎えに来いよ、あの部屋の
前まで」
既にシャワーを浴びて薄い布を身に纏っていたシンイチは、クローゼットからスーツを
選び出し。するりと肩から薄布を落し、シャツに袖を通した。
赤い華の散る白い背中と、艶めかしく浮き出る肩胛骨に目を釘付けにされながら、カイ
トは驚きに思わず固まった。
「･･････････え？」
確かに、掻っ攫えるものなら喜んでそうさせてもらうが、彼はあの部屋に仕事をしに行
く筈なのだ。
さっさと見栄えのするスーツに着替えたシンイチを見ると、まるで彼こそが貴族なの
ではないかと思える。彼からは気品が漂い、ゆっくりとこちらを振り返るその姿は優雅
で美しい。
そんな姿を見せられたら、離れるのは嫌だと余計に駄々を捏ねる子供の様なことを考え
てしまう、カイトはシンイチの出した言葉に頷いていた。
「･･････迎えに行くよ、シンイチを。･･･どれくらいで行けば良いんだ？」
「ん〜〜･･･俺がソノコ嬢と一緒にホールを抜け出した少し後ってとこかな」
「わかった」
赤い夕日が彼を照らし、自分の元から連れ出してしまう。その事を酷く名残惜しく感じ
ながら、カイトは最後に一度だけ、とシンイチの唇にキスをして「また後で」と微笑ん
だ。
「うん･･･カイト」
呼ばれて彼を見上げると、シンイチは真剣な目でこちらを見ていた。
「何？」
「あの、さ･･･････後で･･･ちょっとだけ頼みがあるんだ」
真剣な中にも不安の影がちらつく瞳に、余程大事な話なのだと判断し、カイトは優しく
微笑みを浮かべて頷いた。
「わかった」
「ありがとう･･･じゃあ、また後で」
とそれにシンイチも微笑み返し、ゆっくりと部屋から立ち去った。
夜の時の到来を告げる「ナイト・リリー」開店の小さなベルの音が、最上階のこの部屋
にまで高らかに届いた。
その細い音を聞きながら、カイトは静かに目を閉じた。･･･戦場のような熱気の渦巻くあ
の場所へと赴いた恋人を思いながら。
そろそろ起こさなければ、とシンイチの部屋へと向かう途中だったシホは、前方から
やってくる未だに寝ているとばかり思っていた人のきっちりと服を着た姿に、驚いて思
わず目を瞬かせた。
そんなシホの様子を見て、シンイチは小さく苦笑してからのんびりと彼女の元に歩み
寄って来る。
「おはよ」
「･･･おはよう。なに、今日は早いのね？」
「うん、ちょっとシホに相談したい事があるんだ」
挨拶の後に突然何か思い詰ったようなシンイチに言われて、思わずシホは耳を疑ったが、
その彼の表情からしても真剣な事のように思えたので、シンイチの次の言葉を待つ事に
した。
「あのな･･･昨日の、男なんだけど･･････」
「･･･昨日の客もどきがどうしたの？」
「今、部屋にいるんだ」
別館の方。
「―――――――っ！！？」
突然発せられた爆弾発言に、シホは思わず呼吸をする事も忘れてシンイチに見入った。
シンイチがあの部屋に上げるという事。それは大抵絶対に信頼している者にしか与えら
れない特権とも言うべき事だ。
あの部屋に招かれるのは、シンイチの特別な人だけ。
つまり、彼に彼の別館の方の自室に招待される、ということは彼に好意を抱かれるに値
するということで、あの昨夜の客もその中に入るということになるのだ。
「･･･気に入ったのね？」
本気になった？と言外に含ませて言えば、これまでにも滅多に見ない素顔のはにかんだ
微笑みを向けて来た。
「あいつの手はさ・・・・・・」
奇跡を生み出す手なんだ。数年ぶりに見せる幸せそうな、華の綻ぶような笑みに見蕩れ
ながらナチュラルに惚気るシンイチに、
（･･･参ったわ）
降参よ、とシホは心の中で白旗を上げる。――彼を落せる人材を見つけ出してきたコナ
ンの人選と、見事に彼をたった一晩で落してしまった客だった男に。
