・ 初出1983.3.1.NECO5号。今見るとあんまりな表現は、書き改めた。註は、すべて1999年現在である。

「少年」----少女の中の幻想(3)

     6.「少年」の世界(3)-----「少年」の「恋愛」


  「やっぱし男にいちばんふさわしいのは男よねえ。女なんて生殖にかかわってるぶん、性ってものにおいて   昇華されないと思うんだ」
                        ----栗本薫「ぼくらの気持」 (1)

 「少年」、特に美「少年」というと、ナルシシズムであるとか、「少年」愛というイメージがともなうようである。実際、「少年」愛は、少女まんがの一ジャンルとして、一部熱狂的マニアから強く支持されており、「少年」愛まんが専門誌が二種類も出版されるほどである。 (2)

 ところで、そのような「少年」愛マニア少女(その生態をくわしく知りたい人は、「ぼくらの気持」の「3」を読んでもらえば見当がつくだろう。)に言わせると、「少年」愛は、(「理解のない」人々が非難するような)変態じみた「イヤラしいもの」ではなく、もっと純粋で「美しいもの」なのだそうだ。美しい「少年」が美しい「少年」と愛し合うのは自明の真理というわけだ。 (3)

 ここでは、彼女らが「少年」愛を「イヤラシくない」と言っていることに注意してほしい。彼女らが抗弁している「イヤラシくない」という言葉が、「少年」愛の持つ重要な一側面を示しているからである。「少年」愛はイヤラシいものではないゆえに、「少年」たちは、神聖なる儀式のようにキスをし、ベッドをともにするようになるとするならば、「少年」愛で決定的に欠落しているのが性の要素だということである。言いかえるなら、性的でない「少年」愛におちるような「少年」は、当然、性を持たないということだ。先に「少年」は社会的な意味で男性の姿をとっているにすぎないと説明したが、それどころか、彼らは、純粋な意味では、男「性」ですらないのである。

 したがって、彼らが女「性」を愛することがないのも当然である。ピーターパンとウェンディの関係が象徴するように、「少年」の世界を訪れた少女は、「少年」から大事なお客として歓待されるが、性の呪縛から自由になれ ないがためにあくまで観客でしかなく、「愛さ」れているような風であっても、それは貴重な宝物として守られているだけだ。性を(潜在的に)持っている少女は現実に戻され、「少年」の方は相変わらず「少年」のままでいて、何事もおこらないのだ。

 一方、「少年」愛を、男「性」同士の恋愛と対比するのも適当とはいえない。性を持たない「少年」たちの(疑似)恋愛は、どれほど「性的」な小道具が用いられていても、そこにあるのは、同質性に基づく、ナルシシズムのイメージなのである。

 「少年」のナルシシズムが、少女の、性を認められないまま内面の世界へこもるというナルシシズムをそのまま反映させていることは言うまでもないだろう。「少年」は、主体的に少女として「見る」存在であるとともに、「見られる」存在であった。鏡の前に「少年」が立っているとする。見ているのは少女の目であり、写っているのは「少年」の姿である。このことは、少女のナルシシズムを非常に満足させてくれる。鏡に写っているのは、理想化された自分の姿なのである。「少年」が鏡の中の「少年」像に自分自身を見出しているときに、少女はもう一人の自分を見出しているのである。

 しかし、この「少年」と少女の二重構造は、「少年」愛をももたらす。「少年」の中の少女の目は、別の「少年」に対してもむけられるからである。「少年」のナルシシズムにおいて、その「少年」自身の中に見出されたもう一人の自分が、「少年」愛においては別の「少年」の中に見出され、そのことによって、少女にとってのもう一人の自分であると同時に、もとの「少年」にとってももう一人の自分として相手を認めてしまうことになるのである。

 少し話が抽象化(というより机上の空論化)してきているので、今度は少し具体的に見ていってみよう。「風と木の詩」 (4)と言えば、竹宮恵子(ばかりを引用するが)の「少年」愛まんがの極めつけ的作品である。まず、二人の「少年」を紹介しよう。

