Brambly Hedge
―茨の境界―
〈11〉
コナンがノックもせずに扉を乱暴に開けると、そこには案の定、何やら深刻な顔をし
た目的の人物がいた。
「・・・・・・コナン・・・どうしたんだ?」
大慌てで入ってきたコナンに、今までの険しい表情にポーカーフェイスを貼り付けたカ
イトが訊ねる。先程の顔で既に話を聞いてしまった事は解るのに、それでも隠そうとし
ているこの男は相当の意地っ張りなのだと思った。
しかし、今はそんなこと問題じゃない。意地なんて引っぺがしてポーカーフェイスなん
て引き千切って話してしまわなければならない。
これから起こる事を。
これから、起こす事を。
「カイト、聞いたんだろ?全て知ってて平気なか顔できるんだったら、俺はお前を認め
ない。こういう時こそ本性出す時なんじゃねえかよっ!」
今まで被っていた外面も何もかも引き剥がしてコナンはカイトの胸座を掴んだ。全く
の他人に素の自分を見せて、取っておいたカードまで使ってしまうなんて、これが彼の
事でなければ有り得ない事だ。
至近距離で睨み上げた先の青い目には、炎を帯びているのが見て取れた。彼の持つ雰
囲気が冷たい物と化しているとこの時点になって漸く気づいた。今更そんなことに気づ
くなんて、コナン自身もかなり動揺していると自覚して、思わず嘆息した。
本当に今更の事だ。何故気づかなかったのか・・・カイトが平気なわけが無いのだ。何し
ろ自分が嗾けて、本当の意味で彼を見抜いて内側の光に惹かれたオトコなのだから。
彼が買われると聞いて、冷静でいられるわけが、ない。
「・・・・・・俺に、出来る事は?」
現に、目の前の男は今まで隠そうとしていたもう一つの顔を、いっそ鮮やかなまでに露
にしている。
冷たい――鮮烈で冷涼な気配。内にあるものは全てを凍らせる熱い氷か、それとも全
てを焼き尽くす冷たい炎か・・・
どこまでも見えそうで見えない相手のその気に、コナンは当てられてしまっているの
を感じながら、小さく微笑んで言った。
「お前が、お前である事さ」
そう、この男ならば大丈夫だ。
無意識にでも、そう思えるのだ。この男ならば彼を護る事が出来ると。
真夜中。防音も無い部屋からは、買われた館の店員と客の睦言の声が聞えてくる。こ
こに引き取られたあの日・・・ティーン・エイジャーになったばかりの7年前に彼に拾われ
てから毎日のように聞かされた声だ。今更恥ずかしいなどと思わない。
本館2階にある自室から抜け出したシホは、これ以上なく急いでいた。数日前に館長
室に行く時に見せた鬼気迫る表情とはまた違う、それこそ無音の中の吹雪のような気配
を漂わせながら最上階のあの部屋へと向かった。
『利用する手もあるんではなくて?』
彼の運命の相手に嫌がらせを掛けた張本人に言われた一言。
あの伯爵が彼を身請けしようとすることを利用する手段。伯爵を妨害するのではなく、
それをもこちらの手札にすればいい、と出されたカップを片手に優雅に微笑んでみせた
彼の占い師は事も無げに言ってみせた。
勿論、妨害も必要だ。彼をみすみすあんな伯爵に渡すわけにはいかない。だが、こち
ら側が手を出せば伯爵の権力でこの店を潰されてしまう可能性があり、それは彼の望み
ではない。
(使える者は何でも使え、生き延びる為の手段は選ぶな・・・そう言ったのは貴方よね)
ふ、と唇を微笑みの形に歪ませる彼女の姿は美しいが恐ろしかったが、幸い目撃する人
間はいなかった。
(私は、貴方に貰った命で一生掛けて護り通すって決めてるのよ)
真っ直ぐ前方を睨み付けながらシホは過ぎ去った出逢いの日を想った。
7年前。まだここまで大きくなる前のナイト・リリーの裏口に、塵のように捨てられ
たシホを拾ったのはまだ小さい子供のシンイチだった。
自分より低い成長期前の身長と変声期前のボーイ・ソプラノ。伸ばされた手は自分の
