Brambly Hedge

                                        ―茨の境界―











                    〈5〉


            流石に体がきつい、と感じずにはいられなかった。ここ最近体調が
     良かったから特に
           心配していなかったし、昨日の仕事だって上手くいったと思う。

            なのに、意識とは裏腹にステップを踏み続ける体がこんなにも重い
     なんて。


            まずいな、なんて思った時にはもう遅いのだ。




            彼の歌が終わった直後も、熱は冷めずに継続してホール中の人間を
     煽り、いつものナ
           イト・リリーの光景がそこにはあった。

            騒がしく曖昧にも統制が取れている楽隊達が、熱の波を彼の後を受
     けて煽り立ててい
           く。その中に、即席で張られた小さな幕があった。

          「・・・・・・あの中で何やってるのか・・・って聞きたいけど聞いちゃいけない気がするんだ
          よなぁ・・・」

          時折中からはみ出る布切れだとか、ちょっと幕の下の方から見える幾
    つもの足だとか、
          それを自分の真隣で見守るコナンの目が妙に怪しげだとか。

            ・・・世の中、考えない方が良い事だって在るに決まっている。こ
     の場合は妄想するのも危険そうだ。

          そう心に決めた瞬間、カイトはコナンに肩を軽く叩かれた。

          「・・・カイト、行くからね」

          にんまり、というのが最も合っているであろう笑顔を自分に向けて、
    コナンはカイトの背後の人波の中に紛れていった。初めの約束を果たす為に。

          (・・・何をするんだか)

            コナンの思考は想像に難い代物だったが、今回ばかりは想像しなく
     てもいいものだとカイトは理解していた。自分の望む方向に動いてくれると言うのだし、
     どうせ後々それ
           が何なのか嫌でも解るだろう。

          (さぁ・・・て、と。何をしてくれるのかな?)

          クスリとカイトは口の端を上げて、コナンが仕掛けたらしい「何か」
    がくるのを、好奇
          心を隠しもしない眼差しで、未だに隠された幕の向こうを見つめなが
    ら呑気に待った。




            この場所はある意味狂気の塊とも言えた。

            夜のこの館では、客も店員も犇めき合い酒と熱と欲望を交わしうね
     りの一部と化して いく。

            異常。ここは、そんな単純且つ複雑怪奇な言葉の似合う場所だ。そ
     して、おそらく自分だけはどんな事があっても訪れないような場所だと思っていた。

            ここでは真っ直ぐ立っている事はできない。誰であれそれは不可能
     な事に近い。ここの熱に巻き込まれてしまうしかないのだ。それを認識したのは初めて
     来た瞬間の事。

            ここに初めて入ったのは一週間前。よく会う友人に誘われて、余り
     来たくはなかったが「今日は特別なんだ」と言われて半ば無理矢理連れて来られた。

            サグルは・・・そこで奇跡を見た。

            たかが踊り。しかし、「彼女」が体現していたものは、今まで見たことの無いような
          熱と生気の結晶だったのだ。

            伯爵という地位を持つ自分は、様々なパーティに出席しそれこそ沢
     山の見世物を見てきた。ただ目の前にて忙しなく腰を振り体をくねらせる女達や、力強
     さだけを強調した
          男達のそれを「踊り」として見てきた自分の概念を打ち壊し、「彼女」は固く閉ざされ
          ていた筈のサグルの心奥まで容易く入り込んできたのだ。

            あんな衝撃は初めてだった。

            そこに佇んでいるだけで目を眩まされそうな圧倒的な存在感は夜を舞う彼を思い起こ
          させたが、それ以上に確たる視線を向けながらこの小さな空間よりも
    遥か遠くを見据え
          る彼女の澄んだ蒼い目は、誰にも持ち得ないものだった。

