Brambly Hedge

                          ―茨の境界―
 
 







                    〈12〉
 

            キィ・・・と小さな音を立ててシンイチが憂鬱な気分で部屋から出てくると、意外な人物
          に声を掛けられた。

          「・・・話・・・受けるつもりなんか?」

          「お前には関係ない」

            廊下の壁に凭れて真っ直ぐにこちらを見つめてきたヘイジに、シンイチは素っ気無く
          返し通り過ぎようとしたが、不意に腕を掴まれて近くの空き部屋に引き摺り込まれた。

          ダンッと些か乱暴に壁に押し付けられて一瞬息を詰らせたが、シンイチにとってその後
          に続いたヘイジの台詞の方が、痛かった。

          「そんな事ないやろ。お前にあいつを引き合わせたのは俺とコナンや。関係ないなんて
          言わせへん!お前、惚れたんやろ?やっと好きになれる奴見つけたんやろ!?あんなボ
          ンボンの所為で諦めるんか!!?」
 

         「煩い!!」
 

          「!?」

          じっとヘイジの言葉を黙って聞いていたシンイチは、声を荒げた途端、ヘイジの視界が
          ひっくり返った。

            きつい声と共にシンイチが間近で怒鳴っていたヘイジに強烈な足払いを掛けたのだ。
          その所為で、ヘイジは床に勢いよく尻餅をついた。

          「お前に何が解る?俺はあいつから離れたくない。でも離れないと・・・っ」

          シンイチの顔が悲痛な表情に染まる。何か、強靭な精神の彼でも耐えられないような事
          を言われたのは明白だった。

            らしくない。ヘイジはそう思わざるを得なかった。彼との付合いは10年になるが、
          シンイチがここまで感情を露にする事は一度もなかったのだ。どんな事が有っても・・・
          それこそ、幼いながらに客を取る状況に在っても、その本心を明かす事はなかった。

          「・・・何を言われたんや?」

          ここまでシンイチの心を揺るかせる何か。おそらくこの店のことではないだろう。彼に
          とって、何よりも守りたいと思っている人物。それは・・・

          「・・・・・・俺が、あの男の所に行けば済むことさ」

          自嘲なのか、それとも己の身に及ぼされたこの状況への望みを諦めたのか。どちらとも
          つかない嗤いを浮かべてシンイチは言い、ヘイジに背を向けて扉を開いた。

          「・・・ホンマに、諦めたんか・・・?」

          怒鳴り付けるのでもなく、哀しみすら滲む声色で訊ねる声にシンイチはただ微笑むだけ
          で何も答えず、拒絶するように静かに扉を閉めた。
 
 

            閉めた扉の向こうから、何かを殴り付けるような音を聞いた。

          (ごめん・・・な)

          殴った板も拳も痛そうな音を聞きながら、シンイチは心の中で冷たく跳ね除けた親友に
          小さく謝った。

            ヘイジの言いたい事は良く解っていた。シンイチはこういう環境に身を置いている所
          為で、昔から人を特別に好きになった事もない。落ち着いた雰囲気や普段から被ってい
          る猫の所為で年齢不詳と言われがちだが、シンイチはまだ二十歳にもなっていないのだ。

            普通に若者が体験するような恋をしたことがない。

            しかも、全くそういう素振りを見せないが、シンイチはある事が原因である種の人間
          不信に陥っていたこともあった。

            カイトは、そんな彼が漸く好きになれた相手なのだ。

          (折角・・・あいつなら大丈夫だと思ったんだけどな・・・)

          人なんていつ死ぬか解らない。警邏の高官にアドバイスするという仕事をしょっちゅう
          引き受けているシンイチは、その事をよく知っていた。

            だけど、自分の所為で人を死なせてしまうなんて絶対あってはならない事なのだ。

          「ほんと、悪い・・・」

          静かな廊下。誰もいないそこで呟いた言葉は、誰に宛てたものだったろう。
 
 
 

