2003.09.19up

夜明けには2 (3)

上郷  伊織

◇ ◇ ◇

 目を覚ますと、泣き出しそうな母さんの顔があった。
 心配そうな姉ちゃんと父さんの顔もあった。
 消毒薬の匂いがする真っ白な部屋は生活臭がしなくて、病院に運ばれたんだと、当然のように感じた。

 起き上がろうとすると、腕に刺さった点滴の針が痛かった。
 蹴られた腹や腰も鈍い痛みを訴えていた。

 母さんはじっと俺の顔を覗いていたかと思うと、いきなり俺を抱きしめて「どうして言わなかったの………」と嗚咽交じりに何度も呟いて、俺を離してくれなかった。
 父さんは背中を向けて「馬鹿息子」と呟いて。
 姉ちゃんまで「馬鹿なんだから」と泣きそうなくせに笑おうとして失敗した。

   だって、言えないよ。
 折角、俺が帰って来たって少しでも喜んでくれている皆に、苛められてるなんて。
 苛められるから学校に行けないなんて言えないよ。
 俺はこれでも男なんだから。

 それに、こんな酷い事になるなんて、予想してなかったし………。
 母さんの泣き声がずーっと耳に残ってた。
 また、泣かせちゃったよ、椿さん。
 俺ってダメだよね。
 二度と母さんを泣かせないって思ってたのに。

 うちの母さんは笑うと誰より美人なんだよ。
 なのに、俺のためにブスになっちゃうんだ。
 泣き顔ってさ、女優さんみたいにはいかなくて、皆変な顔になると思わない?
 母さん、綺麗なのにさ。

 ごめんね母さん。
 俺がいつも泣かせちゃうんだよね。
 自分の事みたいに、俺のことで泣いたり笑ったり怒ったりしてくれる大好きな人なのにさ。

 ごめんね。

 俺が上手に生きられなくて………。




◇ ◇ ◇

 嗅ぎ慣れない匂いに目を醒ます。
 鼻から口の奥に広がる奇妙な匂いが何なのか、腕を動かそうとした痛みに顔を顰めた。
 白い天井に張り巡らされたカーテンレール。
 銀色のポールにぶら下った袋入りの透明な液体。
 点滴の味が口の中に広がっていた。
 何時からここにいるんだろう。
 起き上がろうとした背中が軋んだ。
 右足は重くて持ち上がらない。
 自由に動くはずの左腕は包帯がグルグルと巻かれ、関節が曲がり辛かった。

  (ああ、そうか)

 入院して何日も経つのに、目覚める度に病室に慣れない自分がいた。
 寄ってたかって踏みつけにされた身体が無傷なわけが無い。
 あの時、誰かが叫んでた。
 俺の記憶は曖昧で助けてくれたのが誰なのか知らなかったが、後から母さんに聞かされた話によると、宿直の先生が家に連絡してくれたらしく、意識を失った俺は救急車で病院に運ばれたんだそうだ。
 最初に目が覚めた時、助かった事だけしか頭に無かった。
 家族の顔を見て、申し訳ないやら、ホッとするやらで俺の涙は止まらなかった。
 俺の知らない間に色んな人が来て、母さんや父さんと話し合ったらしい。
 代わる代わる訪れる学校関係の人達に色んな話を聞いた。
 でも、それを要約すると、つまりは警察には知らせずに内々で済ませたいという意向が伺える内容だったような気がする。相手を覚えているなら双方の話し合いで示談に持ち込んで欲しいとか、確か校長先生が言ってた。
 暗闇でいきなりだったから相手の顔が判らなかったと……、俺は嘘を吐いた。
 先生達は俺の容態よりも学校の評判の方が気になるみたいだった。

 左足の骨折、全治2ヶ月。肋骨のヒビ、全治3週間。全身打撲、全治3週間。トータルで入院期間は1ヶ月。
 それを聞いただけで、俺の落胆は大きかった。
 頑張ろうという俺の意思に関係なく事態は悪い方向に流れていく。一つ悪い方向に転がり出すとキリなく転がり続けるような気がした。
俺の運命なんて、誰かに弄ばれて終わるんだろうか?
後ろ向きな考えばかりが頭を巡る。

 留年が決定した。

 また、一年あの学校に通わなきゃならないかもしれない。
 父さんは通うべきだと言った。
 母さんと姉ちゃんは別の学校へ、定時制でもいいから行かせたいと言った。
 俺のせいで家族がもめていた。

(夜明けっていつ来るんだろう…………)