            表情だけでなく気配までも見事に変えてしまう「彼女」の本当の姿は一体どんなもの
          なのか。

            知りたいという生来からの欲は切望となり、「彼女」を手に入れたいという欲はその
          姿を目に捉える一瞬毎に募っていった。

            今日の登場で、「彼女」だと信じていた人が本当は「彼」であったことには心底驚い
          たが、この際そんなことはお構い無しだ。

            彼自身が欲しい。それこそ、身も心も全て。この熱の籠から解き放ち、自分という鎖
          で縛り付けてしまいたい・・・例えそれが許されないことだとしても


            あれほどまでに拒んでいた場所に入り、馴染んでしまった熱に身を任せながら、サグ
          ルは陶然とした表情で己の中の欲望を熱く感じていた。

            手始めに、彼の今夜を館長に直に話して買った。普通の男娼にしてはかなり高額だっ
          たが――それはナイト・リリーの最高級娼婦とも言われるアカコと同じ位の値段だった
          ――目的の為には手段は選べない。それに、その金額は彼の値段としては妥当どころか
          安いくらいだった。

            もう、多分自分は狂気に取り憑かれてしまっている・・・とサグルは周りに見えない様
          に密やかに笑みを零した。

            そんな時だ。彼に良く似ていると言われる少年が、白い幕に囲まれてしまった彼を見
          つめるサグルに声を掛けてきたのは。

          「・・・ハクバ伯爵様ですか?」

            ニッコリと微笑みながら確認してくる少年に、彼に似ているなと思いながらも面識の
          無いはずの人物に名前を言い当てられて内心首を傾げながら尋ねた。

          「・・・そうですが・・・君は?」

          「コナン、といいます。シンイチの付き人ですよ。彼の今夜を買われたあなたを案内す
          る為に来ました」

          そう言いながら礼を取る姿は、こんな下町に場所に生まれ育ったにも関わらず優雅で軽
          やかだ。サグルはこの時初めて彼の名を知ったのだが、その後に知らされた言葉にその
          驚きは吹き飛んでしまった。

            ドクリ、と鼓動が高鳴る。

            とうとう彼に会えるのだ。こんな遠くからではなく真正面から。

          「それは・・・ご苦労様です」

            本当ならば今すぐ会いたい。だって、彼はまだホールの中心の幕の中にいて、そろそ
          ろ出てきそうな気配なのだ。それ故にこの場を離れ難いという気持ちで「こちらへどう
          ぞ」と促されてもなかなか動けなかった。

          「・・・どうしました?」

          中々この場を動かないサグルに、コナンは訝しむような表情でこちらを覗き込んできた。

          突然目の前にあった綺麗な顔に、サグルは驚いて思わず一歩後退すると、すぐ側にいた
          老人にぶつかった。そして老人が持っていたグラスの中身がスーツに小さなシミを作っ
          た。

          「も、申し訳ありません!!ああ、私はなんてことをっ貴族の方の衣装に染みを作って
          しまうなんて・・・今すぐ取ればシミは消えますのでどうか私めにこのスーツを預からせ
          て下さい、いえ、貴方様に即刻お返しする為にもどうか一緒に来て下さいませ!さぁさ
          あさあ!!」

          物凄い勢いで捲し立てる老人に、文句も抗議もあまつさえ断りの言葉も掛ける余裕も無
          く、サグルは突然のことに呆然としたまま力一杯強引に老人に引きられてその場を離
          れてしまった。

            鉄壁のようなニコヤカな表情を崩さないコナンを一人残して。



            呆然としたまま連れて行かれるサグルの後ろ姿を見送って、思わずコナンは小さく声
          に出して笑った。

            伯爵殿を連れ去った老人・・・ジイに「上手くあの伯爵を連れ出して下さい」と短く頼
          んだのだが、ここまであっさりいくとは全く思っていなかったのだ。

            予定より少し早かったが、タイミング的にはバッチリ。ついつい笑ってしまいそうに
          なる内心の心情を、周りからは鉄壁といわれるポーカーフェイスを貼り付けて隠し、快
          斗の元に戻った。

            行き過ぎなくらいに上手くいった経過に満足しながら、少し離れた処からカイトを見
          詰める一つの姿に形の良い眉を顰め、気づかなかった振りをして自分を待っているカイ
          トの元へ行ってさり気なく隣に並ぶ。

            その途端、周囲の人間は小さく感嘆の溜め息を洩らしたが、自分の容姿の良さには自
          覚がある上、カイトと自分が並んだ図であるならばそれは当然とも言っていい現象であ
          ったので完全に無視した。

