カシオがいなければ、もしかすると一生、草を歯で切るなんて機会はなかったかもしれない。
それはつまり、一生この懐かしい感覚を思い出すことができなかったということにもなる。
そしてそういう「カシオがいるからこそ思い出せた感覚」というのは、子供が産まれてから私の中で驚くほど多く存在するのだ。
私は最近、カシオの一番近しい人間として彼の人生を隣で見守りながらも、私自身、もう一度小さな私となって再びカシオと共に生き直さしてもらっているような気がしてならないのである。
私は大人でありながら、同時に子供の感覚を少しずつ思い出し、取り戻し、時々二人の私となって生きている。
カシオと接することで、遠い昔に過ぎ去ったはずの出来事や思いが、再び自分の中で息を吹き返し、
少し懐かしく、しかし確かに新しい人生として私の中で共に生きている。
どっしりと構えた揺るぎない太い幹から、突然か細く小さな枝が誕生し、どちらも同時に上へ上へと向かって共存している。
しかし、その細くてか弱い私の枝はゆっくりと成長しながらも、ゆくゆくは青々とした葉や、やっと顔を出した芽などの沢山のお土産を持って、いつの日かまたその太い幹へと帰ってき、最終的には以前よりより太く豊かな一本の幹の一部となって私を成長させてくれるように思うのだ。
人生は一度きり。確かにそれはそうなのだが、その一度きりの人生の中では、いくつかの少しだけ違った人生を味わうことは可能なのではないか…。
ふと最近、そんな風に思うことがある。