 また、家族が俺のためにバラバラになってしまう。
 姉ちゃんは俺のせいで子供が苛められて引越しまでしたのに、俺の事を心配してくれる。
 母さんも、過保護かもしれないと思うほど、俺の気持ちを聞こうとする。
 父さんは……、父さんは俺が負け犬にならないように、挫折感に負けないようにと、父さんなりに俺を激励しようとしているような気配をみせる。不器用な人だけど、俺が一つ挫折して、投げやりにならないように考えてくれている事だけは俺にも痛いほど伝わってくる。
 出来れば、もう、同じ学校には通いたくない。
 下級生の中にも俺に後ろ指をさす輩は沢山いたから、同じような事にならないという保証が無い。
 学校側も不祥事の元を迷惑がっているみたいだし……。

 男同士があられもない姿で抱き合っているのを見つかったのだから当たり前か…。

 元々はソコから始まった噂だったんだし……。

 俺はいつまでも本当の気持ちを誰にも言えずに抱えていた。


「本当は憶えているんじゃないの? 声とか……」
 昼食の後、リンゴの皮を剥きながら母さんが問い掛けてくる。
「……わからないんだ」
 視線を逸らせて、窓を眺める振りをする。
 入院してから母さんは毎日俺の面倒を見にきてくれて、俺に色々と語りかけてくれる。笑顔は見られないけど、それでも俺はその時間を優しく感じていた。
 ただ、あの一件について問い掛けられると応え様がなくて後ろめたい気分を味わっていた。
 だってさ、三原達の事を言ったら、他にも言わなきゃいけない事が出てきてしまう。
 何故あんな所にいたのかを聞かれても、俺は忘れ物をしたからとしか言い訳が出来なかった。
 あいつ等を庇ってやるいわれはないけど、でも……。
 アイツ………、一輝は俺に関わりたくないのに、俺が一人の名前を出せば芋蔓式に一輝の名前も出てきちゃうじゃないか。
 嫌だった。
 一輝の名前を出す事が、一輝を好きだった自分への裏切りのような気がして。
 一輝だって平和に学生生活を送りたいだけなんだってわかってる。
 別に俺に恨みがあって呼び出しメールを送ったんじゃないってわかってる。
 無事に卒業したいんだよね、一輝。
 一流大学に行って、一流企業に就職して、前途洋々と生きていきたいんだもんね。
 それなら俺は妨害しないよ。
 あれほど好きだったお前の事を今はもう好きなのかどうかさえわからない。
 でも、どうせ、もう俺は留年だから。
 学校も不祥事を闇に葬りたいだけみたいだし。
 俺一人が学校から消えればいいんだろ。
 消えてくれって言ってたもんね。
 そんな事わかってる。
 俺が通学してくるのが怖かったんだよね。色々知ってるからさ。
 俺と付き合っていたことも、消したかったんだもんね、一輝は。
 やっと、俺は消えるよ。
 お前の目の前から。
 もし、今の学校のままでも、お前が卒業してから俺は通うんだもんね。
   俺はもう疲れたよ。
 どうでもいい。

 もう1年、煩わしい時を過ごせば良いだけだ。

(また、1年増えちゃったよ……椿さん)

 やってける自信はないけど、やるしかないのかもね………。

 枕元を探っても目当ての物が見つからなくて……サイドボードに目をやる。
「ん? 何か探してるの?」
 母さんが穏やかに問い掛けた。
「・・・・携帯」
 あれっきりになっていた携帯電話。
 母さんはサイドボード下の扉を開けて奥から取り出した携帯を俺に手渡した。
 受け取った携帯にはメールが10件以上入っている。
 どれも椿さんからだった。
 俺が返事を送らなかったから、凄く心配しているみたい。
 内容は俺の動向を気遣うモノばかり。『どうしたの?』とか『何かあった?』とか、どれも最後には返事を求めてて、留守電も沢山入ってた。高い声のトーンから、だんだん件数を追う毎に声が低くなっていって……、ダメだよ椿さん。
 見た目は綺麗なお姉さんなんだから、そんなおっさんみたいな声出しちゃ……。
 嬉しくて、仕方なくて、俺は泣きながら笑ってた。
 毎日、綺麗にお化粧して、「美しいって罪よね」なんて言ってる人がさ、ドスの効いた声なんか残しちゃダメなのに……。
 8つ切りにしたリンゴを皿に盛って、フォークを刺しながら、母さんは不思議そうに俺の顔を覗き込んでいた。
 一つ一つメッセージを聞いていると、ノックの音が聞こえて来た。
 それに応じて母さんがドアに向かう。
 俺はそのまま携帯の留守電を聞いていた。
 スライド式の重厚なドアが開かれ、母さんが俺を振り返る。
「鬼塚さんって方がみえたわよ」
 聞きなれない苗字を頭の中で反芻させながら、俺は顔を上げた。

