Brambly Hedge

                     ―茨の境界―





(6〉


ゆらゆらと揺らされる震動と、包み込むような温もりが心地良かった。




目を開けると、そこには見知った主治医の心配そうな、それでいて怒ったような顔が
あった。

「・・・・・・おはよう、シホ」

そう言って半ば誤魔化すような笑みを浮かべると、相対する彼女ははぁ〜と深い溜め息
を吐いてシンイチの手首を取った。

「・・・おはようじゃないわよ。まだあなたが倒れてから30分も経ってないもの」

「へえ、珍しいな」

いつもなら、一度倒れてしまえば次の日の朝までは、回復するまで昏々と眠り続けてし
まうのに。

脈を計り終わったらしく、「どうせなら朝までゆっくり寝かせたかったんだけど」と
シホは手首を放して軽くシンイチの額に手を当てながら呟き、ゆっくりと立ち上
がった。

「熱は無いし、呼吸の乱れも無いわ」

その口から出たのは、いつもと同じ台詞。しかし、シンイチは彼女の目の中に確かな迷
いがあると見て取った。

「それで?」

彼女の迷いを十分に知りながらも続きを促す。シホはシンイチの事を良く知っているか
らこそかなりの間躊躇し、その躊躇いを微塵も感じさせぬようなしっかりとした口調で
告げた。

「・・・・・・いつもの部屋で、お客が待ってるわよ」

「了ー解」

一言微笑んでみせてから、シンイチは今まで自分が寝ていたベッドから身を起こした。

再度、お客を迎える為に。




(・・・・・・男、のはずだよなぁ・・・・・・)

今さっきまで彼に触れ、あまつさえ抱き上げて運んでいた感触に浸りながら、カイト
はその腕に掛かった重さにかなりの不安を感じていた。

何しろ、ホールで気を失った彼を抱えた腕に掛かった負担はあまりにも、少なく気を
失しなった人間は普通は重くなるはずなのに、シンイチには全くその言葉が当て嵌まら
ないくらい軽かったのだ。

じっとわきわきと開閉させる己の手をカイトは見つめ、ふと思い付いて前方を歩くコ
ナンに訊ねた。

身長、体重、スリーサイズはいいとして、

「なあ、シンイチって歳幾つ?」

見当としては、同年代だと思うんだけど?

質問への返答は、極々単純な、楽しそうな笑顔だった。




たった独りになった部屋の中で、シンイチを見送ったままの体勢でぼんやりと閉めら
れた扉を眺めていたシホは、本日で最大の溜め息を吐いた。

じっと己の掌を見つめる。視線の先にあるのは白くて華奢な、無力な手だった。

医者の免許も取らずに彼の主治医を名乗ってもう何年にもなるが、その間にも彼は随
分と痩せてしまった。今夜の客は彼と同年代であっただけに、普通の男性が見せる成長
をいかに彼が遂げられなかったかを見せ付けられる気がした。

(・・・コンプレックスに嵌まってなければ良いけど)

ずっと華奢すぎる自分の体にもどかしさを感じていたシンイチを知っているから、尚
更シホは思った。

今夜の彼が、本当にコナンの見立て通りであれば良い。普段は特に意識している訳で
はないけれど、実際にはコナンの人を見る目には一目を置いているから、心配する事は
ないと思うのだけれど。

全てが上手くいけば良いと思う。コナンが見立てた彼が、自分達にとって一番大事に
思う彼の唯一の救いになるはずだから。

「・・・邪魔、しないでよ?」

そっとシホは部屋の片隅に現れた影に向かって小さく囁きかけた。影はクスクスと艶
やかな笑みを洩らして

「さあ・・・どうかしら?」

と言って、音も立てずに姿を消した。その気配をシホは闇に慣れた目で追って、ふと息
を洩らして体の向きを変えてカーテンを引かれた窓の向こうの夜空を見遣った。

窓の外は生憎の曇り空で、夜に輝く女王の姿は見えない。何故か満月の夜は館に入る
客も多く利益も多いから、この館の人間に人を狂わせるといわれる満月を畏れる者はい
なかった。

