Brambly Hedge
―茨の境界―
〈7〉
「じゃあ、早く眠りなさい」
父親らしい慈しみある声音で言って出て行く館長を見送り、ふう、とシンイチは一息つ
いた。
――彼を、気に入ったんだろう?
そういう彼の言葉に、頷く事しか出来なかった自分をつくづく情けないと思いながら、
結局は何も言い返せなかった。
それから数分の間だけユウサクと話し、ずっと機会を窺っていた事を頼みはしたが、
結局はあの偽者の客の正体は掴めず仕舞い。流石は自分の父だと言いたい所だが、はっ
きり言ってかなり悔しかった。
「・・・・・・部屋、帰ろう」
とポツリと呟いて、シンイチはいるだけでも疲れてしまいそうな豪華な客用部屋から出
て自室へと向かった。
カイトはコナンに連れられてナイト・リリーの出口へと向かっていた。
「で、感想は?」
急ぎ足で歩くコナンは表面上は淡々として、しかし内心では好奇心一杯といった声音で
聞いてきた。
「最高。すっげー嬉しい。・・・・・・マジで惚れた」
至極真面目腐った表情でカイトは答え、見上げてくるコナンに向かってにっこりと笑い
かけると、彼の方もかなりの上機嫌を表すようにニ〜〜ッコリvvと笑った。
(・・・ん?なんか忘れてるような・・・?)
コナンのあまりの全開な笑顔に寒いものを感じて記憶を掘り起こし、思い当たった事に
思わずカイトは額に手を当てて溜め息を吐く。
「カ・イ・ト♪・・・約束だよな?」
わざと区切りながら可愛らしさを演出しているコナンは、上目遣いで
「約束、聞いてくれるよな?」
と更には天使の微笑みもとい、尻尾が見えそうな小悪魔の笑顔まで披露した。
一目の無い場所ではこんな事をしてもはっきり言って意味が無いが、生憎残念な事にこ
こはまだナイト・リリーの館の中で、ただでさえ目立つ二人は揃っていると似ている顔
立ちということもあり、正に「弟に可愛く強請られる兄」の図を作り出してしまってい
る。
これでははぐらかすなんてこと出来やしない。
カイトは内心で本日数度目の溜め息を吐き、如何にも仕方ないという感じで言った。
「・・・俺は、何をすれば良いのかな?」
なんでも一つ、望みを叶えさせて頂きますよ。
「あのな・・・・・・」
にっこりと満足した笑みを浮かべ、コナンは内緒話でもするようにカイトの耳元に小さ
く囁いた。傍から見れば実に仲睦まじい光景だ。
「・・・――――、――――――」
短く告げられた言葉にカイトは目を見開き、コナンに了承の意を告げた。
「・・・・・・・・そういうことなら」
喜んで。
「よろしくな」
「勿論ですよ」
ニヤリと笑い合い、丁度ナイト・リリーの玄関口まで来た処で二人は別れた。
パタンと扉を閉じ、シンイチは明りも点けずに慣れた仕草でベッドへ真っ暗な部屋の
中を進んだ。キシキシと床板が小さく軋み、閉ざされた視界の中では聴覚と感覚だけが
冴え渡る。
色んな事があって敏感になった神経だと特に、だ。
「疲れた〜〜・・・」
と普段人前では決して洩らさない言葉を吐きながら、ボスリと程良く柔かいベッドに寝
転がってふと窓の外を見上げた。
(月が―――・・・)
視線の先には柔かく夜の闇を照らす月が、曇っていた雲の合間から姿を現していた。
シンイチは思わず先程横になったばかりの体を起こし、ベッドから降りて窓辺に近づい
き、まだ満月には少し遠い月を見上げた。・・・そして、今夜会った彼の事を思い出す。
月の無い夜空を、何かを追い求めるように見上げるその面はどこか辛そうで、しかし
誰にも動かせない決意の炎を孕んでいた。
「・・・・・・綺麗、だったな・・・」
シンイチは静かに月を見上げながら呟く。
どんな客よりも客らしくない微笑みを向けた男。彼の紫の瞳が。そこに宿る強い力が。
シンイチを捕えて離さない。
思わず月に見入ってしまっていた自分に気がついて、シンイチはいつの間にか詰めて
