・ 初出1982.5.1.NECO3号。世間が知らない少女まんがばかりになったという「メガネ」論の反省から、少しでも一般に知られた歌詞を利用しようとしたものの、いっそうマニアックになってしまった。ただし、「1.少女とは何か」は、当初稿を全面的に削除し、今回、書き下ろした。それにともなって、引用部分や今見るとあんまりな書き方をしているところも表現を改めた。なお、註は、すべて1999年現在である。
「少年」--少女の中の幻想<1>
1.少女とは何か「性に三種あり。すなわち男性、女性、それに少女である」 ----A.ビアス「悪魔の辞典」EPIGRAM,n, (1) 少女が特別な存在であるという見方は多い。それは、必ずしも男性の性的な視線からくるものばかりではない。「少女向け」とされる小説・まんが・雑誌の多様さは「少年向け」を圧倒している。時に悪意をこめてさえ使われる「少女趣味」という言葉は誰でも知っているが、それに対応する「少年趣味」という言葉はない。 (2)そんな言葉どおりの「少女趣味」を地で行くような少女たちはほとんど絶滅しかけているにもかかわらず、それぞれの時代にあわせた少女文化は今も花開き、少女という限られた特別な時間を謳歌している。では、なぜ今でも「少女趣味」を基盤とする「少女文化」というものが存在しているのだろうか。 少女という存在を、少年と比較してみよう。「子ども->少女->女性」という時間の流れと比べると、「少年」によって橋渡しをされた「子ども->少年->男性」という時間の流れは、ずいぶんなめらかにつながっているように見える。このことは、「男性」を「大人」に置き換えるとわかりやすい。子どもは大人に成長する。これほどわかりやすい物語はない。たとえば「一人前」という言葉がある。「努力・友情・勝利」という少年ジャンプを日本で最も売れる雑誌にしたテーゼは、「半人前」の少年が「一人前」(もしくは、それ以上の抜きんでた存在)となる物語である。子どもと大人の間に少年という時代があり、少年は一人前の大人になるためにさまざまな試行錯誤を続けている。この当たり前のわかりやすい成長物語の中で、男性は生きている。(あるいは、生きさせられている。) ところが、このあたりまえなはずの「大人」への成長の物語を、そのまま「女性」に置き換えることはできるだろうか。「一人前」と対応するのが、「女・子ども」という言葉である。この言葉は、裏返しの「父兄」という言葉とともに、法制度にまでなっていたかつての家族観を表わしている。むろん、今「女性は子どもと同様の無能力者である」という法律はないが、そうした意識は社会の奥深くを流れ続けており、現在でもいろいろな場所で顔をのぞかせている。 (3) この「女・子ども」という視線が、少女の時間に特別な意味を生み出す。「大人」への成長が待っている少年の時間とは異なり、成長したはずの少女には「女・子ども」への逆戻りが待っている。そこで伝えられるメッセージは、一つには「いつまでも性や社会という「大人」の世界から隔離された子どもでいてほしい」というものであり、もう一つには「ひとたび性と社会に目覚めたおりには、「女・子ども」の視線をみずからの内に受け入れなさい」というものである。「少女」の時間とは、「女に成長する子ども」がいつまでも性を持たない「子ども」であり続けることもできないが、かといって「女・子ども」の視線をまだ受け入れることに抵抗している(ことが許された)時間なのである。 本田和子は、日本における「近代型少女の誕生」を「少女倶楽部」に代表される少女雑誌と「女学校」という教育制度にまでさかのぼることができると書いている。 (4)女性に唯一許された中等教育である「女学校」が「良妻賢母」教育を行うのに対して、少女雑誌はそれに付随した彼女らの「非実用的有閑性」の感覚を支えていた。つまり、比較的裕福な中産階級の娘たちにとって、いつかめぐりあうはずの将来の夫と結婚するというゴールがあらかじめ設定されていたため、「進学することも、実業に己れを賭けることも叶わ」ないまま、それまでのモラトリアム期間を「少女雑誌」が見せてくれる夢の中で「少女文化」を花開かせていたのである。 