月が出れば良い。もっとこの館に人が集まれば良い。それはただただ単純で、それで
いて切なる願いだった。

たった一人のために。




「・・・なんだよ、ここ・・・」

コナンによって通された部屋に思わず快斗は呆気に取られた。部屋の造りがやたらと
豪奢で美しく、正面の門にも圧倒されたものだったが、はっきりいってこれは桁が違う。
正に貴族様方や高官達だけが入る事を許されているというような部屋だ。

因みに、名前を「象の鼻」というらしい。

ネーミングセンスはどうあれ、扉の正面には今はカーテンが閉まっているが大きな窓
があり、繊細なレースのテーブルクロスの掛かった猫足のテーブルの上には皿に盛られ
た新鮮な果実とワイングラスとボトルワインが置かれ、見るからに柔かそうな天蓋付き
ベッドはキングサイズである。

全ての色彩は赤系統や黄系統、黒系統の色で統一され、それらの色はこちらを圧倒す
ると共に軽い興奮を視覚的に齎した。

(・・・おれ、なんかとんでもない所に来てねえか・・・?)

と少々色んな意味で気後れしそうになりながらも取り敢えずカイトは中に一歩踏み込ん
だ。そして、ふと思い付いた事を背後にいるコナンに聞いてみた。

「なあ、今夜もシンイチ客取ってたんだろ?大丈夫なのか?」

「・・・なんとかなるさ。それに、俺今夜の客ははっきり言ってあんまり好きなタイプじゃ
ないんだ」

ひょいっと肩を竦ませてコナンは本当に何でもないように言った。コナンが何よりも新
一の事を優先して考え行動している事はカイトは解っている。こんな事をして勝手に彼
の客を妨害する事はあまり珍しくないのだと彼の主治医と名乗る美女が言っていたのを
思い出した。

好きなタイプじゃない・・・それはつまり、コナンが大事にする彼にとってもいい客では
ないということになるのだろう。「コナンの人選は信用できる」と言っていたのは確か
ヘイジだったか。

「ああ、でも早く済ませなよ?あの客がいつ感付くか解らないからな」

元々は横からこの部屋に入る権利をぶん取ったのだ、いつ本物の客が気づいて乗り込ん
でくるか解らない。・・・そして、その状況はカイトにとって非常にマズイもの
だった。

その「客」とやらが自分の予想通りであったらの話だが。

「わかった。サンキュ」

悪かったな、無理言って。礼を述べ、大したこと無いからと言うように気軽に手を振っ
て出て行くコナンを見送り、カイトは正面にある窓のカーテンを開けた。

(早く来ないかな〜♪)

と既に開き直っている自分に内心苦笑しながら、明らかに楽しんでいる笑みを口元に刻
んで。


待ち人が現れたのは、それから時間にして30分後のことだった。しかし、ずっと楽
しみにしていただけに、カイトにしては1時間とも2時間とも知れないくらい、その待
ち時間は長いものに感じた。

だが、1秒ごとに下降していった機嫌は、現金な事に入ってきた彼を見た途端急上昇
した。

「――お待たせしました」

といいながら扉を開けて入ってきた彼は闇に溶け込むような黒の簡素なドレスを纏い、
特に飾り気も無いそれは彼の皓い美貌を一層際立たせていて、ウィッグは外したのかサ
ラサラと癖のない短い髪は偽りのそれよりもよっぽど艶やかだ。

光を宿す蒼の瞳がこちらを射抜く度に、ゾクゾクと快感が背筋を走るのを感じた。

「いいえ、然程待ってはいませんよ」

ニッコリと微笑み返し近づいてきた彼を引き寄せて、間近から彼の顔を覗き込む。

「それは、良かったです・・・伯爵様」

紅い唇が悪戯っぽい笑みをつくり、彼は好奇心を宿した目で視線を合わせながらカイト
の首に緩く腕を絡ませてくる。ゆっくりと近づいてくるその艶に思わず見惚れながら、
カイトは理性のギリギリの所でその唇に口付けてしまいたい衝動を押さえつけた。

ピタリ、と唇同士が触れ合う直前で彼は動きを止め、魅惑の笑みを象った唇が小さく動
いた。

「・・・貴方は、何をお望みですか?」

お前は、俺の何を見ている?