それよりも小さくて、暖かかった。
『お姉さん、お医者さん?』
ニコヤカに声を掛けてきた彼は、今考えると巨大な猫を数匹被っていた状態だったんだ
と解る。だけど、当時のシホにそんな事を見抜ける筈もなく、唯一持っていた役に立た
ない医療キットを胸に抱えて、見た事も無い天使の様な美貌に見蕩れていた。
『半分当ってるけど半分違うわ。どうしてそう思うの?』
微笑み返しそうになった顔を相手は他人だと思い直して強張らせ、硬い声で聞き返すと、
少年は子供らしい微笑みを一瞬で消し去り、変わりに人を圧倒する強烈な気配を纏って
笑った。
『簡単さ。貴方からは普通の人間では有り得ない濃い薬の匂いがする』
「子供らしい」のコの字も無い堂々とした話し方。高く放たれた初対面の声とは違った
印象を与える落ち着いた響きのボーイ・ソプラノは、散々甚振られて捨てられたささく
れた心を音を立てず溶かした。
『お姉さん、名前は?』
『・・・シホよ』
『俺はシンイチ。ねえ、シホさ、俺の主治医になってくれない?』
差し伸べられた手。所詮は他人なのだから、と思わずその手を取ってしまいそうになる
自分に叱咤し、新一と名乗った少年を睨み付けた。伸ばされた手、施しを受ける事に対
する僅かな屈辱。
そして、何よりも捨てられる事への恐怖がシホにその手を取らせなかった。
『出会ったばかりの見ず知らずの人間の手を取れるほど、私は無防備じゃないわ』
『解ってる』
警戒心と受け取ったのか、シンイチは苦笑して片膝をつき、柔かな両手でシホの右手
を取った。
生きる為の右手。意識的、無意識的に人を傷付け、傷つけられてきた右手。その傷を
癒そうとするようなシンイチの手は、今まで感じた事の無い暖かさでシホの心に届いた。
『俺は貴方を傷つけないよ。恐いモノがあるなら命を懸けて守ってあげる。シホは、自
分が生き延びる為に必要な手段を選べばいい』
『それは暗に私に貴方に助けを求める事を強制しているの?』
だったらそれはシホのプライドへの立派な侮辱だ。自分の選択権も生きる権利も全て、
目の前の少年に奪われてしまうような圧迫感と怒りがふつふつと湧き起ころうとした時、
シンイチは慌てたように手を振って否定の声を上げた。
『違う!・・・俺は、使える物は何でも使えばいいって言ってるだけだ。生きる気があるの
なら、生きる為の手段は選ぶなよ。だって生にしがみ付く事は格好悪い事でも何でも無
いだろう?』
自殺を選ぶ方がよっぽど間抜けさ。と手を握ったまま言うシンイチの目には同情の色は
なく、純粋にシホに生きろと語っていた。
あの小さな手を取ったからこそ、今自分は生きてここにいられるのだ。例えその後の
金銭援助がユウサクの物だったとしても、あそこに居ればまず間違いなく野垂れ死んで
いたシホを救ったのは、紛れも無くシンイチだった。
誰にも語った事の無い出逢い。救われた真実。それだけで、シホが自分自身を彼に掛
けるには充分な事実だった。
カツカツと廊下に靴音が響く。最上階まで登って来ればお客様方のお楽しみの声も流
石に聞えない。目指す先にも一組のカップルが居るのだが、特に野暮な事になるわけで
もないと解っていたので遠慮なくシホは扉を叩いた。
「誰?」
中から明るい声が聞えてきて、シホは呼びかけた。
「シホです。開けても宜しいでしょうか?」
「いいわよ、入って」
迷いの無い快諾を得て、躊躇う事無く中に入ると、案の上天蓋付きベッドで一切の服の
乱れも無いカップルが一組、腰を掛けて寄り添っていた。
「ごめんなさいね、折角の逢瀬なのに」
と一応謝罪の言葉を口にすると、気にしないで、とあっけらかんとした物言いでソノコ
は応えた。
一見では犬も食わぬ程出来上がったカップルのソノコとマコトだったが、思いを通わ