            閉められた扉。その向こうにはもうすぐ手に入る彼がいる。その事実だけで、サグル
          は心の底から歓喜している自分に気付いていた。

          「二日・・・待って頂けますか?」

          そう告げた彼は、何故かと聞き返すとお客様に別れを、という返事が返ってきた。

            それはつまり、ライバル視していたあの男と別れるということで。

            初めて焦がれて、欲しいと思った彼を憎悪すら抱いた男から奪った。どんなに卑怯な
          手を使ったとしても、自分が選ばれたという事実に、これ程嬉しい事があるだろうか。

            返事は勿論、

          「よろしいですよ」

          というもの。本当はあの男の悔しがる姿も見たいと言うのが本音だが、そこまで言って
          いてはきりがない。ともかく、欲した彼はこの手に入るのだから。

            満足感に浸りながらグラスを傾けていると、突然背後から声を掛けられた。

          「成功したようね?」

            クスクスと甘い闇を湛えた笑声。振り返ると、感覚を痺れさせる魔的な美しさを持つ
          女・・・アカコが深く腰掛けていたソファの後ろに音も無く立っていた。

          「ええ・・・貴方のお陰ですよ」

          「そう。それで、貴方は何の報酬を私にくれるのかしら?」

          「・・・報酬が・・・?」

          「必要よ。だって私は魔女だもの。タダ働きはしないわ」

          魔女?と彼女の些か常識外れている気がする発言に内心首を傾げながら、

          「では何が欲しいんです?」

          と試しに聞いてみる。自称「魔女」だという彼女に見合う報酬なんて、到底思い付きそ
          うもなかったのだ。

          「あら、私が欲しいものでいいのね?」

          問いを問いで返されて、しかもそれに付いてきた出合った当初の企みの笑顔に、サグル
          は思わず背筋に悪寒が走るのを感じた。

          それでもなんとか頷き返し、「では、時が来たら貰うことにするわ」と妖しく笑って去
          って行く彼女を見送った。

            彼女の求めるものが何なのか。無理にでも自分で決めた方が良かったのではないかと
          不安に思いながら。
 
 
 

            コナンは、ソノコ嬢の部屋から帰って来ていたシホと、これから起こす事の話を付け
          ていた。随分前に入れて冷めてしまった紅茶を飲んで、嫌味によく当る嫌な予感を腹の
          底に押し込める。

            まだ暖かい季節の筈なのに、部屋の空気が冷気を伴っているのは、主に彼の所為なの
          だが、敢えてそれを指摘する者は幸いにもこの場にいなかった。

          「・・・イライラしてるのね」

          コナンに負けず劣らず氷の刺を多量に含んだ空気を放っているシホが、自分で煎れた紅
          茶を味わう気も無く口に含みながら言うと、

          「当り前だ」

          と普段より一オクターブは低くコナンは凡そ子供らしくなく唸った。その姿はいつもの
          猫を被っている時の彼の様子からは、想像も付かない程の苛立ちを含んでいる。

            シンイチの部屋の前で会話した後、コナンはカイトに会ってすぐにここに来た。その
          間、彼は一体何をしていたのか、いつもよりも幾分青褪めた顔でこの部屋に入ってきて
          言ったのだ。

          「今から仕事、入れるから」

          と。つまり、それは部屋で待つカイトの元には帰らないという事で、知らない内に抱え
          てきたものを背負ったまま、別の誰かの処に行こうとしているのが考えなくとも解る。

            普通、「今から仕事」と唐突に行った処で客は引っ掛かっては来ないものだが、中性
          的な姿を保ったまま美しく成長したシンイチに関しては別格で、彼にとって、仕事を取
          ること自体は然程難しい事でもない。

            だが・・・何故、今なのだろう?

