・ 初出1982.10.1.NECO4号。引用部分を中心に、一部を再構成し、書き改めた。註は、すべて1999年現在である。

 「少年」----少女の中の幻想(2)

     3.「少年」とは何か


  少女が夢園の花々をゆったりと育てる光なら
  少年は宇宙にこぎ出す一そうの船
             ----竹宮恵子「少年の光と影」 (1)

 前章まで、子どもと女性の同居という微妙なバランスの上に立つ少女という仮説について論じてきた。当然このバランスは崩れてしまうのであり、その運命ゆえに少女は少女自らの完全な世界における唯一の不完全なものになってしまうのであった。それでも少女がその完全な世界に執着するとすれば、そこには少女自身に代わる、より完全な何者かを世界に住まわさねばならない。このようにして生み出されてきたものが、「少年」である。

 したがって、「少年」は少女の感性において極端に理想化された人格としてある。まず、外見は男性である。これは、現状においての男性の社会的肉体的有利さからすれば当然のことである。たとえば、竹宮惠子のインタヴュー(マンガ少年別冊「地球へ・第一部総集編」)から引用してみよう。「子供の時から、男ならしてもよいが女だからしてはだめ、ということがあまりに多いのに疑問を感じ、不満を抱いていた。たとえそのことが、素敵なことではないにしても、私には魅力あることであり、私もやりたかった……。」 (2)

といっても、「少年」はけっして男性であるわけではない。女性の中のイヤな部分を持っていないということ、女性の持ってない(あるいは捨てさせられた)瞬発力、社会的可能性などを持っていることの象徴として男性の外見をとっているだけなのである。この章の冒頭で引用した竹宮恵子の表現を借りるならば、夢園を守ることだけを社会的使命とされ、ともすればそれに甘んじてしまいがちな少女にとって、少年(「少年」ではない)が持っているような宇宙にこぎ出せる船、とりわけその内的宇宙にこぎ出すことを社会的に許されることがなによりうらやましいのだ。といっても、それは少女たちの夢園を土足で踏み荒していた「乱暴な男子(だんし)」にあこがれることではない。彼女らは、ただ自らの内的宇宙といっていいほどの広がりを持つ夢園を自由に歩いてみたいだけなのである。よく少女まんがの「少年」について言われている悪口に「美少年にはスネ毛の一本もはえていない」というものがあるが、もともと少女にとってみればスネ毛など必要なわけではないのだから、少女の理想人格であるところの「少年」にスネ毛がないのは至極当然、ある方が不思議というようなものなのである。

 一方、そのことは「少年」が全能神であることも意味しない。少女の内的世界は神の国ではないのだ。「少年」は、少女と同じように感じることができなければならないし、とりわけ悩まなければならない。そうでなければ少女にとっての理想とは言えないし、たとえ完全な世界になじんでも少女の代役たりえない。理想的な「少年」とは、あくまで少女の目を持っていながら、少女以上の問題解決能力を持っているような人物なのである。

 このように、「少年」は一方では少女の目を持ち少女と同じように見る存在でありながら、その一方で少女から理想の者として見られる存在である。このような見る存在と見られる存在の同居というあいまいさの中に「少年」の本質がある。そして、「少年」というものの存在を通して、少女たちはようやく見つめかえすものの存在に気づく。「少年」は、少女にとって高められた自己であるとともに、他者の萌芽であるのだ。 (3)