            生まれ持った顔を意識的に使い分ける自分やカイトは「厄介」といえば厄介であろう
          が、自分なんかよりもよっぽど厄介な人物を間近で見えいるだけに、羨望や熱情の眼差
          しには何も感じない。

            自分のことより今のこと、とばかりにコナンはカイトにニコッと笑って小首を傾げて
          みせた。12歳の、男への変貌を迎える前の自分の姿の効果を計算し尽くした上で。

          「・・・カイト、どうしたの?凄い愉しそうだね」

            コナンが帰って来た時、既にかなり上機嫌だった彼はニヤリと笑みを浮かべ、その熱
          い視線を一心に幕の向こうに向けていた。自分になど見向きもしない。普通ならば腹を
          立てるところのはずだが、コナンは自分の人選の確かさに内心ほくそえんだ。

            それでいい、と。

          「ん〜コナンの手際があんまりにも良かったから感心してるだけだよ


          そういう彼の視線はやはり白い幕の向こうに置かれたままだ。多分、本心では着替えの
          準備の整った姫君が今にも出てきそうな気配に歓喜しているのだろう。

          「そう?大したことはしてないよ。・・・ああ、出て来るみたいだ」

          小さく肩を竦め、コナンは開かれようとしている幕に目を向けた。お姫様の青いドレス
          の裾がちらちらと引いて行く幕の向こう側からはみ出して見える。

            一人の紳士がのんびりとした動作で巻くの内から出てきて、既に集まっている注目を
          更に自分に集中させようと少し大袈裟な振りで両手を広げ、通りの良い熟女受けする声
          を響かせた。


          「Ladies  &  gentlemen―――!!」




            歌い終わって、自分の周りに広げられた白い幕に、これから起こることが容易に予測
          できて、思わずシンイチは幕の内側で溜め息を吐いた。

            丁度その時ユウサクが如何にも面白がっていますといった笑みで幕の隙間から現れ
          て、のんびりした口調であっという間に服を剥ぎ取られて着替えさせられていく息子に
          声を掛けた。

          「ついでだから、今日のお客様に会って行ったらどうだい?」

          偶には良いだろう?とまるでお見合いか何かを持ちかけるような軽い口調だ。しかし、
          「今日のお客様」ときたからには夜のベッドの方での仕事もしなくてはならないことを
          意味し、実の息子に体を売らせている親というにしては緊張だとか不安だとかいう感情
          がそこからは抜け落ちていた。

            こんな仕事についてからもう何年にもなるシンイチは、既に納得とまでは行かないも
          のの、この状況に思いっきり慣れてしまっているので全く違和感を感じず、館長として
          のこの態度は寧ろ自分の父親にしては極々自然なものだと考えていた


            こんな仕事を好きでやっている訳ではない。本当はもっとやりたいことが沢山あるし
          行きたいところもある。しかし、今はそれが叶わないと解っているので、ズルズルと続
          けてしまっている。要は「慣れ」だ。

          「・・・・・・性別は?」

          「男だよ。それもとびっきりの上流階級の家のご子息さ」

          勿論、と続けられそうなこれまた楽しそうな口調に、シンイチは盛大に顔を顰めて不機
          嫌を表した。繰り返すが、シンイチは別にこの仕事を拒否するつもりもやめるつもりも
          無い。しかし、男である自分が男に抱かれるという行為を好めという方が無理なのでは
          ないだろうか。

            そんなことを考えてみても、どうせシンイチに選択権はない。今自分にはれっきとし
          た目標があるのだから、それに向かって行かないとこの状況を打破できる訳が無いのだ。

            毎度の事ながら湧き上がってくる感情に、シンイチは何とか堪えて一度目を閉じ、ゆ
          っくりと瞼を押し上げた。その時には既に周りの女の店員達によって綺麗に化粧を施さ
          れているが、こういう場合でのいつものことだ。

          「・・・で、今日の男(ヤツ)のタイプは?」

          決まったことだし仕方ないな、と溜め息を吐いて館長に訊いた。狩り出されてしまった
          らしょうがない、いくら弾みでここまで出てきてしまったといえ、館の利益に貢献しな
          ければならない。それがシンイチの義務なのだ。