せて随分経った今でも実は体を通わせた事は一切無い。マコト曰く、「そういう事をす
るならきっちりとケジメを付けてからにしたい」と言うのだそうだ。
(この店では珍しいカタブツよね、マコトも・・・)
以前ソノコにその事を話された時つくづくそう思った。確かに、余程のカタブツでなけ
れば女に囲まれたくらいで女性不信などには陥らないだろう。そういう処にも惹かれた
のよ、と幸せそうにソノコは笑って言っていたが。
「君が来たという事は・・・彼に何か?」
瞳の奥底に鋭い眼光を隠して、シホの只ならぬ雰囲気に気づいたのかマコトが薄いショ
ールをソノコの肩に着せ掛けながら訊ねた。
シホは二人を見つめ、静かに頷いた。目の中に浮かぶのは固い決意と、ただ独りを思う
心の炎。
「・・・そうよ。・・・・・・貴方達に力を貸して欲しいの・・・」
彼女の声に二人は微笑んで頷いた。シホが思う彼。二人が思う彼。友情に近い感情があ
る。返しきれない恩もある。それだけじゃない、彼を大切だと思う気持ちが彼らを無敵
にさせるのだ。
「今晩和、ハクシャクサマ」
鍵の掛かっていない扉を軽くノックして、部屋の主に許可を貰い中に入ると、案の上
たった一度しか会った事の無い自称:買い主が優雅に柔かいソファに腰を下ろしていた。
儀礼的に挨拶して静かに礼をして相手を見ると、カップを傾けていたその男は静かに
笑ってもったいぶった仕草で立ち上がった。
「これはこれは。感激だよ、君が自ら私の部屋に赴いてくれるなんてね」
口元に微笑みを浮かべていても、こちらを見据る瞳に好意的な影は無く、あるのは水の
中に黒いインクを垂らしたような混沌と暗い闇だけだった。
(・・・・・・本気、らしいな)
どこか狂人めいた彼の眼差しを受け留めながら、シンイチは見えないように隠した手を
堅く握り締めた。
「そんな・・・まるで僕が貴方を避けていたみたいな言い草ですね」
「おや、そうだったんじゃないんですか?」
「まさか!!ご冗談を。僕のような者がどうして貴方を拒めましょう?」
事実その通り・・・というか、カイト以外の客を避けていたのだが、そんな事を口に出して
やるほどこの男に気を許すべきではないとシンイチは重々承知していた。
第一、端からこの男のモノになるつもりなどない。
それでも微笑みを浮かべるのは、この伯爵があまり油断できない人間だと短い接触で測
っていた所為だ。
「では、私の元に来てくれますね?」
「それは・・・僕はこの店を捨てられません」
苦しい言い訳。この館は自分が居なくても十分成り立つ事をシンイチは自覚している
し、いつか誰かに買われる事を予測し、この場所を離れる心積もりはあったのだ―――
今までは。
ここに居なければ・・・否、他の人間に買い取られてしまえば、もうカイトには会えなく
なってしまう。それだけが、シンイチをこの場所に留めているのだ。
「館長は許可しましたよ」
「でも、僕にはお客様が残っているんです」
一応、本当の話。だが、これも特にここに執着する理由にはならない事を知っていた。
「・・・――存じていますよ。公爵嬢に、警邏の高官に・・・若い男でしょう?」
「若い男」その言葉を聞いて、シンイチの鼓動は一気に跳ね上がった。きっと紛れも無
くカイトの事だ。だが、自分が彼を招いた事は極少数の人間しか知らない筈なのに。
「若い男に心当たりはありませんが・・・」
痛い程鳴る心臓の音に、呼吸が荒くなるのを必死で抑えながらシンイチはハクバに静か
な微笑みを向けて見せる。誤魔化せたかどうか解らない。だが、意地でも彼の事をこの
男に自分から解らせるわけにはいかない。
「そうですか・・・・・・そういえば、ご存知ですか?」
「何をです?」
「今世間で評判の怪盗KIDのことですよ」
(っ・・・・・・何で今その名前が出るんだ・・・!?)