          「どう見る?」

          「何を」

          「シンイチの事だよ」

          「・・・・・そうね・・・」

          明らかに怪しいと彼女も感じていたらしく、シホはまだ半分程残っているカップをソー
          サーに戻してテーブルに置き、じっと己の考えに没頭した。

          眉根をきつく寄せ、目を閉じて思考する。目を閉じるだけならば、年齢よりも幼く見え
          る彼女だが、深く刻んだ眉間の皺のせいで寧ろいつもよりもやや顔つきが鋭くなったよ
          うな感さえあった。

            仕事を取りに行ったからといって、シンイチが職業意欲に燃え出したということはな
          いだろう。ましてや、今彼の側にはカイトと言う存在がいる。だから、ハクバ伯爵との
          対峙で何かあって、その捌け口を求めるという事もない。

            第一、シンイチはセックスに救いを求めるタイプではない。

            ――あくまでも問題なのは、「今」というタイミング。

          しかも、彼は明日も明後日も仕事を入れると宣言して出ていった。・・・つまり?

          「俺には・・・捨てようとしている風に見えるよ」

          ハクバ伯爵の存在は思い出すだけでも頭が痛いが、彼の自称・魔女がその伯爵を唆した
          事も考えて、コナンはシホに向けて出した筈の疑問に自らで答えを出した。

          「全部?」

          「全部。この店の事、俺達の事、それに・・・」

          「彼、自身を・・・」

          シンイチは捨てようとしている。

          呆然と浮かんだ科白を舌に乗せ、シホはざっと自分の血の引く音を確かに聞いた。

          「嘘でしょ・・・?」

          信じられない、というよりも信じたくないという感情の方が強かった。思考する為に閉
          じられていた瞼を開くと、正面にいるコナンは苦々しげに冷めた紅茶をぐいと飲み干し
          ていた。

          「嘘だと良い。だけどこれは・・・」

          シンイチの目に良く似た青の目を鋭く光らせながら、コナンが結論を下そうとした・・・
          その時。

          「おいっ!居るんやろ!入ってええな!?」

          ドンドンッ!という騒々しく扉を叩く音と共に怒鳴り声を撒き散らしながら応答の声も
          聞かずに入ってきたのはヘイジだった。

            無遠慮な侵入者は、予感的中を告げる爆弾を放った。

          「あいつ、ボンボンの申し出受けよったで」

          先程シンイチとの間で起こった事のあらましを掻い摘んで話していると、我慢できない
          とばかりに突然コナンが立ち上がって駆け出し、すぐさまシホがその後を追う。

            着いていこうとしたヘイジに「あなたはここにいて」と残して。
 
 
 

            シホが言い残して出ていった後、ヘイジは館の警護として常備している鍵で彼女の部
          屋の鍵を閉め、本館の最上階へ走った。

          必死に走るヘイジへの仲間達の野次に怒鳴り返しながら、二段飛ばしで勢いよく登り、
          無理に荒い息を整え、震える手で見るからに豪華な扉をノックする。

          「誰?」

          すかさず良く見知った、命令する事に慣れた毅然とした声が中から返され、僅かに安堵
          して軽く咳払いをし、喉の調子を整えて「俺です」とヘイジは答えた。

          上流階級の御令嬢に「俺」発言はもし他人に聞かれでもすれば首切りものだが、当の本
          人が特定の人物達だけに許しているので余り関係ない。もちろん、ヘイジもシンイチや
          コナンに協力するものの一人として、彼女に許しを貰っている一人だった。

          誰何の答えに返した直後、入ってと中から言われ、漸くヘイジは中々慣れたくない豪奢
          な扉を開けて、中でいちゃついているであろう二人にお目にかかろうと、音も無くさっ
          と入り込んで・・・思わず絶句した。

          抱き合っているか、またはベッドの中にいるであろうと予測していた二人は、そりゃぁ
          もう仲良さそうに手を繋ぎ、小さな少年少女の如く初々しくベッドの端に座ってお喋り
          に興じていたのだ。

          女性不信だったマコトがそうそう簡単に女性に手を出せるとは思わない。それでも、だ。
          後2日でスズキ公爵家に引き取られる事になっているマコトとソノコ嬢の付合いは、出
          会って既に1年以上は経っているというのに、年頃の男がまだ彼女に手を出していない
          とは。