            相手の好みのタイプを聞き出して、その相手のタイプに合わせて演技するのはいつも
          のことだ。本気で相手をしたことはない。全ては遊びで、たった一夜の幻だ。本気にな
          ることほど馬鹿らしいことはない、と思い知ったのは随分前の話だった。

          「その前に相手を見たらどうだい?」

            ほら、二番目の柱の脇に立ってこっちを見てるよ、と言われた通り、自分の周りを囲
          う布の隙間から二番目の柱を見る。

          (・・・あれか)

            白いスーツを着こなす、同い年くらいの男。髪は癖っ毛で、口元には楽し気な笑みが
          浮かんでいる。顔立ちはどこと無く自分に似ている気がしたが、立ち姿の余りの隙の無
          さの方が驚いた。

            それにしても、一応自分はこの館の中で一番高い部類に入り、自分を買えるのは上流
          貴族の連中や警邏隊の高官達くらいだ。更にその中から一番高く買ってくれる人間を客
          人として迎えるのだから、はっきり言ってどんなに必死で稼いだとしても庶民階級の人
          間は滅多にお目にかからない・・・はずだ。

            なのに、自分の客となるらしい男の気配は、平和ボケしている貴族でも妙に堅苦しい
          ところのある警邏連中とも違ったものだったのだ。

          「・・・貴族ってカンジじゃないよな」

          率直な感想を述べてみると、はて、ととぼけるようにユウサクは首を傾げる。

          「そうかい?滲み出るような気品があるとは思わないか?」

          「思わねえよ。大体、なんで男ばっかなんだよ、他にも娼婦ならいくらでもいるじゃね
          えか」

          自由時間用から売り物用の服へと、館長と話していうる内に周りの女達の手によって着
          替えさせられた彼は、自分の姿を鏡で見せられ、溜め息を吐く。

          「女性の指名よりも男性の指名の方が提示された金額が高かったからさ。金儲けするこ
          とに関しては異議はないだろう?」

          身に纏っている服は、もう虚しいくらい着慣れてしまった女物だ。少し高いヒールの靴
          を履かされ、ロングヘアーのウイッグを被った姿はもう女にしか見えない。

            ユウサクの言う通り、金儲けして自分の利益にすることには努力を惜しまないし、そ
          のための唯一の手段なのだから、この体を売ることにもかなり抵抗があったがもう気に
          ならないくらいには慣れてきた。

            それでも、女装が似合うという辺りはかなり哀しいものがあった。生来生まれ持った
          女顔は、周りにマコトやヘイジがいる分シンイチに余計なコンプレックスを与えている
          といっても過言ではないのだ。・・・それも、もう慣れたが。

            ゆっくり深呼吸する。これからは、自分と客との一対一の戦いなのだ。落ち着いて状
          況を見極め、そして上手く客を落してしまわなければならない。

          「・・・モチロン」

          ニヤリ、とユウサクからの質問の後、数瞬だけ間を置いてシンイチは笑った。全ての準
          備が整えられ、彼の表情が勝ち気な少年から妖艶な男娼へと変貌を遂げる。

            息子の演技力と完成された美しさに満足した笑みを向け、館長は布の外へ出てショー
          の開始の合図の声を上げた。


          「Ladies  &  gentlemen―――!!」




            彼を取り囲んでいた幕が勢いよく取られ、一気に視界が広がってシンイチは思わず目
          を細め、口上を述べ終わってさっさと控え室に引いて行くユウサクを横目で見遣った後、
          始まった曲に乗せて手を翻しステップを踏んだ。

            ステップを踏みつつも周りの店員達の手を取り、踊りに参加させることで客達にも一
          緒に踊るのを促した。

            そして、自分は今夜の客の男の元へと踊りに合わせて体を動かしながら移動する。仲
          介人の役割も果たしているコナンの姿を見つけて、彼に向けて一瞬だけの微笑み送り、
          一曲目の終わりと同時にシンイチは今夜の客の男の前に立った。

          悠然と佇んでこちらを見ている男に、口元に笑みを刷いて告げる。

          「踊って頂けます?お客さん」

          「――喜んで」

          男は更に口元の笑みを深めて、シンイチが差し出した手に恭しく口接けた。

          (きっざなやつ〜〜)

          と内心では思い切り毒を吐きつつ、それでも表面上の微笑みは崩さずに、シンイチは今
          夜初めて会うはずの男に何かを感じ取りながら手を引かれてホールへと躍り出た。



            ホールの中の客達や踊り子達の間を器用に擦り抜けてながら、登場したすぐ後にスル
          スルとこちらへとやってくるシンイチに、思わず快斗は目を見開いた


          (な、なんだ?こっち来るのか・・・!?)