「・・・確保不可能の泥棒でしょう?」
声は震えてなかったか?慎重に返したつもりだったが、些か自信が無かった。怪盗KID
は彼のもう一つの顔であり、犯罪者・・・白馬探偵が追う、法を隔てたライバルというべき
存在なのだ。
「そうです。彼はビッグジュエルと呼ばれる宝石を中心に狙っていましてね、館長殿に
お聞きしましたが、この館にもそう呼ばれるに相応しい宝石があるとか・・・それも、貴方
所有の」
「・・・ええ・・・それが何か?」
(何が言いたいんだ、こいつ・・・)
睨んではいけない、あくまでも微笑みを浮かべていなければならない。
これは、客に対する必要最低限の礼儀なのだと、幼い頃から母に叩き込まれたことが幸
いしてシンイチの鉄壁の笑顔は崩れる事が無かったが、内心では酷い不安と嫌な予感が
渦巻いていた。
「貴方の宝石がもしあの怪盗に目を付けられたら大変です。あの気障な怪盗は、貴方ま
で盗んでしまいかねない・・・」
実際にはもう盗まれているといった方が正しいが。
シンイチの持つビッグジュエル。大粒のブルー・ダイヤモンドは、母のユキコから初
めてステージに立った時譲り受けた物だ。カイトが初めてこんな警邏の高官達が集まる
場所に出てきたのには訳がある、とシンイチは彼の裏の顔を見抜いた時点で察しを付け
ていた。
余り来たくないと思っているような場所にわざわざ顔を出した理由。ただナイト・リ
リーに遊びに来たというだけでなく、コナンに接触し自分に直接会おうとした理由。そ
れらは全て、カイトが「怪盗キッド」であることで説明できた。
(それが何だってんだよ)
カイトは、自分の身が危険になると知っていても、敢えて自分にその正体を告げたの
だ。
何より、カイトの目的がブルー・ダイヤモンドだったとしても、シンイチ自身がカイトを
好きになったのだから、そんな事はどうでもよかった。欲しいというのならあんな宝石
一つ盗む手間など掛けさせずにくれてやるところだ。
「だから・・・僕は、貴方が盗まれてしまう前に」
ハクバは音も立てずに静かな動作でこちらに近づいてくる。思わず後退したくなる足を
何とかその場に留め、微笑んだままのハクバを見つめた。
口元は笑っていても目は笑っていない。嘗め回すような視線には絡み付く嫌なモノが
混じっている気がした。
「あの怪盗を捕えてしまおうかと思っているんです」
(・・・何、だって・・・?)
捕まえる?怪盗キッドを?
(・・・カイト、を?)
「・・・難しい、と聞きましたが?」
そんな事は有り得ない。怪盗キッドがこの男に捕まるわけはないのだと解っていても、
堂々と宣言されてしまえばどうしても不安が募ってしまう。
もし捕まってしまったら?監獄に入れられてしまったら?もしもなんて有り得ないの
に、マイナスの方へ傾いてしまう心は止められない。
「難しいですよ。捕まえるのはね・・・でも、殺すのはきっと簡単ですよ」
「・・・・・・・・・っ」
叫んでしまいそうになる口元を引き締める。怒鳴り付けようとした声を息ごと殺し、落
ち着け、と呪文のように繰り返し心の中で唱える。
「貴方の身請け代に、彼の首を持ってくるのもいいかもしれませんね」
クスリ、と微笑むハクバは顔が良いだけに迫力があり、目は本気である事を十分に語っ
ていた。
(・・・・・カイトの事を・・・既に知られていたのか・・・?)
剣呑に光る眼光には強烈な嫉妬の色が込められていた。そして、先程言っていた「若い
男」・・・カイトの存在。はぐらかしてはみたものの、この伯爵がそれを信じているとは思
えなかった。
「・・・僕はネクロフィリアではありませんよ」
そんなもの貰っても迷惑だ、と言外に込めると、ハクバが笑みを深くして更にシンイチ
に近づいた。
すぐ傍まで接近されると、その長身故かかなり迫力があった。
「解っていますよ。・・・まあ、貴方が私の元へ来ると言うのなら、私の気も変るかもしれ
ませんがね・・・?」
ハクバはカイトが怪盗キッドである事の証拠を掴んでいないかもしれない。しかし、こ
んな事を言ってくるからにはそれに確信を持っていると知れた。・・・物的証拠が無くとも
「伯爵」という身分が殺人の罪から救ってくれる。
貴族達は、闇に紛れてその権力を翳せばどんな悪行でも手腕次第で闇に葬ってしまえ
るのだ。
この裏の情報が行き交う界隈で沢山の客を取っていれば、自然と解ってくる裏社会の
法則を、シンイチは嫌というほど知っていた。・・・シンイチに救われたシホも、そう言っ
た上層階級の人間に捨てられた一人だった。
極端に言うならば、目の前の男は何の感慨もなく「カイト」か「怪盗キッド」を殺し
てしまえるのだ。
思わず、恐怖に体が震えた。
それを見て、ハクバは満足そうに頷きながらシンイチを抱き締め、耳元で甘く囁いた。
「お願いなんかではないんです」
シンイチは知らなかった。
アカコがカイトの存在をハクバに教えていたという事を。
全ての歯車が、それによって回り出した事を。
「――これは、命令なんですよ」
はい、谷編がとうとう始まりました!
こっからもう毬の如く彼等は弾みながら転がっていきます。
最後は一応ハッピーエンドを予定してますが、ハクバ君はどこまでも哀れに不気味で壊れてます。
格好良いカイト君が書きたい・・・(涙)
タイトルがババンと大きいと、なんだかブっちゃいくなので、小さくしてみました。
これからはスリムブランで宜しくネ!
back
n-c
top