いた軽く息を吐き出し、屋上へと続く階段のあるベランダに薄い夜着のまま降り立って
ゆっくりと石造りの階段を上った。
一歩のぼる度に月に近づく気がするなんて、馬鹿みたいだと自嘲しながら。
アパートに戻ったカイトは、ジイの気配も上の階の住人達の気配もない事を確認して
から、のんびりと大きく取られた窓から空を見上げた。
ダークグレイの空を覆っていた厚い雲は、既に小さくちぎれてその動きで風の流れを
示しており、広大な天上に斑模様を作り出す雲の隙間からは時折隠されながらも悠然と
月がその姿を現していた。
手の届かないその場所から目を逸らし、比較的高い所にある部屋から見下ろす位置に
あるナイト・リリーの別館の屋上を見遣ってカイトは思わず固まり、珍しすぎる幸運に
信じてもいない神に感謝した。
つい最近想いの人であると自覚した対象が、見下ろした別館の屋上に佇んでいたのだ。
(うわ〜〜ラッキー♪)
思わず節を付けて唄い出してしまいそうな軽い足取りで、カイトは早速部屋を出てアパ
ートの屋上に上り、軽くその手を振る。
その一瞬、気配に敏感な者がいれば総毛立ってしまうような冷涼な空気が、彼を取り
巻いた。
次の瞬間白いスーツに、バサリとどこからともなく現れた同色のマントが翻る。
「・・・・・・怪盗たる者、絶好のチャンスは逃すべからずってな」
ニヤリ、と「怪盗キッド」の空気を纏わせた彼は不敵に微笑み、その白い翼を広げて躊
躇いもせずに屋上から飛び降りた。
緩やかな風が流れる中、彼はその場所に一人佇んでいた。南天を通り過ぎようとして
いる月を見上げ、届かないと解っていながらも思わず腕を差し伸べる。
彼は、この月を見て何を思っていたのだろう・・・
ほんの数分話しただけの男に未だに思考を捕われている自分に苦笑しながら、それで
もシンイチは彼の事に思考を馳せる事を止められなかった。
そう、突然背後に覚えのある気配が現れるまでは。
彼は、鳥の如くそこに舞い下りた。
人が翼を持つ事など有り得ないはずなのに、たったその身一つで、ナイト・リリーの
関係者以外では絶対に入ってこれないはずのこの場所に姿を現したのだ。
夜の気配。あの会話の中に潜んでいた獣の気配。触れれば切れてしまいそうな冷涼さ
と体の奥から燃やし尽くされそうな強い炎と・・・どこか慈しみを持った優しさを孕んだ
空気。
(・・・・・・なんだろ、変な感じがする・・・)
ふと彼のあの横顔を見た瞬間にも感じた、胸の奥に灯った感情にシンイチは内心首を傾
げ、優雅な動作でこちらへと歩み寄って来る名も知らぬ男に強い視線をぶつけた。
「・・・こんばんわ」
「お前・・・どっから来た?」
口調が完璧に素に戻っている事もこの際気にせずにシンイチは鋭く訊ねた。しかし相手
は怯む様子もなく、柔かい微笑みを向けて明るく要求してくる。
「お前じゃなくて、カイト。カイトって呼んで」
それは何ら強制力を持たない願いに近い言葉だったが、シンイチはその要求を飲む事に
全く不快感を感じなかった。
寧ろ、自らそれを望んでいたように、たった今告げられたばかりの名を唇に乗せる。
「・・・カイト?」
「うん、そうそう♪」
漸く呼んでもらえた、と嬉しそうに笑う彼にシンイチは眩しさを感じて軽く目を細め、
自分が彼の名を呼ぶ事に対する特別性を告げる事なく話しを元に戻す。
「・・・で、どっから来たんだよ?」
再び聞かれた問いにカイトは如何にも楽し気に微笑み、それこそ空を飛ぶ鳥のように大
きく両腕を広げた。
「・・・―――空からさ」
(鳥じゃあるまいし・・・)
半分呆れながらも何故か笑い飛ばそうとも思えず、シンイチはゆっくりと近寄ってくる
カイトを待ち、すぐ側まで来た彼の紫紺の目をじっと下から覗き込んだ。
「疑ってるのか?」
鳥じゃあるまいし、なんて思ってた?
「当然だ」
疑うに、決まってるだろう?