          瞠目したまま奇妙な表情で見つめられ、マコトはばつが悪くなったのか吹き出すのを堪
          えているのか解らない顔で沈黙した。図体のでかい少年を恋人をもった令嬢は、面白そ
          うにその二人を見ている。吹き出すのを堪えているのは彼女かもしれない。

          「・・・」

          「マコト、お前・・・」

          「・・・なんですか」

          「純情やってんなぁ・・・うわっ!?」

          しみじみとそう呟き、更には白いハンカチで涙を拭う仕草をするヘイジに、照れ隠しな
          のかビシュッとマコトが何かを投げつけた。・・・ベッド脇のテーブルに備え付けてあるペ
          ーパーナイフだった。下手したら死ぬ。

          (首に入ったら一発や☆っやなくて!)

          自分の思考に自己ツッコミをして空中に逆手でチョップをかまし、

          「危ないやないかいっ!」

          と一応投げた本人に抗議したが、密かに奥様キラーと呼ばれた事もある色黒の色男は

          「それぐらい避けれなければこの館の警備なんてやってられませんよ」

          と逆にお説教をするだけだった。国で1,2を争う家柄の少女はというと、くすくすを
          軽やかな笑声を上げるばかりで調停に入るつもりはないらしかった。

          「それで、一体どうしたんです?」

          優しく愛しげに少女の手を掌で撫でた後、マコトは突然厳しく気配を変えてヘイジを見
          据える。真剣な顔。雰囲気。シンイチのそれが冷たい炎なら、マコトのそれは冴えた剣
          の刃のようだと思う。

          鋭い眼光に怯む心を叩きのめし、真っ直ぐに二人と目を合わせて一気に喋った。

          「シンイチがハクバ伯爵の身請けを受けたんや。今シホとコナンが応急措置にカイトの
          処に行っとるけど、多分こっちの動きも変わってくるからな。わいも手ぇ貸したいんや
          けど、付き合わせてくれへん?」

          シンイチを助けたい。護衛の対象だとかこの館の姫だからとかではなく、昔からの親友
          として、唯々純粋に彼の助けになりたかった。

            地方の訛りが抜けず、中々この辺の高級志向に馴染めなかったヘイジに声を掛け、仕
          事の日以外は一緒に遊ぼうと言ってくれたのはシンイチだった。その頃から人気だった
          彼に怪我をさせて怒られた日もあったが、そんなヘイジを彼は良く庇ってくれたものだ。

            あの時のシンイチの笑顔で孤独として溜まった泥が抜けて流れたような爽快感や歓び
          は忘れられない。本人は只遊び相手が欲しかったのだと言っていたが、それでもヘイジ
          にとって彼は救いの光だった。

            じっと見つめる先には、計画の一端に携わる二人の男女が、真剣な表情でこちらを見
          返してきている。沈黙は張り詰め、轟々と唸り声を上げる風がガラス張りの大窓を割ら
          んばかりに叩いていた。

            ふっとソノコ嬢が視線を緩め、微笑みを浮かべてマコトの袖を小さく引っ張った。そ
          れを合図に、マコトも真剣な顔は崩さずとも眼力だけは緩め、重々しく頷く。

          「そうですね、お願いします。・・・あなたも彼の大切な人ですから」

            ――誰か一人だけではなく、皆が幸せになれればいい。
 
 
 

            一室に、光と闇を体現したような美女が二人。こんなに豪華な華が揃う事は滅多にな
          いだろうと思いながら、ユウサクは転化していく事態に苦笑を零した。

            正面には魔女と尊称を受けたアカコが立っており、濃紫のナイトドレスの上に夜色の
          ローブという出立ちは、娼婦というよりも正に魔女と呼ぶのに相応しい。彼女自身も多
          くの闇を背負いながら、光を支える守護者の一人だ。

          「君の見立てではどうなるんだい、赤の魔女殿」

          シンイチが彼女を拾って来た時に彼女自ら名乗った名称で聞き、丸く満月になりつつあ
          る月を見据えておもむろに手を組み変える。

            何しろ、愛息子の人生を左右する時だ。この館に無理に縛り付けてもう10年以上に
          なるが、シンイチから我が侭らしい我が侭を聞いた事はなく、例えユキコとの賭けがあ
          っても彼の願いは聞き遂げたいと思っていた。

