夜明けには2 (2)
上郷 伊織
◇ ◇ ◇
《ショーリ 元気にしてる?》
『元気だよ』
嘘を吐く。
《学校は?》
『皆、親切だよ。卒業は危ないけどさ』
また、こうして嘘を吐く。
《そう。またメルする》
『うん。またね』
夕方になると出勤前の椿さんが時々携帯電話にメールを入れてくれる。
家族以外で俺なんかを心配してくれる、ただ一人の人。
俺を二度も救ってくれた人。
椿さんとの会話がメールで良かった。
嘘が吐き易いから、いらない心配を掛けなくて済む。
誰かに心配して貰えるのが嬉しい事だと最近になって知ったけど、それが分かると今度は心配させないようにと思ってしまう。
俺の心は不安定だけど、大切な人達だからこそ心配させてはいけない。
俺の為に悲しんだり、重い気分になったりして欲しくない。
出来る事なら大切な人達には笑って過ごして欲しいと思う。
俺だって、きっと時期がくれば笑って過ごせるようになるから、だから笑っていて欲しい。
本当はすごく会いたい。
声が聞きたい。
顔が見たい。
でも、椿さんはきっと、俺の顔を見ただけで俺の気持ちが分かってしまう。
声だけでも察してしまうかもしれない。
学校なんてもういらない。
クラスメイトも教師ももういらない。
ただ、俺は平穏を取り戻したいだけ。
大好きな人の近くにいたいだけ。
そんな気持ちを椿さんは悟ってしまうかもしれない。
オカマなんてやってるけど、聡明で勘の良い人だから。
心の強い人だから。
だからきっと俺の浅はかな嘘なんて、あの人はすぐに見抜いてしまう。
椿さん、俺、椿さんの所へ行きたいよ。
でも、今、頑張らなきゃね。
自分のやった事への責任は果たさなきゃね。
いつか俺も、何かの形で椿さんにお返しをするよ。
その為にはちゃんと大人にならなきゃね。
◇ ◇ ◇
暁の空がゆっくりと黒く染まって行く。
建物の西南に位置する部屋の窓が暗みを帯びてくるのを見つめる事しか出来なかった。
夜が来る。
冷たい床を頬に感じながら、瞳を閉じた。
転がされた体の節々が軋む。
踏まれたり、蹴られたり。
何故、俺はこんな目に遭わなければならないのだろう。
多勢に無勢とは良く言ったもので、縛り付けられているわけでもないのに、5人がかりで武力に訴えられれば、もう、手出しも出来ない。
呼び出された時点での勢いなんて、当の昔に霧散して消えていた。
今はとにかく、このリンチにも似た状況が早く終わってくれる事しか頭にはない。
「おい、何とか言えよ。オカマ野郎!」
脇腹にドッカリと蹴りが入る。
呻き声を上げながら、自然と背中が丸まった。
アイツ、一輝を好きだった事がそんなに悪い事なのか。
気持ちが悪いとこいつ等は言う。
でも、仕方がない。
気付いた時には好きになってた。
好きだったから、だから体を繋げたかった。一輝も同じ事を俺に告げたから、実際そうしていただけだ。誰だって好きな人とする事だろう。
「泣き声くらい上げたって良いんだぜ」
下卑た笑いが沸き起こる。
校舎の一室で床に転がっている物体が今の俺。
腹や腰を交互に複数の人間から蹴られ、呻く事しかできない。
ここに集まっている数人は誰も俺を助けたりしない。
背中を蹴られた拍子に腹ばいになると、誰かが上から踏みつける。
「……うっ、…くっ……」
いつになったら、こんな事は終わるんだろう。
目立つトコに痣が出来ない事だけを願う。
我慢していれば・・・・。
こいつ等が疲れた頃には終わる筈なんだ。
歯を食いしばって、声が漏れないように堪え切れ。
「許して下さいって言えよ。そしたら止めてやる」
俺の体を裏返しに蹴り込み、首謀者は囁く。
そんな気なんて毛頭無いくせに。
謝る理由なんかない。
こいつ等に謝る事なんか俺はしちゃいない。
「お前達に謝る事なんかない・・・・・」
見上げる格好で三原を睨み付けると、襟首を掴み上げられ頬に鈍痛が走った。
霞んでいく視界の先に転がされた俺の携帯電話が映っていた。
馬鹿だよな、俺。
放課後、学校帰りの図書館で携帯のバイブに気が付いて、液晶に映し出されたメッセージを見ると、それは期待していた人からではなく、絶対にある筈のない差出人だった。
