2003.08.29up

夜明けには 3

上郷  伊織

◇ ◇ ◇

 また、あの声が頭をクルクル回りだす。
 一人になると回りだす。
 そんなに消えて欲しいのか・・・・・。
 俺は耳を塞いでしゃがみこんだ。
 台所の水音に混じって、一輝の声が木霊する。
「うるさい」
 本当に消えてしまいたい。
 何処にいたって俺は一人。誰も心配なんかしてくれない。誰も悲しまない。
 立ち上がって、水道のコックを閉めると、一輝の声だけが耳に残った。
 家を出た翌日、1日中携帯のベルが鳴るのを期待していた。
 一輝からの連絡を待っていた。
 学校を休んだ俺を心配してくれるんじゃないか、と甘い期待がそこにはあったけど、一輝からも、家族からも電話はかかって来なかった。それから携帯の電源は点けていない。
 本気で言われた言葉だったんだ。
 俺なんか消えればいい。
 銀色の刃先は俺を楽園に誘っている。
 悲しい事を全部忘れられる楽園へ俺を導いてくれるんだ。
 勇気を出して一引きするだけ。
 包丁を右手にバスルームへ移動した。
 バスタブに水を張り、左手をその中に漬ける。
 血が乾かず、たくさん出るように、水の中で手首を切るんだ。
 太い血管を親指で確認し、刃先を左手首に添える。
 もう少し上の方が失敗しないかもしれない。
 位置を何度も確かめる。

 椿さん、ごめんね。
 こんな所で死んだら迷惑だけど、これで最後だから。
 椿さんも会ったばかりだし、悲しんだりしないよね。
 昨日のシチューね、残り物だって言ってたけど、美味しかったよ。
 ありがとう、って言うの忘れたね俺。
 恩知らずだよね。
 羽根布団、すごく気持ち良かった。
 ふかふかであったかくて、嬉しかったよ。
 それも、ありがとうって言わなかったね俺。
 自分の事ばっかでさ、言うべき事ちゃんと言ってなかった。
 綺麗な顔に不自然な男らしい体のアンバランスな人だけどさ、俺、椿さんにいっぱい優しくしてもらったよね。口は悪いけどさ、俺なんか泊めてくれてありがとう。
 たぶん、面と向かって言えないからさ、今、念じとくね。
 死に際に念じた事って伝わりそうな気がしない?
 俺、やっぱダメみたい。
 だって、一輝が出て来るんだもん。
 俺に触れていた暖かな指先を俺の皮膚は忘れてない。
 忘れた方が良いって分かってんのに。
 俺ダメなんだ。

 覚悟を決めて、右手に力を込めようとした時だった。
「ショーリ! バカな事するな!」
 バコッって凄い音がして、振り向こうとした瞬間、後ろから抱きすくめられて・・・、ブツって嫌な音がした後、左手に焼け付くような痛みが走った。
 突然、椿さんが駆け込んで来て俺を止めようとしたらしいけど、腕が・・・・・・・。
 包丁はしっかり左手首に食い込んでて・・・・。
 ブツッって言ったのは血管?
 刺さってるよコレ。
「・・・・あ・・・・・・」
 どうするんだよ、コレ・・・・・・・。
 俺は椿さんの顔と包丁を言葉も無く交互に見た。
「ぎゃー! 刺さってるじゃない!」
 いや・・・・、抱きつかなきゃ、引いてた筈なんだけど・・・・・。
「何? コレ・・・。私?」
 そうなんだけど、直接的には椿さんなんだけど・・・・まさか、肯定するわけにもいかなくて視線を泳がせた。
「抜いたら、吹き出るのかな?」
 痛みに脂汗が出てきて、でも、妙に冷静な自分に呆れてしまう。
「抜くな! ちょっと待て」
 汗が吹き出た。
 椿さんが突拍子も無く現れたもんだから、なんか死ぬなんて雰囲気が吹っ飛んじゃって、今はただ痛かった。
 一旦バスルームを出た椿さんは、ガラゴロ物音を立てていたかと思うと、一升瓶と布巾片手に戻ってきた。
「いいか? 抜くぞ」
 言ったが早いか、包丁を俺の腕からすばやく抜き、一升瓶の栓を口で抜く。
 俺は声にならない悲鳴を上げた。
 蹲る俺にはお構いなしに左手が引っ張られ、ドポドポと酒がかけられた。
「・・いーーっ・・・・っ・・・・・・・」
 染み渡る痛みに俺は仰け反った。
 なのに腕はとんでもない力で押さえ込まれ、布巾をグルグル巻きにされ、キツ目に縛られた。
「救急車呼ぶから」
 そう言って、立とうとする椿さんは、さっきからずっとドスの効いた男声で、逆らえない雰囲気があった。
「立てる。立てるから、救急車はいいよ」
 断ると、無線タクシーを呼んでくれた。
「10分で来るって・・・・・」
 俺に手を貸しながら、椿さんは心配そうに俺の腕を見つめる。
「出血が酷いな」
 手首には更にタオルが当てられて、左腕が持ち上げられる。
「このまま上げていた方がいい」
 てきぱきと指示を出す椿さんは頼もしいけど、赤いドレスで綺麗に化粧を施した男が頼もしいというのは、かなり変な気がする。
その時、俺はハタっと現実を悟った。
「椿さん、いいよこのままで。俺、保険証持ってない」
 保険証がないと治療費がものすごくかかるって聞いた事がある。椿さんにこれ以上迷惑をかけるわけにはいかない。
「子供がそんな心配しなくていい」
 椿さんは事も無げに言いのけた。
 綺麗な赤いドレスには黒いシミが広がっていた。
「椿さん、着替えてよ」
「この非常時に何言ってんだ。さっさと降りるぞ」
「着替えてくんなきゃ、病院行かない。俺、変に目立つのヤダ」
「じゃ、自分で支えてろ」
 縋るような気持ちで見つめていると、椿さんは俺に自分で左腕を上げているように命令し、奥の部屋へと消えていった。
 何とか病院に行くまいと口実を作ってみたけど、椿さんは素直に聞いてくれちゃって、俺の前で初めて男の格好をしてくれた。
茶色の長い髪を一つに束ね、トレーナーにジーンズ姿でスッピンの椿さんは、がっしりとした骨格の苦味ばしったいい男だった。いつも化粧をしている方が却って不自然な気がして、俺は暫く見とれてた。男ならばこうありたいと思うような見本が目の前にいた。