そして、戦後の復興と民主化は、戦前には恵まれた家庭でしか持つことのできなかった女学校の「よき時代の乙女」たちの生活スタイルを、庶民にまで広げることとなったのだという。 (5)安価な労働力であった戦前の10代の女性と比べれば、進学し家庭に入るだけでよいという女学校の乙女たちの生活スタイルは、それだけで十分に大きな解放だったのである。 今、どこを探せば戦前の女学校型の生活スタイルを持っている少女たちがいるのか、という問いをする必要はない。少女文化を支える「非実用的有閑性」は、今の少女たちにも健在である。豊かさに伴う進学率の上昇は、少女期から日々の暮らしのために労働を強いられるという階層を激減させた。短大を含めれば高等教育はけっして特別なものではなく、女学校という制度よりも長いモラトリアム期間を少女たちに与えている。彼女らの将来には、かつての女学校生のような当たり前の「幸せな結婚」が待っているわけではないが、相変わらず社会の側では当たり前の戦力としては受け入れようとしない。つまり、まじめにやってもいいことはないし、といって他に何かしなきゃならないわけでもないし、たぶん楽しいのは今だけだろうし、という「非実用的有閑性」の感覚は、今の少女たちにも十分健在なのである。 (6) このような社会からの要求の中に、少女たちはさらされている。夢見る力は持ちながら現実には届かず、現実に届かないからこそ夢見ることだけは許されるという少女の時間は、独特の少女文化を生み出す。それは、さまざまな制約を受けた少女の時間を「幸せ」にすごすために生み出された、彼女らのせいいっぱいの創意なのである。 (7) (1) A.ビアス「悪魔の辞典」(奥田俊介・倉本護・猪狩博訳、角川文庫・1975の119p) 2.少女の世界娘の部屋のドアの外には、貼り紙がしてありました。 「帰る人は来ないで下さい」 -----谷山浩子「帰らない男」 (1) 少女の世界の中心を形作るのは、完全性倫理である。潔癖さと言ってもいいかもしれない。彼女らは不完全なものを認めないことによって、完全な自分と彼女の住む完全な世界、そして完全な世界での自分の自由な感性と行動を守ろうとする。 大人への目覚めを望まれていない少女たちにとって、許される関心は、子どもの世界、つまり、自分自身(とその感性の生み出すもの)以外にはない。また、すでに成長している少女たちは、子どもとは違った分別を持っており、その世界をより完全なものとして磨き上げることができる。少女の世界とは、自分自身の手の届く範囲に限られた狭いものではあるが、あり余る時間と膨らんだ感性によって磨かれた完璧な内的世界なのである。 それは、時として、現実さえも作り変えてゆく。まず不完全なものは見られなくなる。否、見えなくなる。完全なものとして認められてはじめて存在が認められるのだ。一つの典型が、かの「白馬の王子様」である。いまだに「廊下のカドでぶつかったのがきっかけでドジな主人公と誰もがあこがれるハンサム・ボーイとが結ばれる」という話は、(「そんな君が好きだよ」という最後のセリフとともに)少女漫画の一つの典型的パターンであるように、「白馬の王子様」に代表されるようなかなり身勝手であるが完全性だけは保たれている世界観を持つ少女は少なくない。 (2) そして、この完全性はかなり残酷さを含んでいる。「白馬の王子様」の例でいうと、この場合一応恋愛観になるわけだが、彼女にとってこの「白馬の王子様」に当てはまらない男性は男性として認められないのであるし、どうかするとその存在すら認められなかったりする。少女の世界では、気にいらない男性は存在しなくていいし、存在しない方がいいのである。 冒頭に引用した童話は谷山浩子のものなのだが、そこにはこのような少女の世界が端的に表わされている。何もない部屋の中で先のような貼り紙をしてすわっていた娘は、突然のノックの音に驚く。ノックの主は恋人と名乗り、帰らないと約束して中に入れてもらう。娘も最初のうちは幸福だったのだが、そのうちに昔を忘れてしまい、さほどの幸福も感じなくなる。すると、ある朝、男は娘の目の前で鉄のやかんになってしまう。娘はまたひとりとなるが、ある日ノックの音がして…。 