《……ああ、もう。電話なんかじゃ埒があかない。そっちへ行くからね》

 留守電の最後のメッセージが耳に残っていた。

(まさかね? まさかだよね……)

 リアルファーの付いた黒い皮のロングコートを小脇に、果物籠を抱え、長身のスーツ姿の男が立っていた。

(……椿さん)

(つばきさん、つばきさん、つばきさん)


 俺の椿さんがそこにはいた。
 戸惑いよりも嬉しさの方が先行して、俺の頭は椿さんでいっぱい。
 ほっそりと綺麗に整えられた眉、真っ直ぐ通った鼻梁、肉厚のある引き締まった唇、ガッシリとした男らしい体躯。間違いなく俺の瞳に映っているのはスッピンの椿さんだった。
 視界からは椿さん以外の全てが消える。

(会いたかった。ずっとずっと会いたかった)

 驚きに目を見開いた椿さんは唇を震わせていた。

(椿さん、声が聞きたいよ)

「……つば・・さん」
 声を出して椿さんを呼ぼうと思うのに、嗚咽に詰まった掠れ声は上手く言葉を紡げなくて、ただただ椿さんを見詰めていると視界がぼやけた。
 瞬きをすると、涙がボロボロ零れていく。
 夢なら醒めないで欲しいと思いながら、俺は椿さんに駆け寄りたくて、でも、足が自由に動かなかった。両腕を差し出すと、視界に包帯が入ってきた。

(どうしよう……)

 今度、椿さんに会う時は元気な姿で会いたかったのに。
 俺は今、椿さんにはどんな風に映っているんだろう?
 不安な気分になった途端、視界に母さんが戻ってくる。
 母さんは困惑も露に俺と椿さんを比較してた。
 そうだよね。年がまるで違うし、知り合いって言っても不思議な取り合わせだよね。
 どう対応していいのか迷っている風な母さんは救いを求めるように俺に目配せをしていた。
 俺は気持ちを落ち着けるように唾を飲み込んだ。
「……東京でさ、……俺を二度も助けてくれた人。コレ……、やっちゃった時も、病院に連れて行ってくれて、俺を何週間も泊めてくれた人なんだ」
 左腕を指差しながら、母さんに訴えた。
 お願いだから、変な風に思わないで。
 椿さんが良い人だって判って欲しかった。
 今まで何にも説明してなくて、虫のいい話だと思うけど、言い出せなかったんだ。

 母さんはやっぱりビックリしたようだった。
「……俺の自殺を二度も止めてくれた。だから…、だから、今、生きて……」
 喉の奥がせり上がって来て、それ以上は言えなかった。
 両手で口を塞いで母さんは俺を凝視した。
 ポロリと涙を零して、泣き出して、でも、椿さんの手前泣き続けることも出来なくて、ハンカチで無理やり涙を押さえた。
「……ごめんなさい。どうぞ、奥へ」
 椿さんを部屋の奥へ案内して、付き添い用のパイプ椅子を勧めた。
「……何のお構いも出来ませんけど……、お茶でも入れてきますね」
 気持ちを落ち着けるように、母さんは部屋の外へと出て行った。

 やっぱり、ショックだよね。


 ごめんね母さん。

 でも、他に説明のしようがないんだ。
 病室にはポットも湯のみもあって、給湯室に行く必要なんかないのに……。
 母さんの動揺が伝わってきて切なくなった。


「………嘘つきショーリ」  移動式のテーブルに果物籠を置きながら、椿さんはボソッと呟いた。
 心当たりが多すぎて俺は俯いた。
 ここ数ヶ月俺は嘘ばかり吐いてきた。
「やっぱり、…あんたを帰すんじゃなかった。帰したばっかりにこんな派手な格好になっちゃって……」
 しみじみと俺の顔を覗き込み、青痣が浮かび上がった頬に触れながら椿さんは悲し気に微笑んだ。
 俺は……やっぱり何も言えなくて……。
 合わせる顔が無いって言うのはこういう場合に使うべきなんだろうか、とにかくいたたまれない。
 嘘を吐きたくて吐いていた訳じゃない。
 でも、また椿さんに心配をかけちゃったんだよね、俺。
「……ごめんね椿さん」
 俯きながら謝る事しか俺には出来なかった。
 視線を上げると間近に椿さんの顔がある。
 真摯なその瞳には嘘を許さない雰囲気があった。
 もう、ばれちゃったんだな、と漠然と感じた。