 ジルベール・コクトーは、生まれてすぐに叔父(であり、実は父)のオーギュストにひきとられ、彼自身による個人教授で育てられる。感受性の強い子どもに育ったジルベールだが、彼を完全に支配しようするオーギュストによって犯され、その思惑通りオーギュストなしでは生きていけない人間になってしまう。ある事件から全寮制のラコンブラード学院に入学させられたが、オーギュストのいない生活に耐えられず、娼婦のような生活を送ってい
る。

 セルジュ・バトゥールは、バトゥール子爵の跡継ぎとジプシー系の高級娼婦(正妻である)との間に生まれる。バトゥール家からは追い出されたものの、両親の深い愛情と自然の恵みの中で、優等生的人間に育つ。両親、祖父を相次いで失い、若くしてバトゥール子爵を継ぎ、その財産をも受け継いでいる。父の母校であるラコンブラード学院に編入し、ジルベールと出会う。

 おおまかなストーリーは、自堕落な生活を送っているジルベールを立ち直らせようとするセルジュが、彼をオーギュストから奪って逃げるかたちでそれを達成しようとしたのではあるが、という物語。

 <世界-保護者(オーギュスト)-自己>という関係でのみ育てられてきたジルベールにとって、全寮制の学校と言うオーギュストなしの世界で行いえるのは、限りなく自己の内面に関心を集中させること、言いかえれば、世界に向けられている自己に対して全く関心を持たないこと(早く言えば自暴自棄)でしかなかったのだろう。そこへ(外の世界での人望などという、ジルベールにとってはどうでもいいものを背景にした)正義感で近づいてくるセルジュのような存在は、まさにおせっかいで迷惑なものであったにちがいない。ジルベールにとって、セルジュとは(オーギュストのいない)意味のない世界から送り込まれてきたジルベールの世界の破壊者なのである。彼の言う「きちんとした生活」とは、意味のない世界に意味を与えろ、関心のない世界へ関心を持て、と言うことなのである。意味のない者が自分にも意味を与えろと迫ってくるという冗句。まして、世界を意味づけることはオーギュストにのみ許されていた行為であり、オーギュストとはまさに世界を意味づける人であったのだ。(彼の教えたものは、心から体にまでしみついている。)セルジュの迫ってくることは、オーギュストの否定であり、裏切りであり、とおてい受け容れようのないものであったのだ。

 それでも、やがて授業に現われ始めるなど、一時の彼からはとうてい考えられないほど生活は改まっていく。なぜなら、ジルベールがどんな態度をとってみたところで、外の世界は確かに存在していたからである。

 その世界とは、欲得ずくで適当に弄ぶか、そうでなければ遠巻きにして近寄りもしないというような、彼のそれまでおかれていた状況のことではない。そんな世界であれば、相変わらず存在しないことにしていても別に支障はない。(体を売れば、進級だってできる。)彼にとって意味ある新しい世界とは、さまざまな中傷や妨害にめげず、それでも彼の前に存在し続けるセルジュそのものなのである。セルジュを介することで、ジルベールはようやく世界を獲得した。それは、オーギュストによって与えられる風景としての世界ではなく、セルジュの見 守る中で自分で構築していく実感のある世界である。

 では、セルジュはなぜジルベールに対して、世界の代理人でありつづけることができたのか。それは、セルジュがジルベールの生き方に自分と共通の原理を見出したからである。娼婦の子であり見るからに混血という風貌でありながらも子爵であるという彼もまた、学院内では完全なアウトサイダーである。それを彼は、自らの才覚と強い信念できりぬけ、まわりの者の信頼まで得てきた。彼は誰からも愛され、誰をも愛している。しかし、この言葉にまどされてはならない。それは、誰からも愛されず、誰をも愛していないことを穏やかな表現にしただけにすぎない。彼とジルベールの違いは、ジルベールが外の世界での自分の位置にまるで無関心に自分自身でありつづけたのに対して、セルジュは外の世界のメンバーでありながら自分自身でありつづけたというだけのことである。このことにセルジュが気づいていたからこそ、彼はジルベールを外へ連れ出そうとしたのであり、また彼を理解することもでき、ついには彼の心を開かせることもできたのである。(と同時に、セルジュの心も初めて開かれたことも忘れてはならない。)