          などと内心かなり慌てながら、踊る彼の姿にしっかりと見惚れつつもカイトは煩く鳴る
          心拍を何とか静めようと、誰にも気づかれない様に軽く深呼吸した。

          「・・・な、なぁコナン。あの人こっちに向かってんじゃねえか?」

          恐る恐る、と彼の実の弟に当るらしいコナンに直接聞いてみると、面白おかしそうにニ
          ヤリと笑って簡単に肯定してくれる。

          「そりゃあね。・・・ああ、多分今夜のシンイチの客って事になってると思うから。後は
          自由にしていいよ」

          「多分って何だよ、多分って」

          「一応館長には旨く言っておいたけど、気紛れな人だからどうなってるのか俺にもわか
          らないんだよ」

          軽く肩を竦めていい加減な事をいってくれるコナンに、カイトは特大級の溜め息を吐い
          て表向きは悠然と見えるように彼を待った。その間にもコナンは「じゃあ、がんばれ」
          とさっさとどこかに姿を消してしまった。

            目の前に立った彼は自分と同じくらいか少し低いくらいの身長で、その輝く蒼い目は
          やはり遠目で見るよりももっとずっと美しかった。

            青いドレスを纏った彼は、優雅な動作で小さく一礼し、艶やかな笑みと共にゆっくり
          と手袋に包まれた華奢な片手を差し出す。

          「――踊って頂けます?お客さん」

          そう言われた瞬間、鼓動が痛い程に高く跳ねた。歓喜に震えそうになる声を抑えて、紳
          士のような仕草で彼の手を取り、軽く口付けてカイトは答えた。

          「・・・喜んで」

            そして、二人は踊り出した。

            熱く盛る熱の輪に解けて。




            何故かしら。そう考えては美貌の女はカリッと爪を噛んだ。

            本来ならば、あの客は自分の物になる筈だったのに・・・何らかのトラブルが大きな誤算
          を生んでしまったのかもしれない。

            この店以外の宿によく訪れるいい男がいる、という外の噂を聞いて、早速のその男に
          ついて占いを行った。そしてその正体まで暴き出し、ちょっとした罠まで張ったのだ。
    
        なのに、あの男の裡には彼が居る。

            憎悪や嫉妬などではない、単純な悔しさに支配されそうになる。欲しがっていた玩具
          を横から取られてしまったような感覚だ。事情は先程苦笑いを浮かべたコナンに聞いた
          ものの、やはり微妙に納得がいかない。

          (・・・全く、こんなにいい女が擦り寄って行ってあげても全然反応しないなんて)

          ふう、とこの店一番といわれる高級娼婦は艶やかな溜め息を吐いた。

            一応、ちょっとしたアピールはしたのだ。コナンが彼から離れているうちに。それで
          落ちなかった男はいなかったのに、簡単に断られてしまった。

          「踊りませんか?」

          にっこりと笑って見知らぬ男が手を差し出してきた。先ほどコナンが話していたのとは
          また違う、でも多分上流階級の男。
            ざっと値踏みして、まあまあだと言う判断を下してから、アカコは世界中の男達を魅
          了するとまで言われた笑みを浮かべてその男の手を取った。この館の誰もが持つといわ
          れる鉄壁の仮面の下に、ほんの少しだけ歪んだ笑みを浮かべながら。

          (・・・私を振った罪は重くてよ?・・・「白き罪人」サン)

          そう、例えそれが叶わぬ恋だと知っていても。




            それが来る時はたった一瞬。そのたった一瞬が、シンイチの無意識と意識の境目をや
          すやすと闇の中に呑み込んでしまう。


            踊るステップに迷いはない。時折軽いターンを決め、小さく在り来りな会話を交わし
          ながら、震えそうになる体を必死で押え込んだ。

            客との会話が楽しいと思えたのは本当に久しぶりだった。

            ダンスに誘った今夜の客らしい「カイト」は、随分と知能が高くて見識も深く、ほん
          の少しの会話からもその事を窺い知る事が出来た。態度は極々紳士的なのに、その紫紺
          の瞳の中には何か得体の知れない獣が住みついていて、第一印象と同じくただの伯爵と
          は思えなかった。

          (・・・探ってみれば面白いか?・・・こいつ・・・一体何を飼ってる?)