その問いかけは一種の試練。紛れも無く、目の前の彼に試されているのだと伝わって
くる気からひしひしと感じながら、彼の問に答えるべく静かに口を開いた。

「――貴方自身を」

そう、目的が彼の所有する宝石から彼自身に変っただけ。盗み出すのには変りないのだ
から、どうせならば両方とも盗み出してしまおう。

ここに来るまでの一週間。待たされてからの30分。悩み続けて出したカイトの答え
だった。



ゆっくりと重厚な扉を開ける。その向こうには見慣れた異質な空間と一人の客人が佇
んでいた。

夜空を見上げる姿。それは何かを切望しているようにも見えて、思わずそのひたむき
な表情にシンイチは息を呑んだ。しかしそんな素振りは全く見せずに「お待たせしまし
た」とだけ言いながら中に入り扉を閉め、彼に近づいた。

「いいえ、然程待っていませんよ」

と柔かい笑顔で答えて、伯爵を名乗る男は優雅にシンイチの手を攫って引き寄せ、間近
から顔を覗き込まれた。

遠目から見ても解った隙の無い立ち居振舞い。取り巻くのは金持ちのオボッチャマや
平和ボケしている警邏の人間などは到底持ち得ない、冷涼でいて静かな雰囲気だ
った。

ホールでダンスした時とはまた違う、底知れない落ち着いた気配に、シンイチは持ち前
の好奇心がゾクゾクと煽られるのを感じた。

「それは、良かったです・・・伯爵様」

近づいてきた紫がかった綺麗な目に見入りながら、シンイチは薄くルージュを引かれた
唇でほんの少しだけ素の自分を見せて笑顔を作る。剥き出しの自分など簡単に見せてや
らない、夜を売る自分にはある程度の秘密と神秘が必要なのだから。

じっと彼の目と目を合わせながらシンイチはカイトの首に緩く腕を絡ませ、自分より
も僅かに高い顔に、背伸びしながら自分の顔を近づけて口吻ける直前で動きを止める。
キスするつもりなど毛頭無かった。

「貴方は、何をお望みですか?」

その体勢を保ったまま、シンイチは更に深い笑みを口元に刻んで囁く。そう、自分には
沢山の客が来るのだ。・・・そして、この男はシンイチの勘によるならば「歓迎できるが歓
迎すべきではない」客であると感じていた。

しかしここに通されているのだからコナンによって選ばれて通されたはずだから、客
は客と割り切ってじっと彼の答えを伺った。

「――貴方自身を」

・・・返されたのは随分とまた、珍しいが珍しくないという矛盾を抱えた解答だったが。



自分を欲しいという人間ならば、はっきり言って掃いて捨てるほどいる。冗談でも何
でも無く老若男女見境無く金のある者はそれを山のように積み上げて自分を買い求めよ
うとする。

そういう処にいけばタイヘン宜しくない目に遭うという事は過去の実状でもはっきり
しているので、シンイチ自身は特にこの館から誰かに出してもらおうなどと思った事は
なかった。

そう、それは大概の場合は遊び同然の玩具への執着で、愛や慈しみなど一切無い。

特に貴族階級の人間はその傾向が激しい、というのも過去の経験上からシンイチは理
解していた。

別に愛や慈しみを求めている訳ではないが、玩具にされるのも面白くない。男に抱か
れる身でプライドも何も無いかもしれないが、こっちだって好きで抱かれている訳では
ないし、自己認識で言えばシンイチのプライドは山どころか空よりも高かった。

最後の一線を譲らない替わりに妥協してやっているだけなのだから。

しかし、彼はそういう人間とはどこか違っていた。瞳の奥に熱い欲望を納めているがそ
れを露にしようとはせず、力ずくではなくあくまでも自分に真摯に語り掛けてくるよう
な者など、今まで一人もいなかったのだ。

