夜明けには2 (4)
上郷 伊織
◇ ◇ ◇
小さな狭苦しい窓辺から眺めた空には、ゆったりと雲が流れていく。
その光景は平和そのもので………。
世の中は何にも変わっていない事を告げている。
どんな状況の時でも日が暮れて、夜が来て、朝も必ず訪れる。
そんな事は常識で・・・本当に当たり前の事で………。
自分だけが取り残されているような気持ちを一層煽り立てる。
もう、決断の時が近づいている。
一月の入院生活を終えて、久しぶりに戻って来た我が家はどこか余所余所しく、俺の部屋も整然とした片付き具合がまるで他人の部屋のように感じられた。
夜に父さんが帰宅したら、俺の退院祝いが行われる。
その事を考えると鼓動は早まった。
俺は前に進まなければいけない。
今より前に進む準備をしなきゃいけない。
時間は容赦なく過ぎていく。
畳敷きの居間がギプスをはめられた膝の曲がらない足には苦痛に思えた。
片足だけ正座のように折り曲げて、俺は神妙な面持ちで家族の反応を見守っていた。
「何言ってるの!? あんた分かってる? 散々母さんに心配かけて……。どうしてそんな事が言えるのよ」
食事が終わって、父さんが俺のこれからの事を話し出した時だった。
俺が東京に行きたいと言った途端、姉ちゃんは火がついたように雷を落とした。
「……お前は逃げて、負け犬になるって言うのか。そんな事、父さんは許さないぞ。問題から逃げてもお前には何も残らないんだ。問題に立ち向かって、最後までやり遂げて、初めて人間としての自信が出来る。今まで何度も言ってきた事だろう」
父さんは静かに、でも、脅すような口調で語り出す。
やっぱり、賛成して貰えそうもないけど、言いたい事の半分も俺は言えていない。
「……学校は通えなくてもいいから、だから、お金を貸して下さい」
せめて気持ちだけでも伝えたくて、俺は話し続けた。
「馬鹿! 学校も行かないで、将来を捨てるつもりか!」
父さんの怒鳴り声が鼓膜を破る勢いで炸裂した。
いつだってそうだった。
姉ちゃんが父さんに怒鳴られる姿を見て俺は育った。
だから、父さんが望めば、その通りに、出来る限り合わせて生きてきた。
もう限界なんだよ。
もうだめなんだ。父さん。
「…行かせて貰うのがだめなら、…東京までの旅費を……旅費を貸して下さい。そしたら、俺は仕事を探すから……保証人になってくれたら働けるんだ。ロクな仕事なんて無いかもしれない。でも、でもさ……ちゃんと収入が落ち着いたら、そしたら定時制の学校に通うから……」
「馬鹿な事ばかり言うな」
父さんの掌が俺の頬を打った。
俺はもう、この家の自分の部屋でさえも自分の居場所に思えない。
「そんな生活をさせるために育てたんじゃない……」
胸倉を掴まれて、次の衝撃に歯を食いしばって身構えていた。
父さんが怒るのは当たり前だ。
これは、俺の我侭なんだから……。
「やめて! もう、……もう、やめてぇ!」
母さんが俺を庇うように父さんから引き剥がす。
「もういいでしょ父さん。かーくんだって分かってるのよ」
「わかっている奴がこんな事言い出すか!」
母さんが……、いつも父さんの言い分に黙って従っていた母さんが…俺達子供の前で初めて父さんに逆らうような事をした。
「わ…分かってないのはお父さんよ。あなた、この子の左腕に気が付いてた?」
「……左腕………」
父さんはハッとしたように俺の傷痕を見て、眉を寄せた。
「それに、あなたは、この子がいつから笑ってないか憶えてますか? もう長い事、私は見てない。勝利は分かってる。この子はずっと頑張ってたわ。私達が望むような息子になろうと努力してた。争い事の嫌いな子が、あなたが『人に負けるな』って言う度に競争に首を突っ込んでました。この子は自分から一番になろうなんて思う子じゃないの。成績なんかで人に勝ったって、この子ちっとも嬉しそうじゃなかった。それなのにあなたや私を喜ばせる為に頑張ってたのよ」
母さんは堰を切ったように、語り始めた。
いつも大人しくて演説なんてするタイプじゃないし、近所の奥さん相手にだって聞き役に徹しているような人なのに………。
驚いたのは俺だけじゃなく、姉ちゃんも父さんも呆気に取られて母さんを見ていた。
「俺は……俺は、勝利に自分の息子に俺のような人生を送らせたくないだけだ……学歴が無いばかりに20年以上働いても万年係長の…俺のような惨めな思いを、悔しい思いを息子にさせたくはない。ただ、それだけだ」
(分かってる………)