 (1) 竹宮恵子(現・惠子)「少年の光と影」(「ウィーン幻想」・白泉社・1979のp191)から。冒頭の言葉は、「少女の持つ内的世界(インナー    ワールド)を夢園とでも呼ぶなら少年のもつ世界は、まさに内的宇宙(インナースペース)である。」という表現を受けてのもの。初出は  LaLa1978年3月号なのだが、マニア少女まんが誌だった当時のLaLaでも、単行本で5pにもなる長さのエッセイが掲載されるのは異    例だったと記憶している。
 (2)  光瀬龍「定本・竹宮恵子論序論とでも」(マンガ少年別冊「地球へ・第一部総集編」・朝日ソノラマ・1977のp227)につけられた光瀬龍   と竹宮惠子による一問一答から。問いは、「なぜ多くの場合、少年が主人公であるのか?」。20代の若々しさと全共闘的なこだわりをう   かがわせる竹宮恵子の回答である。また、24年組と呼ばれた彼女らは、ずいぶん頻繁に「少女まんがとは何か」について読者と議論   しようとしていたし、現に少女まんがという場で静かな「革命」をおこしたのである。
 (3)  原註がある。「男性における他者(性)の問題は、(少年まんがを見ればわかるように)性衝動が他の社会的行動に昇華されることが   多く、そのためか、他者を自己の社会的尺度にしてしまう挑戦者幻想とでも呼べるようなものを持ってしまいがちになることである。尺   度化されるものであれば商品化は容易である。女性の、全てを自分の延長上と考える創造主幻想ともども、性による社会的期待の    差が、他者を見えにくくしている。」今読むとわかりにくい。少年まんがの他者は、(どんどん強くなる)ライバルとして現れる。自分の強   さを量る尺度としてしか他者は存在していないようだ。そんな見方をしていると、つい「異性」(とその関係)さえ「値段」で考えるように    なってしまうのだけれど、女性の方もけっこう自分のことしか考えていないんで、それなりにいい勝負なんだろう、といいたかったのだ   ろう。

    4.「少年」の世界(1)-----閉ざされた世界


  教室の窓から見る秋は いつも不思議に光ってた
  北向きの窓のすりガラス ギリシャの海も見えた
                  - ----谷山浩子「窓」 (1)

 「少年」の世界が少女の世界と決定的にちがうのは、少女の世界がまだ少女自身を通して現実の世界とつながっていたのに対して、「少年」の世界は、現実の世界と通じるような何者をも持たなくなったという点である。少女の世界が少女の感性による現実のつくりかえであったとすれば、「少年」の世界は「少年」にあわせて作られた一つの舞台に等しい。それは一個の世界として完成されており、現実の世界からは閉じた形で存在している。

 たとえば、「少年」の世界としてしばしば全寮制の学校が登場する。それらはたいてい何らかの形で外部から遮断されるように建てられており、基本的に外出は許可制である。もちろん日常生活ぐらいなら校内で十分可能であり、教育機関の特殊性と学校自体の権威が校則による治外法権を許している。そこで生活しているのは、教師を除いて全て「少年」である。転校という名のその世界での「出生」や「死亡」もある。たとえ学校全体としては外の世界とつながっているとしても、個々の部屋は、その学校の中でも閉ざされているプライベートな世界である。全寮制の学校は、形式としての現実性を残したまま、(あるいは、現実にあるフリをしたまま)現実から切り離された「少年」だけの世界を作るのにきわめて都合よくできているのだ。実際、全寮制の男子校を舞台とする少女まんがは、「トーマの心臓」「風と木の詩」などシリアスな名作から、「ミキとユーティ」「聖祈苑へようこそ!」などのコメディまで数多い。 (2)

 それ以外でも「少年」の住む世界は、たいてい宇宙船、別荘、大邸宅、人里離れた村など(人里離れた村にある大邸宅の別荘とか)現実から離れていることを特徴としているものである。そのような閉ざされた世界で、「少年」たちは現実でありえないような「少年」独自の完成された世界を創造することが許されているのだ。しかし、それだけに、いったん現実の世界に入ったものにとっては、その閉ざされた世界は遠い。

 竹宮恵子(現・惠子)に「扉はひらくいくたびも」 (3)という短編がある。心臓病の「少年」マモルのもとへ10人の友人たちが招待された。国立人工内臓研究所の療養所にいたころの仲間である。彼が友人一人ひとりとかわしていく会話の中には、必ず「なにかおもしろいことない」という一言が入っていた。健康になった友人たちはすっかり忘れてしまっていたが、それは、たいくつすぎる病院の中で、マモルと彼らが想像の世界へ旅するための合言葉だったのだ。結局思い出すことができたのは、SHU一人だった。(かつてマモルがみんなにそうしてくれたように)想像の世界に通じる答えをした彼一人だけが友人として残されたのだが、その彼もやがてマモルの神聖な世界をくずしてしまう。たまたま目の前をよぎったトンボに声をあげてしまったのだ。想像の世界にいるはずの者が、現実のトンボに目を奪われてしまうのは、明らかに想像の世界に対する裏切りである。かくして、マモルとSHUの「完全な想像の世界」を共有するという名の「完全な「少年」の世界」はくずれた。「ぼくが彼の世界にいないと気づいたマモル…… それは透明な扉のようにみえた マモルはそれを引きあけて三歩ほど そしてたおれた」 (4)