ホールで踊ったあの時から好奇心と共に抱いていた疑念が、確信に変った瞬間だった。

「・・・貴方は・・・本当に伯爵様ですか?」

自分の素の言葉ではなく、一枚の接客用の薄いフィルターを通して訊ねる。この男は違
う。本能とも言える培われてきた勘がそう告げていた。

「私は伯爵様には見えませんか?」

茶目っ気をたっぷり含んだ顔で、彼はシンイチの頬を軽く撫でながらまるで睦言でも囁
くかのように聞き返す。その仕草にゾクリと体の芯が熱くなるのを感じた。

「ええ。・・・どこか違う感じがありますね。」

あっさり言い切ると、彼はつくづく可笑しそうに笑って目だけで何故?と聞いてきた。
それに答えるべく、シンイチは彼の首に絡めていた腕を外し、警戒している証にさり気
なく距離を取った。

「貴方には違和感があります。貴族特有の値踏みするような視線は感じないし、興味や
好奇心というのもあるでしょうがそれがはっきりとした目的ではない。・・・何も違和感を
感じるなというのが無理な相談でしょう」

なにせ、彼のような人種は初めてなのだから。ぱちくりと目を瞬かせつつも次第に笑み
を深めていく目の前の男に、シンイチはますます強い好奇心を抱いていくのを自覚して
いた。

「貴方からは一般の客とも上層階級の客とも雰囲気が違う。・・・そう、その言葉遣いも、
作っているものなんでしょう?」

小さな違和感の一つはそれだ。言葉遣い。それ一つで人の印象は大きく変り、己の本質
を隠す役割を担う事をシンイチは熟知している。

「・・・勘の鋭い方だ・・・」

相変わらず微笑んだまま言ってくる彼に、シンイチは「元の話し方にしていただけませ
んか?」と伺った。何かのベールで覆われたものではなくて。彼自身の本質が見たいと
思っての事だった。

確かに自分は興味を持ったのだ。この、偽りの伯爵を堂々と自分の前で名乗ってみせる
不敵な男に。



目の前に佇む彼に、カイトは内心ずっとほくそえんでいた。今まで誰も自分の内に隠
した素顔に、こんなに安々と潜り込んで触れてきた人間なんていなかったのだ。

何れは怪盗KIDとしてここに獲物達を頂きに来るつもりなのだから、はっきりとし
た正体を告げる気も無かったのに、彼の「戻して頂けませんか?」のたった一言ですぐ
さま素に戻ってしまいそうになる自分に思わず笑ってしまった。

「貴方も素で話して下さるのならば、すぐにでも戻しますよ」

そう言って条件を付けたのはある意味で男の意地のようなものだが、それと同時に全く
作られていない自然な彼の顔を見たいと思ったからだった。

どこか頑なに仮面を貼り付けている彼に気づいていたから、拒否されるかなと思った
が、意外にも腕の中の彼は一瞬にして緊張を解いて、小さく苦笑した。

「わかった。・・・つくづく変な奴だな」

俺の素の顔なんて、誰も見たがった事など無いのに。

その、気配。仮面を被る事で薄らいでいた、強烈な存在感と瞳の力が間近から伝わって
きて、思わずカイトは自らの中に確かな答えを見出した。

「言っただろ?お前の全てが欲しいと」

ずっと探していた相手。自分の全てを曝け出しても、自分の命を懸けてしまうことも
許せてしまうと思える唯一の理解者となり得る存在は、正しく目の前に佇むこの人であ
ると。

長く、長く感じ続けていた焦燥が、胸の奥から音も無く消えていくような感じがした。

それと同時に沸き上がってくるのは、あって間も無い人に捧げる目一杯の愛しさだけ
だった。

しかし甘い予感についつい浸ってしまおうとしたカイトに突きつけられるのは無情の
一言に尽きそうな言葉だった。

「・・・そんなの、無理だ」

極々普通の反応。彼を欲するならば、まずは彼をこの籠から出さなくてはならない。そ
れがシンイチならば尚、並大抵の事ではないと思うのだが。

「無理じゃない」

何の根拠も無しに断言し、カイトは目の前の細い体を掻き抱いた。拒否して首を振る彼
の姿が、随分と頼りないものに見えた。

「俺は男娼だぜ?まだ年季も明けてないのにこの檻から出ようなんて・・・夢のまた夢さ」

彼は皮肉に笑って言う。――その目は「お前に何が出来る?」と言っていた。

(・・・やってやるさ)