 それから、リンチにあった事や退院する頃には留年が確実である事、家族の事、洗いざらいを椿さんに告げた。
 椿さんは黙って俺の話に耳を傾けていた。
俺が話し終わって、また黙り込むと、落ち着いた様子で椿さんは口を開いた。
「こんなになるまで我慢したの? どうせ、あんたの事だからそうなんだろうね………。人を傷付けない為に黙ってるのも嘘吐くのもいいと私は思うよ。………でもさ、自分の気持ちに嘘吐いちゃダメだよショーリ」
 良く通る包み込むような低い声が俺の心に響く。
 椿さんが側にいて嬉しいのに……、苦しい。
「だってさ、ホントの気持ちなんて言っても……、俺のホントの気持ちなんて誰も歓迎しないよ。みんな、賛成してくれないよ……」
 あんなに聞きたかった声は俺を追い詰める。
「言った者勝ちって言葉も世間にはあるんだよ。言いたい事を飲み込んでばかりいたって、あんたの心が萎縮しちゃうだけ。それなら、言うだけ言ってみてダメならダメでいいんじゃない? 気持ちだけはスッキリするかもよ」
 それは自己満足で、周囲を余計に傷付けてしまう手段のように思えた。
「だって……」
 俺の本当の望みは椿さんのいる東京に住む事なんだよ。
 学校も行けるなら行きたい。
 でもさ、家族に散々心配を掛けておいて、どの面下げて言えばいいんだよ。
「自分の子供がいつも我慢ばかりして苦しんでいる姿を見たい親なんていないよ」
 グレーのツルツルした床を見詰めて椿さんは言った。
 そうかな……、俺、言ってもいいのかな……。

 許して貰えるのかな……。

「あんたが考えている事を家族だって知りたいんじゃない? ショーリはさ、家族の誰かが何にも言わずに苦しんでる姿を見たい?」
 俺は思いっ切り首を振った。
「あはっ。じゃ、皆同じだよ。きっとね、ショーリが話してくれるのを待ってるんだよ」
 馬鹿だね、俺。
 皆の事、考えてるつもりで……、また、自分の事ばかり考えてたみたい……。
 母さん、いつも何か言いたそうにしてた。
 父さんは俺の顔見るたびに困ったように黙り込んでた。
 姉ちゃんも嫁ぎ先から帰る度に俺の顔を見て溜息吐いてた。
 でも、あれは俺が話すのを待っててくれたんだね。
「……うん。…………うん」
 俺は馬鹿みたいに何度も何度も頷いてた。
 そしたら、椿さんの大きな手が慈しむように俺の頭を撫でてくれた。
「ホント、馬鹿なんだから……」
 視界が椿さんのセーターに覆われて、軽く抱き締められた。
 俺の事を馬鹿だ馬鹿だと何度も呟く椿さんの顔が見えない。
 でも、馬鹿だと言われるのが、この上もなく嬉しい。

(あったかいよ、椿さん)
 

 随分長い事、椿さんは俺を抱き締めてくれていた。
 暫くすると、缶コーヒーとお菓子をトレーに載せて母さんが戻ってきた。
 それらをテーブルに置くと、母さんは椿さんの手を取り丁重にお礼を言った。本来なら、俺が腕の怪我をした時だって自分が面倒を見るべきだったとか言って、椿さんを拝むように何度も何度も頭を下げていた。自分達家族が俺を受け止めきれていなかった事を椿さんに詫びてもいた。
 椿さんは困り果てて、母さんとの話が終わった途端、逃げるように帰ってしまった。

 それから、毎週日曜日が俺の最大の楽しみになった。
 旅費だって掛かるのに、椿さんは週に一度は必ず顔を見せてくれる。
 日曜日を待ち遠しく思いながら過ごす入院生活はそんなに悪いものではない。
 訪れる度に減っていく体の包帯を椿さんは喜んでくれる。
 一度、ベッドの下に置いてあった尿瓶を見て、「こんないいモノがあるなら教えてくれれば採ってあげたのに…」などと冗談を言って俺を困らせた。その場にいた母さんが心から笑っているのを俺は幸せを噛み締めながら眺めていた。
 椿さんが明るい空気を運んでくれる。
 退院後どうなるのかわからない。
 でも、俺は、この穏やかな時が続いてくれる事を祈っていた。



つづく

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