視線をしっかり合わせたまま言い、シンイチは自らの一歩を踏み出す事はせず、カイト
の自分なんかよりも余程男らしい腕が背中に緩く回されるのをただ感覚だけで感じてい
た。
「・・・酷いな。天使って言って欲しかったんだけど」
「そんなに鋭い目をした天使がいるかよ」
お前の目は、闇を知っている者の目だ。そうきっぱりと告げてやると、カイトは何故か
優しく表情を和ませてシンイチをまるで愛しむかのように抱き寄せた。
「面白い事を言うな」
耳元で囁かれた低い声に、背筋に何かが走るのをシンイチは確かに感じた。
「そうか?・・・ここの人間なら・・・誰にでも感じられる事だ」
それをしっかりと隠してシンイチは笑う。半分は脅し。もう半分はただ個人的な試練の
意味を持った微笑みだった。
そして逸らされない目に、浮かべられる穏やかな微笑みに――今まで感じた事のなか
ったような感情の在り所を漸く知ったのだった。
屋上に舞い下りて一瞬でマントを消し、そこに一人佇むシンイチを見て思わずカイト
は掛ける言葉を失った。
月明かりに煌く蒼の目は一心に天上にある月を見詰め、握れば折れそうな細い腕を届
かぬ空に向けて伸ばし、白を身に纏った彼の美貌はどこまでも儚く今にも消え入りそう
に見えた。
そのシンイチがこちらの気配に気づいて、無意識なのかは解らなくても微かな微笑み
を向けてくれた時、自分の胸がどんなに熱くなったかなんてきっと彼には解らないだろ
う。
繰り返される応酬に伴って響く少し高めのテノールは耳に心地よく、いつまでも聞い
ていたいと思わせる声音だった。
「――そんなに鋭い目をした天使がいるかよ」
ただ静かに彼の感じたままに語られる、偽りなき言葉。
お前の目は、闇を知っている者の目だ、と。
そう容赦なく突きつけられた時に感じた奇妙とも言える歓びを、彼にどうすれば伝える
事が出来るだろう。
(・・・多分、こいつだけなんだ)
自分を知って欲しいと思える、唯一の人。
漸くで会えたその存在に、思わずポーカーフェイスを崩して彼に微笑みかけ、抑えられ
ない愛しさに負けて抱き寄せた。
「面白い事を言うな」
その白い項に唇を落したくなるのを必死で我慢して、カイトは低く声が掠れているのを
自覚しながら彼の耳に息を吹き込むように囁いた。
ピクリ、とほんの微かに肩を揺らし、それでも拒絶の意思を示さないシンイチについ
期待したくなる。
「そうか?・・・ここの人間なら・・・誰にでも感じられる事だ」
体の震えを隠すように、シンイチは物騒な事を言い放ってから何かを試される感のする
微笑みを向けられた。
目を逸らせば負けなのだと、本能的に悟った。
だがそんな事の前に、稀有なる宝石に自分が映されている事を思うと、感じるままに
微笑みを浮かべてしまう。
「・・・そういえば、お前なんでこんな処に来たんだ?」
仮にもここは私有地であり、ナイト・リリーの別館の方の屋上だ。普通は本館の方に行
くのだろうが、彼のいない本館にカイトは用はなかった。
「そりゃ、お姫様に会いに決まってるだろ」
「誰が姫だ、誰がっ!」
「でも俺にとってはお姫様だよ」
言っただろ?俺はお前の全てが欲しいんだ、と。同じ台詞を、しかし前よりも数倍も膨
らんだ気持ちでカイトは彼に伝えた。
「・・・一目惚れ、なんて信じてなかったんだぜ?・・・その気持ちが初めて解ったよ。真剣
に、客としてなんかじゃなくて好きになったんだ」
好きだ、と。それは生まれて初めての告白だった。抱える愛しさを見せてやりたいと思
う。恋に時間なんて関係ないなんて古臭い台詞を言うつもりはないけれど、せめてこの
想いだけでも受け留めて欲しかった。
「ウソ、だ」
両腕を突き出して離された距離。見開かれた目が、僅かな拒絶を表す。自分が男娼であ
るという事実の所為か、とても信じられないと語る双眸にカイトは酷く胸が痛むのを感
じた。
何を言っているんだろう、とシンイチは一瞬自分の耳を疑った。
「好きだよ」なんて言葉、耳が腐ってしまいそうなくらい聞いた。それこそ夜の客を取
る度に囁かれ、何度その上辺だけの虚構に吐き気を覚えたか知れない。
目の前の男はそれと同じ言葉を、全く違う響きを伴わせて甘く囁いてくるのだ。この
上なく真摯な眼差し。熱の篭もった優しさを含む声音は、今まで相手にしてきた上辺だ
けの言葉を投げかける連中とは明らかに違っていた。
本気なのか。それともそれも弄ぶ為の演技なのか。・・・後者と考える事を感情が拒否し
ても、理性が疑う事を強要した。
「本当だよ」
両腕を突き出して緩い拘束から離れたシンイチは、返される誘惑に堕ちてしまいそうに
なる自分を必死で叱咤して否定した。
「嘘だ」
――騙されるな。
「本当だって」
(やめろ)
鵜呑みにしてはいけない。誘惑に落されても後で自分が辛いだけなのだ。
「有り得ない」
――本当は、信じたい自分がいるのに。
「信じてよ」
(嫌だ!)
