2003.09.05up

夜明けには2 (1)

上郷  伊織

◇ ◇ ◇

 「いってらっしゃい」
 朝の身支度を済ませて、柔らかな日が差し込む明るいリビングに顔を覗かせると、笑顔の母さんが弁当の包みを渡してくれる。
「……行ってきます」
 それにぎこちない笑顔で応え、玄関を出る。
 そんな些細な日常を守る為に俺は毎日学校に通う。
 半年前には至極当然だった毎日の小さなやり取りが、今は涙が出そうな程の喜びを伴って訪れる。

 もう母さんの笑顔が見られないと思ってた。
 もう振り返ってくれないと思ってた。
 母さんの笑顔は以前よりほんの少し翳りが加わった。
 でも、それは俺に気を遣っての事で、出来るだけ以前と変わらないように無理をしてくれているのを俺は肌で感じていた。
 ふと、気付くと、母さんの視線は俺の左腕にある。
 再生したばかりのピンク色した線。
 線の周りには4つの小さな穴の痕。
 傷痕に気付いていながら、母さんの唇は何か言いた気に開きかけては、また閉じて、瞳は今にも泣きそうに涙で潤む。
 でも、俺は東京での出来事を話す気にはなれなくて、視線を逸らす。
 泣かせたくなかった。

 だから俺は、もう、遅いかもしれないけど、極力良い息子でいられるように振舞っている。毎日、同じ時間に家を出て、同じ時間に帰宅する。勉強量も以前より増やし、学校帰りに立ち寄るのは本屋くらいだ。図書館に寄って遅くなりそうな時も、自宅に電話するようにして、精一杯良い子にしてる。
 痛いほど感じる興味本位のクラスメイトや近所の人達の冷たい視線も、出来るだけ見ないようにして足早に歩いたりして、何事もなかったかのように生きている。
 時間が経てば以前の明るい母さんに戻ってくれるかもしれない。
 俺だって、ちゃんと心から笑える日が来るかもしれない。

 卒業が危なかった。
 1月以上も登校せず、行方を眩ましていたんだから当然出席日数が足りなかった。
 それをからかう輩がいても、俺の心は動じない。
 ただ、時折感じるアイツの視線が痛かった。
 今更、同情するような、俺を見つめる瞳が痛かった。
 あと4ヶ月、頑張って通うんだ。
 無事に卒業生の列に加わる事が、今の俺に出来るささやかな家族への償いのような気がする。
 そして、ちゃんとやり直して、大学に行って、社会人になったら、そしたら母さんは心からの笑顔を 向けてくれるだろうか?

 きっと、笑ってくれるよね。
 喜んでくれるよね。
 時間が解決してくれるんだよね、椿さん。

 いつも俺の心には、優しい切れ長の瞳が微笑んでいた。


◇ ◇ ◇

  俺達は淀んだ水槽の中にギチギチに放り込まれた魚のようだ。
 居心地の悪さに誰かが誰かに常にあたってる。

 学校と言う集落は奇妙な空気が流れている。
 集団行動だとかに皆が惑わされ、思想すらも自由にしていてはダメなんじゃないか、と思わせる瞬間が年に何度も訪れる。
 教室の窓から広がる青空を眺め、俺はボンヤリとそんな事を考えていた。
 今の俺にとって、この建物、この集団そのものが苦痛の種でしかない。
 もっとも、俺が出戻りの家出少年だったりするから居辛いだけなんだけど。
 
 俺は一月以上も家出してた。
 夏の終わりから、俺はイジメに遭っていた。それは今も変わりなく続いてる。陰湿な時もあれば、火がついたように突然、直接的になったり。学校の奴らはイジメのせいで俺が家出したんだと思ってる。
 
 久しぶりに登校してみると、制服は夏から冬へと変わり、3年生である同級生達は、就職や推薦入試で既に進路の決まっている者もいたりして、環境は大幅に変わっていた。
 それでも俺に向けられる視線は冷たいままだった。
 何がそんなにも彼らをつまらない子供じみた事に駆り立てるのかは俺にはわからない。

(椿さんは元気にしてるんだろうな……)

 俺の頭は現実逃避に走り出す。
 ほんの少しの幸せを手繰り寄せようと必死に動き出す。
 家出して訪れた先は東京だった。
 そこは無干渉で、個人主義で、今の俺には居易い場所だった。
 一人ぼっちの俺にぬくもりをくれた人もいた。