その呟きは内心だけに止め、カイトは決意に満ちた微笑みを向けてシンイチにゆっくり
と顔を近づけていき、二人の距離が自然と無くなろうとしていた・・・

その時だった。


「彼の今夜は僕が買ったはずでしょう!?」

「「!」」

 ばっと二人は勢い良く離れ、閉じられたままの扉の方を見遣った。

「金は払ったんです、今夜彼は僕の物になるということでしょう。なのにコナンと言っ
たあの少年はなかなかホールに現れないし、待たされたまま何故か違う者の所へ連れて
行かれるなんてどういう事なんです!?」

「どういうことと申されましても手違いが御座いまして、伯爵様には申し訳ない事をし
たと思っております、申し訳ありません」

「申し訳ありません、お客様。僕が手違いを犯してしまったばっかりに」

三人分の声が突然扉の向こうから聞えてきた。一つはコナン、一つは館長、一つは・・・
やけに聞き覚えのある声だった。

「・・・本物の伯爵様、か?」

「・・・そうみたいだ」

「・・・コナンの人選、当ってたな」

「え?」

ぽつりと呟かれた言葉に「何?」と聞き返す暇はなかった。扉の向こうから

「そう思うなら早くその扉を開けて下さい。僕はもう一秒だって待てませんよ」

という声が聞えてきたのだ。今すぐにでも入ってきそうな勢いの言葉にカイトは内心慌
てた。扉の向こうにはあの野郎もとい史上最悪に相性の悪い人物がいるに違いないのだ
から。

「こっち」

ここに隠れてろと言って彼が指したのは扉のすぐ脇で、内開きの扉が開けば死角になる
位置だった。

「扉が開いたらとっとと逃げろよ?」

「警邏の人間に突き出そうと思わねえの?」

たかが客のはずの自分を庇おうとしてくれる彼に不思議になって聞いてみると、彼はす
ぐ間近で綺麗に微笑んで言った。

「思わない。だってお前は間違えてここに来て、偶々ここに来る事になってた俺と会っ
て話をしていただけだろう?」

別に警邏に突き出す必要もないさ、と軽く彼は言ってのけ、静かにドレスの裾を翻して
扉正面の窓の前に立った。

明るい月が、雲から姿を現す。

賑やかな夜を象徴するような月光が、夜色のドレスを纏う彼のいっそ神々しく引き立
てていた。

「っ・・・・・・」

彼の視線は、開かれようとしている扉に向いている。その視線を自分に向けて欲しい。
今すぐに彼をこの腕の中に再び閉じ込めてしまいたい。

欲望は切実な願いと変し、それは新たな目的となってカイトの胸に刻まれた。



バンっ!と盛大な音を立てて視線の先の扉が開かれた。気に入ってしまった得体の知
れない男は扉の影に佇んだまま、先程と同じ視線を自分に向けてきている。

(・・・無粋な客だな)

伯爵ならばもっと優雅な登場の仕方もあるのだろうに。足音を荒げて入ってくるその様
は、着ている衣装こそ高価なれどその辺にいる一般の男共と何ら変らない。むしろ、本
来の客が帰って来ても尚、静かに扉の裏側にいる男の方がよっぽど落ち着いている感が
あった。

内心ではそんな事を思っていながらも、シンイチは待ったく表に出さずに久しぶりに
他人の前で外した仮面をもう一度被り直した。客の前では本心を出さないのはシンイチ
の信条だ。さり気なくテーブルに一輪の赤い薔薇を残していった男は別だったが。

より効果的な笑顔を客に見せて注意を引き付ける。その隙に先程の男はコナンに導か
れて姿を消した。

残ったのは、自分と館長と・・・今夜の本当の客のみで。

如何にも貴族ですと言った感じの雰囲気を漂わせ、何とか体裁を取り繕った笑顔と気取
った仕草で歩み寄って来る伯爵に、一瞬見えたコナンの嫌そうな顔に納得した。

(・・・本当に、コナンの人選は正確だよな)