俺が好きだった人。
今でも割り切れないでいる人。
にしじま西島かずき一揮。
俺の前から去った人。
俺はそいつの為なら何もかも捨てたって構わない程、そいつが好きだった。
《話がしたい。第一会議室で待ってる》
本気だったのは俺だけだったのに、こんなメールを貰うと会いたくなった。
心は警笛を鳴らしていた。
ただ、話をするだけだし、キチンと別れたわけじゃない。
そう思ったら、足は勝手に西校舎に向いていた。
西校舎は特別教室のみに使用される所で、夕方ともなれば、4階の音楽室くらいしか使用者はいない。
それも6時前には全ての生徒が帰宅する。
どうして、学校の会議室なんかを指定してきたのかは不思議だった。
だけど、人目に付かないようにとの配慮なら理解できるような気がして、後先考えずに俺は再び校門を潜った。
きっと、俺に会う事、話す事を誰にも知られたくないんだろう。
イジメに巻き込まれるのを避けての行動だと、瞬時に悟った。
それが嫌で俺から離れた人だから。
寂しさを感じながらも、第一会議室の戸を開けると、そこに一輝の姿は無かった。
(一輝、またなのか)
(また、俺を裏切るんだね)
着信履歴は一輝なのに関係のない連中が待ち構えていた。
(俺を呼び出す協力をしたんだね一輝)
ボロボロの体は悲鳴をあげていた。
夜が来ても、奴らは俺を開放しなかった。
部屋の奥まった所には会議用の長机やパイプ椅子が綺麗に立てかけられ、使われる機会を大人しく待っている。
ボコボコにされた体が投げ出され、立てかけられたパイプ椅子にぶつかった。金属がぶつかり合う派手な音が辺りに響く。
息を吸い込むだけで、左側の肋骨から脊髄へ差し込むような痛みが走る。
背中に痺れるような鋭い痛みが走り、呼吸も侭ならなくなっていく。
俺の身体はもう自力では立っていられない状態なのに、服で隠れて見えない腹を三原は執拗に殴った。
「俺を馬鹿にしてたんだろう?」
まともに呼吸も出来ない俺に三原は呟いた。
一瞬、俺は耳を疑った。
まるで憶えの無い言いがかりに思えた。
見上げた先には、強張った笑顔が見えた。
三原の歪んだ笑み。
でも、瞳は今にも泣きそうに揺れている。
痛いのは俺なのに何故お前がそんな顔をする?
単なるイジメではないかもしれない、という考えが脳裏を掠めた。
憎悪の篭ったこの視線も、執拗な嫌がらせも、勘違いである可能性があったとしても、根拠のあるものだったのか?
だとすれば、自分を苛む尋常でない痛みも……。
根深い恨みをぶつけられているのだとすれば………。
これはリンチだ。
「崇史、やばいよコイツ……。目がいっちゃってるよ」
肩で息をしながら、睨み付けると誰かが三原を止めようとした。
「コイツはいつだって、俺の事、見下すような目で見てやがった。自分はさぞかしお綺麗な事をしてやがるんだろうと思ってたら、汚いオカマ野郎だったんだぜ。そんな奴、居なくなったってかまわねぇんだよ! あのまま消えてくれりゃ良かったんだ」
「もういいよ崇史。コイツこれ以上痛めつけたら死んじゃうよ!」
三原が俺にこだわる理由が解らなかった。
仲間の静止にも耳を傾ける素振りもなく、三原は尚一層酷く俺を踏みつけた。
「なあ、許して下さいって俺に言えよ。そしたらこのまま逃してやる」
三原は繰り返す。
「・・・・誰が」
俺はそっぽを向いて吐き捨てた。
顎を何かが伝い、床に黒いシミがポツリと増える。
理由がない。
俺が何をしていようと、こいつ等には迷惑をかけなかったはずだ。コイツは関係ない。
脇の辺りの痛みが酷い。
強情を張らない方がいいのかもしれない。
でも、ココで理由もなく許しを乞うなんて事をしたら、俺は俺で無くなるような気がした。
プライドなんて捨ててるつもりでも、こんな所に残っていたんだな。
(帰らなきゃ)
(きっと母さんが心配してる)
(立ち上がって、コイツラを振り切って帰らなきゃ)
一番間近にあるパイプ椅子を頼りに立ち上がろうとした時、初めて左足の痛みに気がついた。
力が入れられない。
仕方が無いので右足に重心を置いて、腕の力を込める。
肋骨にも痛みが走った。
「………ツっ」
俺、どうなっちゃったのかな?