 この過程でもわかるように、セルジュとジルベールは、まったく正反対のように見えて、ともに(作者自身の表現を借りるなら)「自然児」 (5)であるという共通性を持っている。その表われ方は異なっているものの、その理想とするところには共通する部分が多い。だからこそ、ナルシスティックな一個の完成され理想化された人格である「少年」が、やはり一個の別の人格であるところの別の「少年」をも「理想的」であると感じることができるのである。「少年」が理想化され完成された自らにこだわるかぎり、別の「少年」は嫉妬の対象にこそなれ、あこがれるに足るもう一人の自分となれようはずはない。しかし、根本的な部分での等質性は必要とされているものの、あこがれると言う感情は持たざる自己を認め、(あるいは持たざることに価値を見出し)持てる(より価値ある)他者を認めることなのである。したがって、そこにはナルシスティックな閉じられただけの「個の」世界ではなく、他者の存在する開かれた「関係の」世界への展開を見ることができる。実際、セルジュとジルベールは「関係」を持ってしまったがために、閉じられた「個」として存在するかぎり外の世界から守ってくれていた学院から逃げ出さねばならなかった。そして、関係の世界へと「少年」が出て行くことは、「少年」にとっては重大な転機となる。

 (1) 栗本薫「ぼくらの気持」(1979/講談社文庫・1981)のp80。同人誌「ソドムの群」で活躍中の杏奴麻利の言葉。「ぼくらの気持」は、江   戸川乱歩賞を受けた栗本薫名義でのデビュー作「ぼくらの時代」の続編。
 (2) 1981年ごろに、サン出版から「JUNE」、みのり書房から「ALLAN」が創刊された。
 (3) 改めて、「ぼくらの気持」の「3 絵コンテ」を読み返してみたが、本文にあるような直接的な記述はなかった。しかし、「黒い女モビィ・   ディック」とまで言われたロックファンの同人誌作家の表現は、「やおい」以前の雰囲気をうかがわせる。当時は、「コミックマーケット」の  「コミケ」という略称はなく、すべて「コミケット」だったように思う。
 (4)  「風と木の詩」(1976-83/竹宮恵子(現・惠子)・「風と木の詩」(全17巻)・小学館・1977-84)は、少年愛まんがの決定的な作品。本稿  執筆当時は「風と木の詩」がまだ完結しておらず、ちょうど、クライマックス部分を連載していたころだった。この作品のような決定的な   「物語」が出てしまうと、かえって本格的な少年愛まんがは描きにくくなっているような気がする。「お約束」であることをそのまま名前に   したような「やおい」の全盛は、この後のことである。
 (5)  この一言だけでは、原典にあたれなかった。むしろ、いろいろなところで言ってたような気もするが、それらしい記述がなかった。むし  ろ、「自然児」という言葉から連想されるのは、J.J.ルソーの「エミール」である。子ども自身の感覚を自然に近い環境で伸ばすという点   では、ジルベールもセルジュも「エミール」のイメージに近い。

     7.「少年」の世界(4)-----「少年」の死、あるいは少女の死


   つもった白い雪が だんだんとけていくのを
   悲しそうに見ていたの
   夢が大きな音をたてて 崩れてしまったの
                ----五輪真弓「少女」(1)

 「少年」は本来、少女の内の完全な社会の中に生きるものであった。したがって、その社会は何らかの形で現実の社会から時間的空間的に閉ざされており、その閉鎖性の中で「少年」は自らの完全性を保っていた。しかし、細心の注意を払わないかぎりそのような閉鎖性は保たれないし、そんな風に「完全」でいられることは不可能である。では、「少年」の世界が現実の世界との微妙なバランスが崩れた時、「少年」はどうなるのだろうか。

