東 日 本 大 震 災
〜 遠く離れた 阪神・淡路より X 〜
大船渡から釜石へ向かう途中の平田総合グラウンドに「平田パーク商店街」がありました。仮設住宅に併設されていて、ここにお住まいの方にとっては便利な商店街です。サポートセンターや診療所も設けられ、復興への意欲が感じられます。国道から少し入り組んだ場所にもかかわらず、バス停もあり、釜石の中心部へ向かう足も確保されているようです。 |
釜石市の天神仮設団地にも復興商店街が併設されていました。住宅を出ればすぐに商店街。商店街は仮設住宅での生活とともにあるようです。 入口には希望の花コスモスが植えられていました。 |
お寺の入口に「青葉公園商店街」大きく書かれ、この周辺がすべて青葉公園なので、これだけかと思っていたら、この裏側にもたくさんの仮設店舗がありました。今日は土曜日ということで、コンサートが開催されるらしく、多くの人が準備に追われていました。 |
津波避難場所にもなっている「日澤山仙壽院」より眺めた釜石市内。海には近いけれど、避難できる高台も近くにあります。「釜石の奇跡」と呼ばれる子どもたちの行動がクローズアップされていますが、大人たちも一緒に逃げていれば助かる人がもっと多かったのではないでしょうか。 | 海岸に近い所に仮設店舗の「呑兵衛横丁」はありました。ここは夜にならなければ本当の顔を見せてくれません。もちろん、飲み屋だけでなく、飲食店もあるので、近くで働いている人にとっては便利な場所です。 |
北上する国道から大槌町の中心部へ。と言っても建物はほとんどありません。陸前高田で見たのと同じ淋しい光景です。残っている建物があったので車を止めました。それは無残に壊れた町役場でした。確かに他の建物より強かったのかも知れませんが、内部は完全に壊されていました。近くでは高校生と思われるボランティアが作業をしています。「ごくろうさん。」遠くから頭を下げました。役場の周りにはコスモスが咲いていました。何処からか種が飛んできたものと思います。「空地の中で光を集め 咲いた喜びにあふれてる」 コスモスの詩を口ずさみながら変わり果てた風景を眺めます。この場所に人が帰って来るのでしょうか。 |
次は仮設商店街を目指して大槌北小学校へ。学校の敷地を利用し、かなりユッタリした商店街でした。レンタルビデオの店もあり、仮設住宅に暮らす人たちも、テレビを見る余裕が出てきた様子なので、少々安心しました。 ここでもお土産を買いました。もちろん、大槌町が全国に発信しているカリントウです。 |
中心部を離れ、隣の地区へ。ここも基礎だらけ。被害の大きさを感じます。それでも、コスモスは咲いていました。この町に帰って来る人のためここに咲き続けよう! |
山田町に入り、国道が海辺に出ると、養殖の筏やブイが目に飛び込んできました。山田湾での漁業の復興の進んでいることを感じました。 国道を役場方面に折れ、町の中心部に向かうと踏切を通ります。ただ、レールが残されているので踏切と分かるものの、大部分は撤去され、すぐ近くの駅跡まで軌道らしきものが続いているだけです。JR山田線の復旧は全く未定で、この運転が再開されない限り、三陸鉄道の北リアス線が南リアス線に繋がることはありません。 山田町でお昼を、と思っていましたが、目指していた店舗は満員で、周辺でやっと食事のできる店舗を見つけました。土曜日だったからでしょう。いつもこんな調子だと復興も早いのですが。 |
空地の多い町内で、目立つのはやはり仮設店舗。住宅の建設ができないので認められるのは仮設施設のみ。まさに復興の過程です。人々が戻り、ここで暮らせる日の来ることを祈りました。 | ここでもコスモスが咲き誇っています。役場をバックにピンクの花が印象的でした。復興への希望の花です。 |
宮古市 |
宮古市に入り、復興商店街を捜します。ネット検索で見つけた商店街は既成のもので、「宮古あきんど復興市」の旗が掲げられ、土曜ということでイベントも行われていました。仮設店舗が見つからないので、参加している人に聞くと「ここは被害も少なかったし、復興も早いですよ。」という答。どうやら、浸水だけで商店街が流されることはなかったようです。 商店街のはずれ、駅に向かう通りに「2011年3月11日 津波到達地点」と刻まれた石碑がありました。市役所付近で堤防を越える津波の映像を見ましたが、このあたりの被害は少なかったようです。商店街に集まる元気な人たちの姿に安心し、この旅行最後の田老地区へ向かいます。 |
まず行ったのは田老駅。目的があるわけではないけれど、ここに来た限りには立ち寄るべき所と思っていました。列車の発車時刻等考えずに行きましたが、ホームに人がいます。ともかくホームへ上がりました。すると運よく列車が入ってきました。5月には久慈から田野畑まで乗せてもらいましたが、まさかここで見れるとは思っていませんでした。列車を見るだけで乗ろうとしない私に運転手の方が声をかけてくれましたので、丁寧にお断りをし、列車は発車しました。下の観光センターは大きな被害を受けましたが、ホーム付近の被害は少なかったようです。 |
海岸近くまで行き、振り返ると大きな堤防。階段が見えたので堤防へ上ることにしました。ここからは町中が見渡せます。当然津波はこの堤防を越えて行ったのですが、なんとか持ちこたえてくれたようです。ただ、ここから分かれて海側へ伸びた堤防はズタズタにされていました。そうしているうちに、町の老人が堤防に上がって来られ、当日の話等を聞きました。このあたりはやられたけど、津波は鉄道の線路で止まったとのこと。復興の象徴となっている三陸鉄道が、そこから先の被害を止めたのです。 |
日は傾いて、田老の堤防を照らしています。津波防災の最たるものと思っていた田老地区が津波にのまれたことはショックでした。何度ニュースを見ても信じたくはなかった。でもここに来て、それでも防ぎきれなかったことを実感しました。 |
避難の妨げにならないようにと、隅切りをした交差点も淋しい姿を見せています。防災にこれだけやったから安心ということはありません。それでも、諦めてはいけません。人と自然の永遠の戦いなのですから。 三陸の被災地を廻る3日間の旅は終わりました。被災地に何ができたのか、と聞かれると仮設店舗で買物をする小さな支援しかできなかったとしか答えることができません。それでも、阪神・淡路大震災の経験者として、震災を伝え続ける心の励みになったことは間違いありません。 |