「2針ほど縫ったけど、神経は切って無かったってさ。1週間で治るそうよ」
 治療が終わり、受け付けで待っていた俺に椿さんはそう告げた。
心底ほっとしたという感じの椿さんを見て、俺は胸が熱くなる。
また、錯覚するじゃないか・・・・・。
人を信じたくなっちゃうよ・・・・・・。

 病院の外に出ると、辺りはすっかり夕闇に包まれて、街灯が椿さんの端正な顔を照らし出す。
 どうして、椿さんは女装なんかするんだろう。こんなに良い素材に生まれついたのに。
「店に着いてさ、あんたの話をママにしてたら、ママがね危ないんじゃないか、って言ってくれた」
「え・・・?」
「ショーリを一人にしといたら、また、死のうとするんじゃないか、って思った」
 ポツリポツリと話し出した椿さんに俺は申し訳ない気分になる。
 だって、俺、何もないんだ。
「・・・・誰も俺を心配なんかしてくれないと思ってた」
 ごめんね椿さん。
「ココに私がいるのはどうしてだろうね?」
 そうだよね。心配してくれたんだよね。
 ごめんね椿さん。
 落ち着きを取り戻したのか、椿さんはいつもの口調に戻って、クッキリとした切れ長の優しい瞳が俺を見てた。
 目を合わせられなくて、俯くと、頼もしい腕が俺の肩を抱いて引き寄せる。
「ごめんね。椿さん・・・・・・・・」
 俺は誰かに心配して欲しかったのかもしれない。
 生きていていいよ、と言って貰いたかったのかもしれない。
 素直に謝罪の言葉を口にすると、頭を椿さんの肩にコツンと寄せられた。
「良い事あるまで死んでやるもんか、と私は思うんだけどね・・・・・・・。馬鹿だねショーリは」
 静かに呟かれた言葉がじんわり胸に広がった。
 
 誰かに言って欲しかった。
 笑い飛ばして欲しかった。

「家に電話してごらん」
「え・・・・。だって・・・・」
 俺の事情は昨日話した筈なのに・・・・・。
「子供を心配しない親なんていないから」
 強く言われて、未練がましくポケットに忍ばせた携帯を出してみた。
「・・・・・・・・・ぁ・・」
 久しぶりに電源を入れた携帯には、メールが9件も入っていて、慌てて内容を見てみると、それはどれも姉からだった。
《母さんが心配してるから、帰っておいで。私は旦那の会社の近所に引越します。手伝わないと承知しないからね》
 メールが出来ない母さんの代わりに姉ちゃんが・・・・・・・・。
 俺のせいで引越しになったのに、わざと明るく書かれた文面が姉の気持ちを代弁してた。
 許されていいのかな・・・。
 俺、本当にいいのかな。
 涙が止まらないよ。
 
「いつから電源切ってたのよ・・バカ」
 大きな手が俺の頭を撫でてくれた。

「明けない夜は無いって言うじゃない?」

 見上げると、椿さんは微笑んでいて・・・・。
 心はほんのりあったかくて。

 椿さんがいるだけで、世界は少し明るく思えた。

おしまい

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