 一つは簡単である。「少年」であることをやめることである。大河的なドラマの中で「少年」は「成長」し、男性となる。読者である少女たちは、いつのまにか主人公たちが自分たちと同じように悩みをかかえる「少年」から、「素敵な男性」に変化しているのに気がつくだろう。「少年」は円満に解消され、過去は子供っぽい昔のことで終わってしまうのである。では、「少年」が「少年」でありつづけようとした場合、「少年」でありつづけねばならなかった場合はどうなるのだろうか。

 萩尾望都に「雪の子」(2)という小品がある。ブルクハルト家の跡継ぎの「少年」エミール、彼は実は少女であった。両親のいない彼を、男の子であれば跡継ぎとして引き取ると祖父が言ったため、ずっと「少年」として暮らして来たのだ。彼が少女であることを知っているのは、医師、執事などごく少数の人間である。彼は言う。「生まれてすぐに変身して十二年たった。ぼくは少年としてこれっぽっちもきゅうくつな思いなどしなかった。ぼくは少年エミール・ブルクハルトのままで……いるんだ。」 (3)

 しかし、遠からずバランスの崩れる時がくる。彼自身の成長である。彼の答えはこうだ。「変声期なんてぼくにはこない。その前に死ぬんだ。」 (4)20歳までは生きられない彼の心臓が、いっそうその決意を確かなものにする。「ぼくは、自分が一番美しいときに死ぬつもりだ。……来年じゃおそすぎる。きっと病気がぼくをおそってやつれてみにくくなるだろう。そんなのは好きじゃない。」 (5)おあつらえむきの雪の夜、彼は彼の言葉を現実のものとする。「観客たちはだまされたままでね……」 (6)

 「少年」エミール・ブルクハルトは自死した。来年ではやつれてみにくくなってしまうという言葉が、彼の死の全てを物語っている。そもそも「少年」エミールとは、医師、執事らが作り上げたものでしかない。「少年」エミールをめぐる全ては、少女エミールが存在するというただ一点の真実によって虚構と化してしまっている。しかも、それはブルクハルト家の多くの人々、あるいは少女エミールを知らぬ全世界の人々にとっては虚構ではない。医師や執事、とりわけエミール自身にとって虚構なのである。自らの生が自らの存在によって虚構となってしまうという矛盾、この矛盾の中で、彼が自分の虚構性を象徴する美しさ(完全性)にのみ自らの生へのこだわりを持ってしまうのは無理もない。否、エミール・ブルクハルトの生は、最も美しい時に、その存在を停止することによって完成されるのだ。もともと存在すると思う者の間にだけ存在していた虚構の「少年」なのである。最も美しいときに最も惜しまれて死んでいくことで、虚構ではあるが完全な「少年」は、かえって虚構ではあるが完全な生を続けていくことが可能なのである。

 ならば、死んだのはだれだ。雪の中に埋もれ、おそらくは発見されないであろう死体は誰のものだ。当然それは、少女エミールのものである。虚構の「少年」に死体はない。では、なぜ少女エミールは死ななければならなかったのか。それは、来年には病気のためにみにくくなってしまうのであろうからではない。みにくくなるだけで生きることをやめねばならない「少年」としてしか、生きることができなかったからである。「少年」の死は少女の死である。女性であることに抵抗してきた少女は、自分の内にある男性(あるいは男性社会のメンバーとなること)の象徴である「少年」が死ぬのと同時に死んでしまうのである。本当に「少年」として生きてしまうことで、女性として生まれかわる道が絶たれていた少女エミールの場合、「少年」エミールの死は、少女の死であるとともに肉体としての死とならざるを得なかったのである。

 このように、その生にこだわって男性へと変化するにせよ、「少年」にこだわって死に至るにせよ、「少年」は現実の世界では「少年」のままでいることはできない。それは、少女も現実の世界では少女のままではいられないことを示している。「少年」を通じて他者とみつめあうことを習得した少女は、内的な「少年」との独り言から離れ、現実の男性と向き合う女性として生まれ変わるのである。