 結局、SHUはマモルの世界に入れなかった。彼は、それほどには「少年」ではなくなっていたのだ。「少年」の世界は閉ざされているがゆえに、その中にいる限り幸福である。しかし、その世界自体は、完全、神聖、あるいは純粋であるがゆえに、きわめてあやうい。それは、現実から閉ざしてまでも自己の純粋さを保とうとするよってようやく支えられているのであり、「少年」の世界自体、そのようなものに対してのみ開かれているのである。

 逆に、「少年」の側から見る限り、現実の世界は彼らの世界の外に広がる未知の世界であり、常に彼らの世界をおびやかしているものである。マモルの友人たちがそうであったように、かつて「少年」の世界にいた者も、現実の世界に入ってしまうことによって、それを捨ててしまうのだ。

 同じ作者による「地球へ」(5) 登場する成人検査という制度は、なお象徴的である。完全にコンピューター管理されている近未来の地球では、子どもたちは14歳まで幼年育英都市の両親(実際は養父母)のもとで「大人社会の「清浄化」に役立つ「純潔な」子どもとして育成される。」14歳になると成人検査と呼ばれるコンピューターとの直接コンタクトが行われ、そこで初めて大人社会の制度を知らされると同時に、過去のいっさいの記憶を消されてしまう。(といっても、両親の顔や友人、出身地などはなんとか覚えているようなのだが。)続く2年間の教育の後、彼らは16歳の成人として大人社会に新たに誕生するのだ。この物語の主な流れは、この人類の側の体制と超能力を持つゆえに逸脱者とされてしまうミュウ(新人類)との対決である。しかし、このミュウとは、つきつめればその能力ゆえに成人検査のおりにも子どもの記憶を手放さなかった者のことであり、したがって「地球へ」とは、子どもの記憶を持ちつづける者による、それを捨てさせる大人社会への挑戦の物語なのである。主人公は、当然ミュウの長の「少年」ソルジャー・ブルーと、彼を継いだ「少年」ジョミー・マーキス・シンである。

 (1) 作詞・谷山浩子(谷山浩子「鏡の中のあなたへ」B面の1曲目・1978)谷山浩子の一般に3枚目、正確には4枚目のアルバムに入って   いるピアノの弾き語りの静かな曲。「少年」のころは、教室の窓からどんな景色や未来さえも見ることができたけれど、という詞。この    アルバムには、なぜか「No.236 1976.10.7」という通し番号らしきものがついている。
 (2)  「トーマの心臓」(1974/萩尾望都・「萩尾望都作品集11-12トーマの心臓1-2」・小学館・1978)の舞台は、現代の(というか、当時の)   西ドイツ、ライン川沿いのハイデルベルクとカールスルーエの間の小都市にあるシュロッターベッツ・ギムナジウム。制服代わりの赤    いタイがそのまま町での信用になるような、地元の名門校である(上掲「トーマの心臓1」のp156)。「風と木の詩」(1976-83/竹宮恵    子・「風と木の詩」(全17巻)・小学館・1977-84)の舞台は、1880年の南フランス・プロバンス地方、アルル郊外のサンクライザールに    あるラコンブラード学院。大雨が降ると馬車もそばまでいけないほど道の悪い、へんぴなところに建っている(上掲1巻のp20)。「みきと   ユーティ」(1977-79/成田美名子・「みき&ユーティ」(全2巻)・白泉社)の舞台は、現代の日本、確か函館のはず。「聖祈苑へようこそ!」   (1978-79/中山星香・「聖祈苑にようこそ!」・秋田書店・1984)も、現代の日本だったと思う、タイトルからすると。ちなみに「せんといの   りえん」と読む。
 (3)  「扉はひらくいくたびも」(1975/竹宮恵子・「竹宮恵子作品集8 集まる日,」・小学館・1978)は、重い心臓疾患の(少し走るだけでも命   にかかわるような)「少年」マモルが初めて退院したおりの孤独と死を描いた竹宮版「銀河鉄道の夜」ともいえる短編。上掲書に収録さ   れている「ガラスの迷路」も、同じマモルを主人公にした似た設定の作品である。
 (4) 上掲書p72
 (5)  「地球へ」(1977-80/竹宮恵子・「竹宮恵子作品集1-3 地球へ1-3」・角川書店・1988)は、竹宮惠子が初めて少年誌(今はなき「マ   ンガ少年」)に描いたSF作品。当時は、少女まんが家にSFが描けるはずがないといわれるほど、少女まんがの地位が低かった。な    お、ミュウがすべて「少年」というわけではない。(もちろん、女性もいる。)しかし、両親から切り離され(あるいは、制度が作った嘘の両   親であることが明らかにされ)、大人の制度に組み込まれることなく子どもの記憶を手放さないミュウという存在を象徴する姿は、「少    年」こそがふさわしい。そして、ミュウは人類に比べてずいぶん長命であるとされ、15年の時間の流れがあるにもかかわらずミュウの   長ジョミー・マーキス・シンは、「少年」の姿のままである。