            シンイチに言ったように、ユウサクは別に彼を縛り付けたいわけじゃない。生きてい
          けるようになって、本人が望むなら彼を繋ぐこの館という鎖を断ちきっても良いとさえ
          考えていた。そのための教養も知識も知恵も充分に与えてあるのだ。

          だが、養われているこの館の為に自分が、とシンイチは考えていて、独り立ちしても良
          い年頃になっても彼はこの館を出たいとは言わなかった。

            羽ばたきたいと願っていた筈なのに、このままでは鎖に足をもがれて本当に飛べない
          鳥になってしまう。

          「彼は当初とは別の道を選びました。ですが、守護者達がそれを許さないでしょう。本
          人の思惑とは全く無視で進んでいますが・・・」

          「結果善ければ全てよし、だよ」

          「奥様との賭けに負けてしまわれますわよ?」

          予定に狂いはあるものの、一応は進んでいる今の状況に対して笑って済ませてしまった
          館の主に、アカコが悪戯な笑みを浮かべて言うと、当の彼は「いいよ、ユキコならね」
          とのたまった。

          「ユウサクに勝てるのは私だけよ。勝たせてもらえるのも・・・ね」

          光の女王が館の客の男達を一発で魅了したという柔らかな笑みを向けて得意げに言った。
          その細い両腕は確りと彼女の夫の腕に絡んでいる。

            実質の所、この館はこの仲睦まじい夫婦がいて成り立っていて、彼等が仲違いでもし
          ない限り経営が破綻する事はまずありえない。

          この分なら、彼等は後10年以上は余裕で上流階級の貴族様方を眺めて遊んでいられる
          だろうと思われる。

            ユウサク自身は貴族の出だが、出奔した今でも何食わぬ顔で昔馴染みらしい人物達と
          交流している辺り、その面の皮の厚さは普通ではない。

          「私はユキコもシンイチも、勿論コナンもこの上無く愛してるからね」

          静かに微笑む男の顔は、父親の優しさと夫の大らかさそして館の主としての貫禄に溢れ
          ている。

            アカコはそんな彼と、彼の手綱を握る事に成功した美貌の女性に敬意を表して一礼し、
          脳に直接染み渡るような独特の深い声音で最後の一言を残して消えた。

          「全ては、白き罪人の決断次第ですわ」

          と、唯一幸せを願う人を想って。
 
 
 

            部屋を飛び出した二人は、通りすがりの店員達が思わず振り返るような速さで別館の
          階段を駆け上って最上階のシンイチの部屋に駆け込むと、彼を待っていたらしいカイト
          が勢いよく振り返った。

            そして二人の姿を見とめると、只事ではない様子に一瞬でガラリと気配を変え、険し
          く目を細める。

          「どうしたんだ?」

          愛しい人といる時とは比べ物にならない、凍るような視線の元で、息を切らしたコナン
          が切り出した。

          「っ・・・悪い、知らせだ」

          ひゅうっと声を詰らせた言葉をすかさずシホが引き継ぐ。

          「シンイチが・・・」

          「シンイチが!?どうしたんだよ!」

          シンイチの名を聞いた途端、気力で静めていた不安や焦りにカイトはコナンに詰め寄っ
          た。それに軽く片手を挙げて距離を取り、息を整えて真っ直ぐに彼の紫がかった目を見
          つめて答えた。
 

          「シンイチが、ハクバ伯爵の身請けを受けた」
 

          残酷なほどにはっきりと。

          「なっ・・・!?」

          驚愕の表情を表すカイトの様子で、まだシンイチがここに帰ってきていないことがわか
          ったが、ほっとしている場合ではない。

            いままではまだ、シンイチが身請けの話を断り続けて、その意志が無かったから良か
          ったが、今回は彼自身が身請けの話に乗ったというのだ。――あの、誇りは空よりも高
          い彼が。