 (1) 作詞・五輪真弓(五輪真弓「少女」A面の3曲目・1972)。五輪真弓のデビューアルバムのタイトル曲で、たぶんデビュー曲。クセのある  独特の声で静かに歌い上げる。
 (2) 「雪の子」(1971/「萩尾望都1 ビアンカ」・小学館・1977)は、萩尾望都のデビューに近い作品。副題に「彼自身の世界に生きたエミー  ル・ブルクハルトの変身した少年時代、その死まで」とある。
 (3) 上掲書p218
 (4) 上掲書p202
 (5) 上掲書p208
 (6) 上掲書p223

    8.少女と「少年」----まとめにかえて


  もうひとつは
  猫がある時点で変化して
  人間になるルートがあって
  その双方とも人間からうまれてきたものと
  固く信じている
           -----大島弓子「綿の国星」 (1)

右の引用は、大島弓子の名作「綿の国星」からのものである。この作品の主人公は、生まれたばかりのチビ猫で、彼女は自分もやがては人間になれるものだと信じこんでいる。そんなわけで、まんがの中でも、エプロン姿の少女として登場している。

 もちろん、チビ猫自身も今の自分が人間の赤ん坊と同じではないことぐらいはわかっている。上の引用は、チビ猫の「わたしまだ 子供の猫 人間には 二つのルート ひとつは人間の型をした普通の赤ん坊から 大人の人間に成長するルート」 (2)という独白に続くものだ。しかし、同じ家に生活し、同じ世界を見て、人間の両親に育てられている自分が、同じ人間になれないとは、とても信じられないのだ。だから、猫は人間になれない。一生、猫のままで死ぬと教えられても、猫にも猫のしあわせがあるとなだめられても、なかなかその言葉に納得することができない。

 彼女は叫ぶ。「人間になれないなんて 猫のままで死ぬなんて 猫のほとんどがもらいものなんて それじゃああまりにもあまりにも あまりにもハンデがありすぎるじゃない」 (3)しかし、この世の中は猫のものではない。確かに人間のものなのだ。人間は、猫に対するハンデなんて考えようはずはない。

 だから、猫は自分でがんばらなければどうしようもない。「あたしもう つめとぎダンボールでつめなんかとがない。砂けちらかせてトイレなんてしない。床でねむることなんてしない。股間のおそうじ大っぴらにしない。洗顔方法も変える。そいでもって あたしは人間になるんだ。人間と同じことをしていれば 自然のなりゆきできっと人間になってくる。そうだ なんていい考えなんだろう!!」 (4)しかし、彼女が何をやっても、珍しい猫としか見られない。猫は猫でしかないから。

 これは、まさに現代社会で女性のおかれている状況ではないか。「少女の姿をしたチビ猫」とは、「少年の姿をした少女」のことなのである。(もちろん、チビ猫には子どもの視点というもう一つの重要な側面があるのだが。)「あまりにハンデがありすぎるじゃない」そう言って少女たちは「少年」を夢見る。「少年」は、ハンデを持たない自分自身なのだ。ハンデのない「少年」は何でもできるし、何でも言うことができる。そんな「少年」は、ハンデのありすぎる少女を助けるもう一人の自分であり、最大の理解者であるのだ。

 同じく大島弓子の「F(フロイト)式蘭丸」(5)から引用しよう。長く母一人子一人で暮らしてきた「よき子」は、母の突然の再婚宣言に驚く。しかも、そんな日に限ってクラス内は「接吻学」の話題で盛り上がり、「ひよこのよき子」はからかいのたねにされてしまう。そして、なお決定的なことには、みんなのあこがれである「更衣の君」から、突然、放課後2人だけで話がしたいと言われたりするものだから、うろたえたよき子は、思わず「私にも恋人がいます」と言ってしまうのだった。信じられないという顔をする級友たち。