          興味が湧いた。自分の副業からすれば簡単な事なのだ、普段なら客の事など滅多に調べ
          やしないが、今回は特別に違った。・・・興味を持てる存在だったのだ、珍しく。

          「・・・大丈夫ですか?」

          震えていますよ?と少し心配気に聞いてくるカイトにニッコリと微笑んでみせ、大丈夫
          と言う替わりに手を強く握る力を込めると、相手は更に強く握り返してきた。

            本当は、大丈夫なはずないのだが。

            手が震える。鼓動が痛い。頭痛はだんだんと酷くなっていき、背中を嫌な汗がゆっく
          りと流れるのをシンイチは感じた。

            体力の限界が近づいてきたと分かる症状だ。はっきりいって、あまり芳しいとはいえ
          ない状況に、遠目で見ていたらしいヘイジがじりじりと近づいてきているのが解って、
          シンイチは軽く舌打ちした。

            後一曲で一休みできるというのに、このポンコツの体は体力の限界を示しているのだ。

            視界に黒い斑点が浮かんできた。

            ・・・もう駄目だ、と思った時にはもう遅いのだ。



            共に踊る彼の様子がおかしい事には、カイトは先程から気づいていた。自分の片手に
          預けた細い手は細かく震え、腰から背中を支える腕に伝わる熱はやけに高い。本当は具
          合が悪いんではないかと思うのに、彼自身は決まって「大丈夫」という。
          (・・・全然大丈夫そうじゃないよ・・・・・・)

          その証拠というべきか、この前のステージでシンイチをホールから瞬時に掻っ攫った張
          本人がこちらの様子を注意深く見守っているのが解る。

            優雅にターンを決めるその身のこなしは実に軽やかだが、彼自身の顔色は相当に悪く
          なってきた。

          (そろそろラストの一曲だってのに・・・)

          止めようか、と思ったがはっきりいって勿体ない気もして中々切り出せない。

            しかし、そうこう考えているうちに目の前の人は、こちらの気も知らないでふわりと
          寄り掛かってきた。ああいい香りだな・・・なんて頭の端でちらりと考えながら、慌てて彼
          の顔を覗き込むと、美しく整った彼の顔は青白くなっていて、まるで血の通わない人形
          のようにも見えた。

          「・・・どうしたんですか?」

          柔かく声を掛けてみても全く応答がない。眉間に皺が寄ったまま苦しそうな表情で彼は
          ブラックアウトしてしまっていた。

          「・・・カイト、そいつちょっと渡してんか?後でちゃんと行かすさかい」

          後ろからなるべく場を乱さない様に入り込んできたヘイジがボソボソと言って腕を差し
          出す。・・・一応ボディーガードか何からしいが・・・それが当り前という風にしている表情
          が非情に、気に食わなかった。

          「・・・・・・いいや、いいよ。だって、この人は俺が買ったって事になってるんだろ?」

          そう言ってカイトは軽々と――意識を飛ばして普通より重くなっているはずなのに軽す
          ぎる体重に顔を顰めながら――シンイチを横抱きにして、さっさとこの前にも彼が消え
          た「creak only」の札が掛かった扉を片手で開けてそこを潜った。

          そして、彼の宝石以外で初めて欲した『お姫様』を大事に抱えたまま


          「さて、どこにお連れすれば良いのかな?」

            ニッコリ、と誰もが見惚れる笑顔で訊ねた。













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n-c






    やっとこさコンタクトしました(笑)しかも女装のままシンイチさんすぐに
気失っちゃったし(苦笑)
    なんか色々当て馬とか悪役とか出てますけど、ヘーチャンはその類じゃない
です、一応。(念の為)
    さぁて次は三者対面〜〜