 自宅に帰る事を決めての別れ際、心配そうにあの人は呟いた。
「本当に大丈夫なの?」
 切れ長の温かな瞳が心配そうに揺れていた。
 俺は殊更カラ元気を作り出して「大丈夫だって」と応え、列車からホームに立つ椿さんに手を振った。

(大丈夫、俺は大丈夫だよ椿さん)

(こうして死んだように時間を潰せば済むんだから…)

 時折、廊下ですれ違い様、突き飛ばされたり、階段で足を引っ掛けられたりするけど、ただそれだけさ。
 いつでも好奇の瞳が俺を見てる。
 視界の端にアイツの顔が映る事もある。そんな時、俺はやっぱりちょっと期待しちゃうけど、でも、大丈夫。
 椿さんが、少しの強さを分けてくれたから。
 卒業する3月まで、俺は我慢してられる。
 今はまだ10月だけど、我慢できる。



 椿さん、言ったよね。
「良い事あるまで死んでやるもんか」って、俺も一生懸命唱えてるよ。
 いつか、こんな事は俺の目の前から消えるんだ。
 これは一過性の事なんだ。
 俺の人生のたったの1年なんだって思ってる。
 そうだよね、椿さん。
 頭の中では、いつも椿さんに話し掛けていた。


 体育館から校舎に伸びる渡り廊下を歩くと、微かに甘い香りが漂ってくる。
 校舎脇に植えられた金木犀が今年も咲いている。
 橙色の花が疎らに咲き始め、その小さな花びらのひとつひとつが太陽の欠片のように輝いて見えた。 吸い寄せられるように俺は木の側へと近付いていく。

「いつまでも未練たらしく来るんじゃねーよ!」

 憎悪を含んだ中傷に、俺の歩みは止まった。

 復学初日、俺の机は教室の隅っこに追いやられ、花が供えられていた。
 まるで俺の存在そのものを葬るかのように飾られた花を教壇へ移動させ、改めて見た机の天板には休 学前よりも一層激しい落書きが増えていた。
 一連の嫌がらせの首謀者が目の前に立っている。
 なぜ、そこまで憎まれなければいけないのか、俺には納得がいかない。
 三原崇史(みはらたかし)。
 成績はそこそこで、確か私大への推薦入学が決まったとか騒いでいた奴。
 以前は差し障りのない会話をする程度だったクラスメイト。
「スカした顔してシカトすんなよ」
 粘着質の視線が俺をねめつける。
 俺はこのしつこい男が大嫌いだった。

 いつも誰かを攻撃していないと気がすまない男。
 お山の大将でいたい癖に誰かとつるんでないと、動けない奴。
 露骨に軽蔑の眼差しを向けると三原は怯み、その隙に俺は校舎へと駆け出した。


「何かあったのか?」
 息を切らしながら廊下を走っていると、正面から歩いてきた担任の西崎が問い掛ける。
「成績は上がっているようだが、浮かない顔だな」
 俺が黙っていると、立て続けに質問を繰り出してくる。
 でも、言えない。
 ざわついた校内で、誰の目が光っているかもしれないのに、言い出せない。
 持ち前の能天気さで、協調性とか喚いている健康的な体育教師。
 そんな人に今の俺の気持ちなんか解らないだろうし、この人が熱血漢ぶりを発揮したとしても、生徒間での事は生徒にしか分からない。
 言ってしまおうか? と思う事もある。
 でも、俺が休学した時点でイジメは学校側も知る所となったらしいが、結局この人がやった事は、ホームルームで生徒達を問い詰め、首謀者を割り出し、廊下に正座させて注意を促しただけだったそうだ。俺はその腹いせだと言って復学初日の放課後に何時間にも渡って無理やり正座をさせられた。
 どうして分からないんだろう?
 この人にも学生の頃があった筈なのに……。
「何でもありません」
 何にもないよ。
 こうして、日直で日誌を届けたり、授業で当てられたりする以外は喋る事も無いわけだから。
 俺の毎日には何にも無いよ。
 時々しか喋らないと声が枯れるなんて発見をした以外はさ、何にもないんだ。
 だから、貴方にも用は無いよ。

 俺はチャンスを自ら放棄した。


つづく

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