「よかったわね･･･で？」
相談というより、お願いなんでしょう？とシンイチに告げると、彼はにこやかに笑って
言った。
「あのさ･･････」
シンイチの頼み事に苦笑しながら頷いたシホは、のんびりと晴れて彼の恋人となった
男がいる筈の彼の部屋を訪れた。
軽く扉を叩いて声を掛けると、シンイチに良く似た、それでも少しばかり低い声で「ど
うぞ」とだけ返されて中を覗き込むと、一応軽くは装いを正した男が侮れない笑みを浮
かべてベッドに座ったままこちらを見てきた。
「･･･とりあえず、オメデトウとだけ言っておくわ」
「･･･俺も奇跡みたいなもんだと思ってるんだけどね」
ひょいっと肩を竦めて、それでも幸せそうに微笑みながら言う男の顔は崩れ捲くってい
て、交わす言葉はやけに馴れ馴れしかった。シホは一瞬だけ眉根を寄せたが、特に何も
言わずに勧められた椅子に座り、身繕いをしている男の姿に溜め息を吐いた。
実は、この二人。たった一度だけ面識が合ったのだ。とは言ってもほんの数時間前、
シンイチがホールで倒れた直後にカイトが抱きかかえて行ったその先が彼女の部屋だっ
た、というだけなのだが。
それでも、たった数分間だったが彼らは話しをし、シホは彼にある提案を仕掛けた。･･･
内容は、驚くくらいにコナンが言ったものと同じ事だったが。
「シンイチからあなたを仕事場に連れてくるように頼まれたわ･･･結構、心配性なのね、
『怪盗』さん？」
「･･････侮れないね、お嬢さんも。そりゃあ、無意識下とは言え生まれてこの方18年
ずっと求め続けた存在をやっと手に入れたんだ、心配性にも･･･臆病にもなるさ」
あっさりとカイトの本性を言い当てた自分に一瞬鋭い気を向けられはしたものの、あっ
という間にそれを静めて更に本心まで垣間見せるという出血大サービスな男の態度に、
思わずシホは目を丸くして少し笑った
「あら、意外に素直なのね？」
「あのシンイチの主治医殿には、何か隠しても無駄だと思ってさ」
何せ、かなりガマン強く意地っ張りであるシンイチの不調を一瞬で見抜いてしまうほど
の目の持ち主なのだから、はっきり言って隠しても無駄だと言える。
至極素直に答えてくるカイトに今度は苦笑を返し、シホはくるりと背を向けて外に出る
ことを促した。
「･･････昨日の夜言ったこと、忘れてないわよね？」
これは、確認。
最後の時まで自分を欺くことがないか。
最期の時まで彼を裏切ることはないか。
「勿論だよ」
言っただろう？大歓迎だって。自分が裏切る必要がどこにある、そう言われた気がして、
つくづくコナンの目の確かさと自分の疑り深さ、そして目の前の男の本気の見えぬ軽薄
な底知れなさにシホは深々と溜め息を吐いたのだった。
肩の辺りで整えられた細い明るめの金髪を揺らし、明朗な目と嬉しそうな表情でお付
きの者も付けずに現れた、上流階級と一目で分かる少女がキョロキョロと周囲を面白そ
うに見回しながら堂々とした風情でホールの中を闊歩していた。
その身を包むのは明るい赤のミニのナイトドレス。肩を出し、スカートは短く、白い
脚を惜しみなく晒して歩く姿はどこかお姉様然としていて周りの男共の視線を引き寄せ
るが、彼女にとってはそんなことは全くもってどうでもいいことだった。
普段から結構良い男好きである彼女だが、ここに来た目的は男漁りでも良い男ウォッ
チングでもなくたった一人の為で、その辺の有象無象はそのくるくると輝く大きな焦げ
茶の瞳どころか彼女の視界にすら入っていない。
最早その辺に転がる小石以下の存在となっているのだ。
もっとも、彼女に声を掛けるといえば、よっぽどの自信家かよっぽどの身の程知らず
か･･････。
「――失礼、お嬢様？」
彼女の前に立って優雅に腰を折り礼をした少年のような、よっぽどの美貌の主でしか叶
