どんどん走ってくる、そのランナーたちに顔も名前も知らない他校の選手たちに、皆、声を掛けたいと思った。初めて一年で夏合宿に参加した時、300mや400mで他校の選手に等しく声援を送ることに俺は違和感があった。練習でもレース形式の戦いだから。でも陸上競技はそうなのだ。走ることが等しく尊いのだ。短距離でも長距離でも、タイムにも順位 にもかかわらず、限界にチャレンジして走ることが、単純に尊い。その苦しさと喜びを共有できるのだ。走るのは一人ひとりでも、バトンや襷がなくても、俺たちは分かち合うことができる。
<本文より抜粋>
   
本当にその通りなのだと思う。しかし、残念ながら当時の私はこのことに気づけなかった。

私もよく、周りがしていたように、それが知人であれ、見ず知らずの人であれ、練習中に走っている人を見れば必ず「ファイト」と声をかけていた。苦しそうな人を見れば、心から「ファイト!頑張れ!」と思っていた。 それは確かに心からの言葉ではあったけれど、でも今思えば、それは肉体的な苦しみを自分のことのように感じての「ファイト」であったように思う。純粋に「走り」に対しての「ファイト」ではなかったのだ。
走りに喜びを見い出し、走れることの素晴らしさを感じてのものではない、ただ単に苦痛から逃れるための「ファイト」だったように思うのだ。

結局私は引退の時まで陸上を続けたけれど、でもその最後の時が近づいてきても尚、主人公達のように陸上に対して心を捧げることはなかった。打ち込むことを頭から放棄し、陸上を愛そうともしていなかった。→続きを読む