完全性倫理に支配された空間である彼女の部屋に入るには、「帰らない」 人でなければならなかった。しかし、「帰らない」だけで満たされていたのは、ほんの一時でしかない。彼女の完全性倫理の中で、男は「鉄のやかん」に、「白い椅子」に、「つめ切り」にならねばならなかった。彼女の「長いあいだ忘れていた「淋しい」というきもちに似ていた」 (4)ものを満たすのは、「帰らない」男ではなく、鉄のやかんであり、白い椅子であり、つめ切りであったのだ。少女の完全性倫理では、あやふやな人間よりも用途のはっきりしたモノの方が満足できるのであり、付け加えるならば、あやふやな人間の心よりもまだはっきりとした人間のコトバの方が満足できるのである。なぜなら、彼女が求めていたのは、「淋しい」に似た気持ちをまぎらわせてくれる人ではなく「帰らない」人であったわけだし、男たちは恋人である前に恋人と「名乗ら」なければならなかったのである。 これほど極端ではないが、少女の世界をうまく歌詞として表現したのが、荒井(現・松任谷)由実である。 ベルベット・イースター 夜明けの雨はミルク色 「べルベット・イースター」の日に「むかえに来て」くれるのは、やはり恋人なのだろう。しかし、この唄の中で恋人の存在が少しでも感じられるのはここだけで、二番になると「きのう買った 白い帽子 花で飾り」で「むかしママが好きだった ブーツはいていこう」となっている。別にこの曲はラブソングではないから恋人のことをあれこれ語る必要はないのだが、いずれにせよ、「ベルベット・イースター」(が何なのかよくわからないが)に出かけようとする彼女にとって、恋人は白い帽子やブーツと同じような存在になっている。そして、こんな特別な小道具を必要としている彼女の心情が集約されているのが、最後の「いつもとちがう日曜日なの」である。 「雨の街を」でも、夜明けの「ミルク色」の雨や「ブドウ色」の空の中で、やさしく「肩を抱いてくれ」る人がいれば「どこまでも遠いところへ歩いてゆけそう」な気分になれるから、「やさしく肩を抱いてくれ」る「誰か」を求めているのであって、その「誰か」あるいは二番にでてくる「あなた」は、恋人としてではなく(たとえそうであったにせよ)「どこまでも遠いところへ歩いてゆけそう」な彼女の気分を持続させるために必要とされているのである。 松任谷由実自身、生活感のある唄は書かないというようなことを言っているそうだが、この二曲で表現されているところを見ると、少女的感性で生活感を切り離した時に、世界がまさに彼女の内的な完全性倫理に貫かれたイメージの自由な広がりとして現れていることがよくわかる。 このようにして、完全性倫理に守られながら、内的な自己表現や自由を満喫していた少女は、やがて一つの壁にあたる。完全な世界の中でどうしても不完全なものがある。それは、自分自身である。いかに「女性」としての自分を拒否しようとしても、生きている自分はどうすることもできないのだ。少女の世界は、少女の中の女性によっておびやかされることとなる。 先ほど紹介した童話は、こんな風に終わっている。今ではもう何でもそろっている「年老いた娘」(彼女は「老婆」ではけっしてない。「年老いた娘」なのだ。)の部屋を何十年ぶりかでノックする者がいた。
年老いた娘は、初めてタオのやって来たあの日のことを思い出しました。あの時の、驚きや、不安や、喜び
を、すっかり思い出しました。娘の頬は赤く染まり、心臓がかつてなかったほど激しく波打ちはじめました。目 まいがしました。 娘が初めてタオ(=男性=他者)に出会った日のことを思い出した瞬間、娘を訪れるのは死以外にない。その世界の中に真に他の人間に存在を認めることによって、娘(=少女)は女性になるからである。 (1) 谷山浩子「帰らない男」(「谷山浩子童話館」・六興出版・1979のp42)。ピアノ系シンガーソングライターとして長く、最近は童話作家・ パソコン周辺ライターとしても実績がある谷山浩子の初の童話集。同時期に出たアルバム「夢半球」(1979)とともに、彼女の少女的感 性や怨念が強烈に出た作品。
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