            一度決断した彼の行動は迅速だ。だから、早く対応しなければ全てが根底から否定さ
          れてしまう。

          もしもの時の事を思って考えておいた言葉を、こうして伝える事になるとは、シホと打
          合せした時には予想だにしていなかった。

          「シンイチは、今この店と折り合いを付けにいってるわ。だから貴方は・・・」

          「ちょっと待てよ!」

          さっさと話しを計画に進めようとするシホをカイトは慌てた様子で止め、言った。

          「シンイチはハクバの処に受けにじゃなくて拒否しに行ったんだぜ?なんで受けたんだ
          よ」

          「んなこと知るか!ただ、お前は一旦退け」

          冷たく硬質にコナンの科白が突き刺さり、シホは二人の発する空気が静電気のように肌
          を撫でるのを感じた。

          「俺にッ・・・」

          「勘違いしないで頂戴。シンイチに貴方を手放させない為に一旦退くのよ」

          カイトが言おうとしていた事の先を素早く遮ってシホは口を挟むが、カイトはそういう
          意味じゃないと首を振った。

          「今、シンイチから俺が離れたら、それこそあいつが調子に乗るじゃねえか」

          はあ、と溜め息を吐きながら断言するカイトに、この二人に面識がある事に気付いて、
          コナンは鋭く落ち着いてきた気配を見せる男を睨み付けた。

          「知り合いなんだな?」

          「俺の追っ駆けの一人だぜ。熱烈すぎて鉛玉持ち歩くようなバカヤロウだけどな」

          おどけて肩を竦めてみせるが、出てきた真実は実に物騒な代物だった。目の前の泥棒の
          言からすると、あの高慢な自称紳士は計画の途中で銃をぶっ放す可能性もある、という
          ことだ。

          「・・・ここで会った事は?」

          「見かけた事はあるけど、向こうも気付いたかは知らねぇよ」

          コナンはカイトの返答に溜め息を吐き、カイトはカイトで厳しく眉根を寄せて低く短く
          唸った。その様子を見ていたシホは、コナンの意図に素早く気付き、額に手を当てて被
          りを振り、静かに外へ出ていった。

          「俺の、所為だな」

          苦しげに顔を歪め、シンイチが認めた男は苦々しく言った。

          「そうだな」

          ――諦めるか?原因の自分がシンイチから離れた方がいい、なんて思ってるか?

          言外に蔑みと嫌味と期待の声をぐちゃぐちゃに混ぜて、敬愛する兄に良く似ていると言
          われる目で正面から怪盗を睨み付ける。

          「いいや」

          ここまでき、改めて気持ちを試す眼差しに、月を守護に持つ男は夜の静けさと闇の苛烈
          さを湛え、不敵に微笑んだ。彼はコナンに背を向け、コツコツと靴音を鳴らして窓際に
          寄る。

          「俺が原因なんだろ。だったら・・・」

          背筋がゾクリと震える冷涼な気配に、先程まで焦っていた感情の高ぶりが徐々に覚まさ
          れていく気さえする。

            それは、彼が怒った時、また本気になった時に肌で感じた気配と酷く似通っていた。
 

            お姫さま
          「シンイチをあいつから掻っ攫うのも、魔法使いにしかできねぇよ」
 

          ショーを始める奇術師の如く、大きく広げたカイトの背後には――目を眇めるほどの光
          を持つ大きな月が、煌々と輝いていた。
 

           「The magician under the moon―――」
 

          月下の魔術師。自信満々に言い切った男に、コナンは思わず考えうる最上の称賛の声を
          上げた。こいつなら、と。そう思ったのだ。

            風が獣の唸り声を上げ、ナイト・リリーの火の粉が舞った。












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やっとこさ色々動き始めましたねっっ!!
前からチョロチョロ進んではいましたが速度が遅い遅い・・・(TーT)
次が最悪の谷場。悪役(笑)再登場でゴザイマス。後、今更な感じの御方も少々・・・






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