父さんの気持ちは小さい頃から感じてた。自分の出来なかった事を息子の俺に……。俺に楽なレールを引いてくれようとしていた事を……。
俺は、父さんのそんな思いを踏みにじろうとしているのかな……。
「それだって、この子の幸せの為でしょう。でも、今、この子は幸せじゃない。死んだ魚のような目をして、機械的に学校に通うこの子が幸せな筈がない。それに………こんな目に遭って…。家出する前からイジメがあったって言うじゃないですか。じゃあ、この子は何の為に帰って来たの? ねえ、かーくん、どうして? また、苛められるのが分かっていたんでしょ?」
母さん………。
入院している間に俺の病室に訪れた人達。
その会話をいつも聞いていたのは母さんだもんね。
「だって、母さんや姉ちゃんが…帰っておいでって言ってくれたから………嬉しかった。帰る場所があるって有り難いって思って……」
俺は正直に答えようと思った。
「どうして、学校へ行きたくないって言わなかったの?」
「………皆ががっかりする。それに、情けないし……俺は男なのに、そんな事で学校へ行けないなんて言えない」
父さんは苦虫を噛み潰したような顔で俯いた。
姉ちゃんは声も立てずに泣いてた。
こんな風になるから怖かったんだ。
こんな風に…まるでお通夜の席みたいに………。
重苦しい空気が辺りを支配していた。
「……この子が初めて大きな我侭を言ったんです。それに、東京からのお客さんが来ると、この子、笑うんです。無邪気な子供の頃そのままの顔で笑うんです。みんな誉めてくれたでしょ。小さい頃この子が笑うと愛らしいって………。その頃のままの顔をするんですよ。父さんにも見せてあげたかった」
瞳にいっぱい涙を溜めて、母さんは微笑んだ。
無理やりじゃなく、自然に笑った。
「でも、母さん、私は見たくない。この子がいなかった時みたいな母さんは見たくないの……」
懇願するように、姉ちゃんは母さんに語りかける。
俺が家出してた時の母さん………。
俺の知らない母さんを姉ちゃんは見てた。
「生きていてくれるなら、幸せそうに笑ってくれるなら、私はもういい。勝利はちゃんと前向きに考えて結論を出したんだと………、そう、思いたいの。もう、周りばかり気にして無理やり笑うこの子を、勝利を見たくないの。似なくてもいいのに、そんな所、私にそっくりだから……。いつも、言いたい事ちゃんと言わないで、周りが丸く収まる事ばかり考えて、自分は身動きが取れなくなって行くのに………そんな事にも気付けない。この子は……勝利は、若い頃の私にそっくりで………。嫌になるくらいそっくりだから………」
俺の手を力いっぱい握って、母さんはボロボロ涙を零す。
「嫌よ! 抜け殻みたいな母さんなんて見たくない。どうして東京なの? そんな遠くへ行かなくたって学校はあるじゃない。この家から通える学校を探せばいいでしょ」
姉ちゃんは俺を睨み据えた。
「…………楽に呼吸が出来るんだ。俺を知っている人間がいないだけでも楽なんだ」
俺は真っ直ぐ姉ちゃんの顔を見られず、俯いた。
「離れても、この子が元気ならいいのよ。文子だって真には元気に暮らして欲しいでしょ?」
母さんが静かに告げた言葉に姉ちゃんは黙り込んだ。自分の息子を思い浮かべて、黙ってしまった。
「ねぇ、父さん……」
「………勝手にしろ」
父さんは怒ったまま居間を出て行ってしまった。
残された3人は、顔を見合わせた。
「………父さん」
許して貰えたのだろうか……。
「……休みには顔を出すのよ」
母さんが呟いて、寂しそうに俺を見てた。
「やってらんないわ。私が悪者みたいじゃない」
姉ちゃんは、拗ねたように呟くと、台所に消えていった。
いいのかな。
本当にいいのかな。
俺はとてもじゃないけど、信じられなくって何度も何度も母さんに問い掛けて、その度、母さんは「いいのよ」と頷いてくれた。
我が家は亭主関白で、父さんの専制君主制だと俺は信じていたんだけど、実は母さんが一番強くてカカア天下だという事実を……18年経った今、初めて知った。
椿さん、こんな事ってあるんだね。
椿さん、俺はもうすぐ貴方の近くに行くよ。
足のギプスが取れて、リハビリが終わったら、行けるんだよ。
それまでに学校とアパートを探して準備をするんだ。
バイトも探さなきゃ。
内緒で行ったら椿さんは怒るかな。
驚いてくれるだろうか……。
喜んでくれるかな?
ごめんね、椿さん。
また、迷惑かけるかもしれないから、今、謝っておくね。
ねぇ、椿さん。
おしまい