体がいう事を聞いてくれないよ……。
でも、自分の足で帰るんだ。
母さんや父さんに「ただいま」って言わなきゃ。
今日も息子が大人しく帰ったって安心させなきゃ。
こんなんじゃ死なないよね?
こんなつまんない事で死ねない。
生きていたい。
こんな事で負けたくない。
強さを下さい。
俺の心に強さを下さい。
椿さん、貴方の強さのホンの一欠片で構わない。
俺を強くして下さい。
今は空っぽで、何が大切なのか、何をしたいのか、何が幸せなのかも分からない俺だけど……。
空っぽの心を強くして下さい。
痛みに耐えながらやっとの事で立ち上がると、奴らは化け物でも見るような眼で俺を見てた。
怯えたような目をした三原が間近のパイプ椅子を振り上げる。
「わぁぁぁ―――――――――」
咆哮を上げながら、向かって来る姿が恐ろしかった。
狂ってる。
殺す気なのか?
そんなに俺が憎いのか………。
避けようとした身体はバランスを失い、長机にぶつかり、転がった。
次の瞬間、物凄い音がして、パイプ椅子や机が俺を目掛けて倒れてきた。
「ショーリ、ショーリィィ………」
下敷きになって身動きが取れなくなった。どこと言えないくらい身体のアチコチが痛む。
俺、帰らなきゃいけないのに……。
自力じゃもう動けない。
「……勝利」
泣き声が聞こえた。
三原……。俺に消えて欲しかったんだろ? 何故泣くんだ。
それに、お前にショウリって呼ばれたくないよ。
今、俺をそう呼んでいいのは椿さんだけなんだ。
「………やばいよ。逃げようぜ」
震えた声がする。
佐藤だろうか?
「崇史! ココにいたらバレるってば!」
「おい。早くしろよ!」
朦朧とする意識の中で、遠くから怒鳴り声が聞こえて、人の気配が無くなった。
焦点の合わない目の前に携帯が見える。
手を伸ばせば届きそうなのに、右手を動かすと、ガタガタと俺を封じる椅子や机が揺れる。
身動きが取れない。
あれに届けば助かるかもしれない。
このまま誰にも見つけて貰えなければ俺は死ぬのかな?
そんなのダメだよ。
俺はやるべき事があるんだから。
帰らなきゃ。
もう、いつもの時間はとっくに過ぎてるけど、帰らなきゃ。
こんな所でこんな風に見つかったら、母さん達が悲しむじゃないか。
母さん達は何も知らないのに。
でも、もうダメかも………。
だって身体が言う事を聞かないんだ。
後、10pで携帯に届くのに、たったそれだけの距離も動けない。
椿さんなら諦めないのかな?
諦めちゃいけないのかな?
背中が痛いよ。足も動かない。右手を伸ばすと、脇も痛いんだ。
ココでは俺の味方なんていない。
今、俺を助けてくれる者なんていない。
自分でなんとかするしかないんだよね。
もう、疲れたよ。
もう一度、椿さんに会いたい。
すぐに何でも諦めようとするのが俺の悪い癖なんだけど……。
でも、椿さんに会いたいよ。
思い切って、右手に勢いをつけて前に突き出した。
金属の軋む音がしたかと思うと、次には耳を塞ぎたくなるような轟音がして、俺は意識を失った。
一輝に謝れと言われたら謝ったかもしれない。俺と付き合ったりしなければ、一輝のあんな卑屈な心を引きずり出さずに済んだかもしれないから………。
つづく