 と、そこへ転入生が紹介される。なんとそれは、よき子がたった今明らかにしたばかりの彼女の恋人、森蘭丸その人だったのである。彼は更衣に言う。「きさまをこけおとすために来た」と。かつて、まわりがどんなにさわいでも態度もかえず、更衣たる素朴なふるまいを忘れなかったものを、今は人気を意識しそれにおぼれているのではないか、と。彼は、スポーツ万能、成績トップの更衣をあらゆる面で圧倒する。

 もっとも、百メートル走7秒0という記録が出るというほどで、この蘭丸という人物、そして彼の行動の全ては、よき子の空想の産物であったのだ。蘭丸はよき子にかわって更衣を非難し、こけおとす。(しかし、それは何のため ?)

 学校から帰ると母は出かけ、伝言が残っている。母は再婚相手と会うのかもしれない。そう思うと、またいたたまれなくなるよき子。蘭丸は「そんな時に」彼女の家を訪れる。「ぼくはかわらないよ。いつか約束しただろう。われわれは生涯新結婚の形式にしたがいよりそうこと。」 (6)

  子どものようにいつもはなれず
  親のように見まもり
  兄のようにみちびき
  女友だちのようにおしゃべりもする
  世間通例の接吻やベッドシーンはいっさい排除して
  つねにお互いの精神を愛すること (7)

 これが、二人の約束した新結婚の中身である。これを見るだけでも、二人の関係が性を拒否した上に成り立つ、ナルシスティックではあるが完成された幻想であることをうかがい知ることができるだろう。

 しかし、話は意外な方向に展開する。よき子のカバンの中からキズ薬が転がり出たのだ。
 まわりの 者は、更衣のためのものではないのかと詰問する。彼女は「蘭丸の」としか言うことはできない。そのまま学校を飛び出したよき子を蘭丸がつかまえる。「ぼくがけがなんかするわきゃない。きみは更衣が好きなんだ。」否定するよき子に蘭丸「好きなんだ」と断言し立ち去る。ようやく更衣を好きだと自覚したよき子は叫ぶ。「蘭丸、もどってきて、けいべつしないで。」

 「少年」蘭丸との「精神愛」を理想とする少女よき子にとって、更衣、つまり異性を好きになることは、軽蔑されるべきことなのだ。そんなよき子だから、毎日キズ薬を持っていても、そのことでまわりの者から詰問されないかぎり、いや、蘭丸から断言されないかぎり、恋を恋として受け取ることさえできなかったのである。

 その後に続く、自殺を図るよき子を実体がない蘭丸がどうすることもできず、更衣に助けを求めるというエピソードは論理を越えた世界の話になるが、よき子という一人の少女の精神的成長の中で、空想の中の「少年」が現実の異性にその席を譲る決定的な瞬間を表現している。救い出されたのは、もう少女よき子ではない。ストーリーは、二度と蘭丸が現われなかったこと、母の再婚と更衣との結婚を後のよき子が回想するのをつづる形でしめくくられている。

 このように、社会的にハンデを持つ少女たちにとって、「少年」の夢は自分を守る手段として非常に有効なものである。「少年」は、自分自身が自分自身であることに自信を持てない少女たちにかわって自分自身でありつづける。少女たちはやがて自分自身を認め、他者を見るようになる。それにともない幻想の「少年」たちは、自らの役目を終え、姿を消していくのである。

 「少年」は、少女の幻想である。少女たちは、その幻想の 中で関係へのはばたきを準備しているのである。

 (1) 大島弓子「綿の国星」(1978/大島弓子「大島弓子選集9 綿の国星」・1985・朝日ソノラマ)のp16。シリーズは、1987年のpart22まで   作られた。
 (2) 上掲書p16
 (3) 上掲書p64
 (4) 上掲書p65-66
 (5)  「F式蘭丸」(1975/大島弓子「大島弓子選集4ほうせんか・ぱん」・1986・朝日ソノラマ)は、大島弓子の「綿の国星」を描く前の精力    的 に作品を発表していた時期の作品。
 (6) 上掲書p243
 (7) 上掲書p244

 

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