「っ信じられるかよっ!」
これ以上惹かれたくなくて強く首を振って必死で拒んだ。だが、彼はそれを許さないと
でも言うように引き寄せ、今までにない強さで抱き締められた。
「信じろよ」
低く、強く響く声。鼓膜を刺激して脳に直撃するようなそれは、ほんの少しの苛立ちを
含ませて、聞くまいと思っていた頑なな心の中に強引に入り込んできた。
「信じろよ。この命賭けたっていい。・・・好きなんだ」
耳に直接囁かれる言葉は熱く、先程までの明るい雰囲気など欠片もない真剣な響きを持
っていた。
強い強制力のある言葉。それは率直にカイトの気持ちを告げているだけなのに・・・胸の奥
が、こんなにも熱い。
「――本気、か?」
こんな、男娼なんてやってる自分に「好き」なんて。それもたった一夜限りではなく、
本当の意味で好きなんて、正気の沙汰とも思えなかった。
なのに、彼は事も無げに笑って言うのだ。
「当然だろ。冗談で好きなんて言ってやれる程、俺は人間が出来てないって自覚がある」
何故か胸を張って威張れないような事を言うカイトに、シンイチは小さく吹き出して抱
き込まれたままクスクス笑った。
「・・・わかった、信じる」
(こいつだったら、信じても良いかな)
既に心を許してしまっている自分に内心苦笑し、シンイチはカイトに微笑みかけた。・・・
「客」には絶対見せない顔で。
今まで一度だって見た事のない微笑みに、そろそろ必死で抑えていた抑制が切れそう
になっているのをカイトはひしひしと感じた。
信じると言ってくれただけでも、頑なだった彼の心からすれば満足のはずなのに、貪欲
な心体はもっと欲しいと眠らせている獣を叩き起こそうとする。
「・・・それでさ・・・」
早速なんだけど。
「・・・なんだよ?」
訝しげに顰められた眉に、我慢できない自分に自嘲しながらもカイトは告げた。
「・・・返事、聞いていいか?」
「・・・・・・・・・・・・」
普通考えれば早すぎる要求に、カイトはきっと無理だろうなと言ってしまった自分と余
り期待できない希望に嘆息し、黙り込んでしまった彼の顔を覗き込んだ。
「っ・・・・・・!?」
しかし、意外にもその白い頬は赤く染まっており、シンイチは赤くなった顔を見られた
羞恥からか、目を合わせたままぶっきらぼうに言った。
「・・・好きでもない奴に、俺が仕事でもないのにこんな風に抱き締められて、大人しくし
ているとでも思ってんのかよ」
首まで赤く染めて、シンイチは耐えられなくなったのかぷいっと顔を背けた。半ば怒っ
ているらしい事は気配で感じ取れるのだが、赤くなったままでは可愛いとしかとても思
えない。
頭の中で教会の鐘の音がリ〜ンゴ〜〜ンと鳴り響いているのは気のせいだとしても、目
の前の喜ばし過ぎる結果にどこから喜べば良いのか解らなくなって、カイトは自分の頬
を抓る替わりに力を抜いて腕の中に収まっている愛しい人に問い掛けた。
「・・・マジ?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
答えは返らず、顔は背けられたまま。そして、照れたように赤く染まった顔色もそのま
まだった。
(うわっ・・・なんかすげえ嬉しい・・・どうしよ)
などと目先の幸運に大喜びして半ば放心していても、嬉しい事実が目の前にいるのだか
ら、男として取る行動は一つ。
「・・・な、キスしていいか?」
「・・・・・・うん」
素直に頷かれて、内心心の底から湧いてくる幸せを噛み締めながら、なんとか緩みそう
な頬の筋肉を引き締め、カイトは静かにこちらを見つめてくる蒼に微笑み、ゆっくりと
切望していた紅い唇に己のそれを重ねた。
あははは。漸くくっつきました。ええ砂吐いて下さい。存分に吐いてください。
もう砂糖でもメープルシロップでも(メープルはマズイだろゥー/佐倉)なんでも良いです。
あまっっ!!!めっちゃ甘ッッ!!!
ぶっちゃけ自分で書いてて泣きそうになった話。(あらゆる意味で)
さて、この後。裏が在ります。おそらく。多分。きっと。
簡単な所にしてもらう(佐倉に)予定なので、気が向いた方は探してみて下さい。
次ぎも甘いぞ〜(笑)