う筈もないのだが。
「あら、今夜は早かったのね？」
柔らかな微笑みを向けられてやや頬を染めながら、「お嬢様」と呼ばれた彼女は差し出
された手に手袋を嵌めた自分の乗せた。
恭しく彼女の手を取り、片膝をついて甲に軽いキスを贈るその様は、傍から見れば気
障の塊のようなモノだが、彼がすると妙に様になっている。その証拠に、彼らに見惚れ
る周囲の人間は、呆れた視線などではなく彼らに羨望と熱の篭もった眼差しを向けてい
た。
「お部屋に向かう前に、ダンスを一曲踊って頂けませんか？･･･ソノコお嬢様」
と膝をついた体勢のままで彼･･･シンイチが言うと、ソノコと呼ばれた彼女は悪戯っぽく
微笑んで、
「喜んで」
と頷いた。
流れる音の合間を縫ってするりと二人は踊る人々の輪の中に入り込んだ。先程から忙
しなく周囲を見渡しているソノコにシンイチは訊ねた。
「･･･どうしたんです、誰かお探しですか？」
のんびりと人を酔わせるような曲調の曲に、自然と抱き合うような形になりながら、後
でカイトに見られたら嫉妬されそうだと心の中で思い、小さく笑う。
「･･･解ってるクセに。あの人の姿が見えない様だけど？」
「あの人はもうあの部屋に。･･･今夜はホールの仕事がない、と言ってましたからね」
「そう･･････」
答える声はどこどなく嬉しそうだが、この体勢では彼女の表情を見ることは叶わなかっ
た。
しかし、その体勢のままで彼女は楽しそうに爆弾を落した。･･･あくまでも周りに聞えな
い様に、だが。
「･･･そういえば、あなた。恋人できたんですって？」
普通、こんな事は楽しく言えるような問題ではない。シンイチは男娼で、恋人は作っ
てはいけないことになっているからだ。･･･しかし、彼女は彼の「協力者」の一人で、こ
ちらの事情を良く知っていた。･･･が、
「･･････いい男なんでしょ？貴方が恋人を見つけただけでも奇跡じゃない、目一杯応援
するわよ」
という客の中での唯一の協力者である彼女も、本当はまだ知らない筈だった。当り前だ、
その恋人は昨夜出来たばかりなのだから。勿論自分はまだ彼女に話していないんだから、
ソノコは誰かに聞いたということになる。
なら･･･一体誰に？
「･････････････なんでそれを」
なんとなく見当がつくと思いながら、シンイチは嘆息して答えを求めたが、
「コナン君が教えてくれたのよ、嬉々として」
と返って来たそれは余りにも自分の予想通りで、思わず肩を落した。
「･･･アイツ･･････」
（･･････相変わらず、どうしてそんなに･･････）
「あら、良いことじゃない。そうそう、さっきから強烈な視線を感じてるんだけど、も
しかしてこれってあなたの恋人からかしら？」
「･･･････････････」
「ねえ、イタズラしたら怒る？」
軽くターンを決めた後、恥ずかしさに内心少しばかり赤面して、黙りこくってしまった
シンイチから小さな距離を取って、楽し気に見つめてくるソノコにシンイチは思わず苦
笑した。
あのカイトが向ける強烈な視線を受けながらも、ここまで力一杯楽しめる彼女はある
意味かなり奇特なのではなかろうかと思いながら、シンイチは試してみたい好奇心を押
え込んで首を振った。
「･･･だめですよ、僕があの人に殺されてしまう」
「･･･私も止めとくわ。自分の命が惜しくなってきたし」
中々に嫉妬深い恋人を持った二人はクスリと微笑み合い、曲の終わりと共に素早く輪か
ら抜けてホールから立ち去った。
視線が自分と彼女に集中してくるのを感じながら、カイトはたった一つの嫌な感じの
する視線に眉を顰めた。
――シホに案内されて、誰にも怪しまれることなくホールに着いたカイトは、「今夜
の彼の客よ」とある一人の自分と同年代の少女を差されて、思わず彼女を凝視した。