    5.「少年」の世界(2)----自由な「少年」・孤独な「少年」


  ミンナ眠ルヨ眠ルヨ 花モ草モ木モ
  僕ダケ残シテ夢ノ中 tututu…
  世界中蒼イ月ノ夜
  月ノ夜ニ僕ハ透キ トオル
  透キトオル
         -----谷山浩子「眠レナイ夜」(1)

 「少年」は自由である。その状況において考えうる限りのところまで自由である。たびたび引用されている竹宮恵子だが、彼女の主な長編に登場している「少年」には、なぜか両親がいないか、家出をするなどして両親の「保護」にない状況で生きている。つまり、子どもにとって一番うっとおしい両親の「束縛」から解放されているのだ。しかも、彼らはたいてい遺産を相続しているとか国費留学生になるなどしてしっかり自立している。「空が好き」 (2)に登場する天才「少年」サギ師タグ・パリジャンは、幼くして両親を失い、サギの技術を身につけることでようやく生きてこられたというような人物である。当然、そこに至るまでには様々な苦労があったのだろうが、マンガに登場するのはけっして孤児タグ・パリジャンではない。あくまで天才「少年」サギ師タグ・パリジャンなのである。作品中の彼は、すでに習得しているサギのテクニックによって、華麗なるミュージカルを演じてくれている。このことが、先に言った状況において考えうる限りの自由の意味である。パリのモンマルトルを舞台にミュージカルを演じるためには、「少年」には、孤児であるとともに、天才サギ師であることが許されているのである。

 このような自由な「少年」たちに共通しているのは、出発、冒険、希望といった自己実現のテーマである。それは、少女が「少年」にならなければならなかった最も基本的な欲求を満たしてくれるものである。荒井(現・松任谷)由実と中島みゆきから、「少年」の出発をテーマとする曲を一曲ずつ紹介しておこう。

     空と海の輝きにむけて(3)               砂の船(4)

  月のまなざしが まだ残る空に            誰か 僕を呼ぶ声がする
  やさしい潮風が門出を告げる             深い夜の 海の底から 
  この人生の青い海原に                目を開ければ窓のそとには
  おまえは ただひとり帆をあげる           のぞくように傾いた月
  遠い海の彼方に金色の光がある
  永遠の輝きに命のかじをとろう           僕はどこへゆくの夢を泳ぎ出て
                                夢を見ない国をたずねて
                                いま 誰もいない夜の海を
                                砂の船がゆく

 荒井由実の「空と海の輝きにむけて」はより抽象的な「おまえ」という言い回しを使って、中島みゆきの「砂の船」では、「僕」という一人称を使って、ともに船出の場面を表現している。いくぶん持ち味の違いはあるものの、それらはともに「少年」のためにしつらえられているらしい世界の中で、まるでそうすることが義務であるかのように一人で旅立つ「少年」たちの希望と不安を表現している。

 その一方、「少年」たちは、その自由ゆえに一つの問題をかかえる。つまり、孤独であるということである。自由の対語として所属をおく限りにおいて、自由は常に孤独をともなう(逆は言えないが)。自由な「少年」は、孤独な「少年」でもある。誰も彼の所属を口にすることのない夜など思わず肉体に所属することまで忘れて、「透キトオッテ」しまうことだってあるかもしれない。「少年」の孤独という側面は、自由で快活な「少年」の影の部分であるとともに、それ自体しばしば見られるテーマの一つである。