絶対に自分の不利になるような人間はここに通してこない。もしも買い上げられたとし
ても、どこかで必ず邪魔するのだ。・・・今夜は失敗したようだったが。

「初めまして、ハクバ伯爵です。・・・ようやく貴方に会えて嬉しいですよ」

「それはそれは・・・アリガトウゴザイマス」

ニッコリと作りきった笑顔を向けて一礼してやると、ハクバは面白いくらいに顔を真っ
赤にした。何を考えたのかは知らないが、シンイチにして見ればこの男の思惑などどう
でも良かった。

(・・・ヤル気満々って感じだけど・・・はっきり言って気が乗らねえんだよな・・・)

乗り気になった事など一度たりとも無いし、今までどんな事が有っても仕事だけは淡々
とこなしてきたのだが――今夜は特別と思えてしまうくらい、名前も聞かなかった男の
存在はシンイチの奥深くまで入り込んでいた。

幸い、館長がまだ残っているし、一応味方はしてくれるようだし。

(とっととこいつ追い出して・・・寝よ)

流石に疲れているし早く寝たい。顔色だってそろそろ悪くなってきているだろう。それ
を盾に取ればなんとでもなると考え、シンイチはさり気なく口上を述べる伯爵から視線
を外して館長に目配せを送った。館長はその合図に口元に笑みを浮かべる。

自己完結して心を決めた後の行動は早かった。

「ハクバ様」

と今さっき告げられた相手の名前を呼んで黙らせ、とびっきりの笑顔を無料サービスし
てやり、相手が惚けているうちにと館長とタッグを組んでさっさと伯爵を部屋から追い
出した。

口を挟む隙など一切与えずに、煽てて宥めて納得させて、丁重すぎるくらい丁重に送り
返してやったのだ。

当然のようにシンイチはそれを見送って、あー清々したと一度伸びをして小さな欠伸
を一つ、というところで、部屋から出たものとばかり思っていたユウサクが小さく笑い
を洩らした。

「・・・随分と気に入ったようだね?」

指し示されたものは、解り切っているからシンイチは敢えて聞こうとしない。無駄だか
らだ。訊ねる事は確実に自分で考えても知ることが出来ない事のみ、という規定がこの
親子の間にはあった。

「あの客の事、何か知ってるのか?館長」

質問された事には答えず、シンイチは館長に聞き返した。

「二人っきりの時には父さんと呼んで欲しいね」

「どこの世界に息子を身売りさせる親がいるんだよ」

「でも踊るのは嫌いじゃないだろう?客を取るか取らないかはお前次第じゃないか」

それに、儲ける事に異はないんだろう?とわざと確かめられて、シンイチは頷く事しか
出来なかった。本当に儲ける事に異論はないのだ。その為だけに生きているといっても
過言ではない。儲けるといっても、むしろその先にある事の方にシンイチの目的はあるのだが。

「・・・でも、今夜のは強制だったんだろう?」

いつもなら、自分の買い上げは酷い時は1ヶ月前から相手が決められていて、あの伯爵
が自分を買い上げる事など本来ならば到底不可能な事の筈だった。元々、コナンから聞
いた事では今夜は本当はお得意様である公爵のお嬢さんをお相手する筈だったの
だ。

金と権力には逆らえない。今も昔も、そしてきっとこれからも逆らえない法則。それ
に動かされる自分は嫌いだが、シンイチはそれを嵩にきて動かそうとする人間がもっと嫌いだった。

「伯爵だしね。君も嫌そうだったし、どうとでもなるさ・・・彼を、気に入ったんだろう?」

見透かすような言葉に苦笑して、後者の言葉の内容に、折角逸らした話を戻されてしま
った事に気づいた。

こちらの心の中を覗き込むようなダークブラウンの目にじっと見据えられて、シンイ
チは金縛りにあったような感覚に襲われたが、なんとか気力で振り切って父の目を見返した。

気に入った。そう、確かに自分は気に入ってしまったのだ。

きっと―――
















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カイト君が一発で偽者だってバレちゃってます・・・それでいいのか怪盗キッド(笑)
いやいや、やっぱシンイチさんだからこそですねv
しかしカタカナで呼び合わせる事に果てしない違和感を感じる6話・・・でも漢
字にしても舞台が一応中世
ヨーロッパだからそうみると余りにおかしい(苦笑)
さて、次は急展開です★