活発だが煽情的にも見えるドレスに身を包んだ彼女を見る周囲の目は熱く、しかし彼
女は全く気にせずに何かを待っている様子でキョロキョロと周りを見回し、明るい金髪
を揺らして焦げ茶の目を彷徨わせている。
何かを探しているようでありながら、微笑みを浮かべる焦げ茶の目には明らかに楽し
そうな色が浮かんでいたが、その中にも見え隠れする理知的な輝きが、周囲の不用意に
声を掛けようとする馬鹿な男共を退けていた。
そこにあるのは、明らかに上流階級と解るものの気品と、若いながらにも感じさせる
貫禄。
シンイチの言葉を信じていなかった訳ではない。ただ、その少女の身分を知っている
だけに、彼女がそこにいることに違和感があり過ぎてカイトは驚きを隠せなかった。
スズキ公爵家といえば、上流貴族の中でも1,2を争う家柄で、先代には男子は生まれ
なかったが、長女、次女共に優秀な学を納めている。
特に先代が隠居した後次女のソノコ嬢が、病弱な姉とその姉に骨抜きにされてメロ
メロになりながら特に財産云々には興味がない、と公言しているその夫の変わりに家を
支えているという逸材だ。
男好きで知られているが、決して本命を作らない、というのが最も知られている噂で。
･･････シンイチの客、ということは、当然ながらコナンのあの鋭い観察もしっかりパス
している訳で。
･･･････････････もし、彼女の噂の本命が、シンイチなのだとしたら？
（･･････なんか、最悪じゃねえの？）
と考えながら悶々と考えていると、冷やかな視線と共に同じ様な冷たい声が真横から投
げかけられた。
「安心なさい。彼女の本命は、あの人じゃなくて他の男だから」
しっかり見透かされたような声音に、カイトは
（･･････超能力者かなんかじゃないのか、この人）
と思わず考えながら隣にひっそりと佇む美女に、背筋に凍るものを感じながらカイトは
向き直る。
目の前では、シンイチがソノコに跪いて彼女の手の甲にキスを落しているという、周り
から見れば目の保養な光景が繰り広げられている。
「･･････全然･･･」
説得力ないんだけど？
さり気なく反論すると、シホは色素の薄い薄茶の目でこちらを一瞥し、クスッと底冷え
する微笑みを浮かべた。
「そう･･･彼の言葉が、信じられないのかしら？」
「そっ･･･そんなこと、ないです」
思わず敬語になってしまうのは何故か。しかし、彼女の威圧感と何をされるか解らない
この雰囲気に呑まれない人間など滅多としていない･･･と思う。自信はないが。
そうこうしているうちに、二人はあっという間にダンスの輪の中に入っていき、柔かく
抱き合う様にして踊っている。アップテンポにはない独特の空気を持たせている曲では
激しい動きは必要なく、自然な雰囲気を保って踊る二人はやけに親密そうだ。
冷や汗をタラタラと流しながら答えられた言葉に、それでもソノコ嬢に鋭い視線を向け
ているカイトに苦笑した様な気配が隣から伝ってきた。
（･･･この人には、一生敵わない様な気がする･･･）
と思ってシホにだけは逆らわない様にしよう、と肝に銘じた事は絶対に言えない。勿論、
悟られてもいけないが。
一曲が終わり、さっさと輪の外に出ていってしまった二人を視線で追いかけていると、
不意にシホに手を引かれ、着いて来るように促された。
向かうのは、シンイチの仕事場。
あのやたらと豪華なベッドルームだと、カイトは瞬時に理解してただ小さく頷いた。
――嫌な視線が2つになったことに内心眉を顰めながら。
一気に２話アップは結構しんどいです･･･
にしても相変わらずのラブラブムードに胸焼けしてきました。･･･ので、そろそろ落します。
ちょっとご無沙汰だったあの人がそろそろ出てくる予定。
しかし谷に入ると山に登るのが難しい（涙）