 萩尾望都の「ポーの一族」(5)は、14歳の「少年」として時をとめられてしまったバンパネラ、エドガーの物語である。最低でも成長のとまる20歳を待って「一族」に加えられるのが常であるところを、(「少年」である)14歳で「一族」に入れられた彼にとって、「十年たっても同じ朝を迎え」 (6)ることの意味は他の一族の者とは全く違ったものになる。彼にとって止められたのは老い(滅び)の時間ではなく、成長(未来)の時間なのである。未来のない彼には、「人」との出会いは意味を持たない。彼らは成長するのだ。たとえ出会っても彼の目の前を通り過ぎるだけでたちまち消え去ってしまう。彼には伝説を残すぐらいしかできない。それは常に過去の中でしか生きられないということだ。思い出を積み重ねることがほぼ存在する意味になってしまっている「大人」ならともかく、まして彼は、その思い出を語る仲間も失ってしまうのに。「おまえたちはなんのためにそこにいる」(7)この問いには、彼自身答えが出せない。

 これに限らず、少女まんがにおけるSFの大部分は、(少年まんがのそれがスペース・オペラがほとんどであるのに対して)超能力をテーマとするものである。そこでは多くの場合、超能力とは一種のスティグマ (8)であり、超能力者とは、「一般の人類と異なるもの」「人類に受け容れられぬもの」として描かれている。これらの物語の原点にあるのは「妖精と出会った少女と、それらが見えない(見えなくなってしまった)大人たち」というファンタジーの基本公式である。閉ざされた世界の自由な「少年」の孤独は、個々に独立した完全性倫理の世界である少女の孤独と重なる。

 最愛の妹を失い、生きる意味を見失ったまま一人残されたエドガーは、やはり一人現実にいや気のさしていたアランにこう言うことから始めなければならなかった。「きみもおいでよ ひとりではさびしすぎる」 (9)そんな風に誰かを求める感情は、通常「恋」と呼ばれている。

 (1)  作詞・谷山浩子(谷山浩子「鏡の中のあなたへ」B面の3曲目・1978)。オルゴールのようなイメージの曲。ちなみに、「No.295         1978.7.11」とある。
 (2)  「空がすき!」(1971-72/「竹宮恵子作品集5-6 空がすき!」・小学館・1978)は、竹宮惠子の初期の連載。予定の10回連載終了後に    爆発的人気が出たため、翌年再度10回連載されたという。この作品とその直前に書かれた「サンルームにて」が、「少年」を主人公と   することを編集に認めさせる契機となった作品である。よく出来た予定調和なのだが、1975年に前後編で発表された番外編的作品    の「NOEL! ノエル」が、私的竹宮惠子ベスト1だったりする。
 (3)  作詞・荒井由実(荒井由実「ひこうき雲」A面の4曲目・1973)。ゆったりしたバラード。今でも、ピアノの弾き語りで唄ってるんだろう     か。
 (4)  作詞・中島みゆき(中島みゆき「寒水魚」B面の4曲目・1982)。やさしく唄われる伸びやかな曲。当時はついに中島みゆきも「少年」を   唄ったと喜んでいたが、「出発する少年」の例にあげるのには、ふさわしくなかったかもしれない。
 (5)  「ポーの一族」(1972-76/「萩尾望都作品集6-9 ポーの一族1-4」・小学館・1977-78)は、萩尾望都の初期の代表作。バンパネラは   吸血鬼を意味する萩尾の造語。3本の芯となる物語とたくさんのエピソードで語られるのは、200年もの間、「少年」エドガーと彼の前を   通りすぎていった人々の物語である。
 (6)  萩尾望都「ポーの一族」(1972/「萩尾望都作品集6 ポーの一族1」・小学館・1977のp33)。同年輩の少年アランに興味を持ったこと   を父親役のポーツネル男爵からなじられたエドガーの独白である。同じ少年としか対等につきあえないにもかかわらず、成長してしま   う生身の人間と時を留められた「少年」エドガーとの間にある溝は深い。
 (7)  上掲書、p113。エドガーらポーの一族を狩ろうとした医師クリフォードが最後に投げかける問い。バンパネラでなくとも、「少年」でなく   とも、この問いにまっすぐに答えられるものがいるのか。
 (8)  「烙印」と訳すべきか。たまたま、当時アーヴィング・ゴッフマン「スティグマの社会学」(1963/石黒毅訳・せりか書房・1980)を読んで   いたので、使いたかっただけだろう。
 (9)  「ポーの一族」上掲書、p124。そして、「少年」エドガーと「少年」アランの新たな「ポーの一族」の物語が始まるのである。

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