ブレイク・タイム 9
上郷 伊織
◇◇◇◇◇
季節は初冬。
色鮮やかだった木々は枯れ始め、時折、冷たい風がからかうように頬を撫でる。
日に日に寂しくなっていく風景に反して、忍の気持ちは浮き足立っていた。
あのデモの日から一月が過ぎていた。
相変わらず、忍の売上げは上がらなかった。
その間、忍は週に1度の割合で榊設計事務所を訪ねていた。榊の希望を聞いて、毎週金曜日の夕方はスケジュールを空けている。
最初の訪問からは考えられないほど、榊の事務所に行く事が忍は楽しみになっていた。
榊に会う日は、必ず商談後に食事を共にしている。お互い一人暮らしなのだから、一人で寂しい食事を摂る事はない、との榊からの提案だった。
お客様とそこまで親しくなって良いものか、最初の頃は抵抗があった忍も、榊に優しい声で誘われると断りきれなかった。また、仕事の時とは違う榊との会話は、忍にとっては新鮮で楽しいものだった。
榊は話し上手で、建設には関係のない様々な知識を持っていた。ゴルフ、釣り、経済、映画、書籍、インターネットの最新情報等、榊の趣味は多彩である。会う度、榊の話に引き込まれ、一喜一憂している自分が不思議だった。
最近の忍は書店に行くと、榊の話に出てきた事象について調べるのも楽しみになっている。
榊は探求心が強いらしく、興味を持つと、自宅のパソコンでホームページにアクセスしたり、専門書を読んだりするそうだ。営業としては、自分の業務に関わりのある事は勿論のこと、業務に関係の無い雑学も必要である。どれくらい多くの引き出しを自分の中に持っているかが、大きな武器になる。お客様との共通の話題は、多いに越したことはない。話題が合えば初対面で気に入られる事もあるのである。
いつからか、忍は榊を尊敬していた。
商談も、毎回、和気藹々とした雰囲気だ。
ただ、気に掛かるのは、商品説明は殆ど終わっているにも関わらず、いざ、契約書の話に触れると、新たな質問を榊にされてしまい、結局は後日の再商談を設定する羽目になる。まるで、わざと話しをはぐらかされているような気さえしてくるのだ。
営業としての自分の立場を考えるならば、説明が殆ど終わっている場合には、さっさと契約を交わさなければならない。その事に関して忍は焦りを感じていた。
お客は榊だけではないのだ。
先輩方は何軒もの見込み客に対して、日夜、提案営業を行っている。忍も例外ではない。
見込みの薄い客は、より濃い見込みに、新しい見込み客だって発掘して行かねばならない。
だが、その反面、榊との穏やかな時が続く事に、忍は喜びを覚えている。
時間に追いかけられ、状況に追いつめられる毎日の生活の中で、榊との時間はある意味、忍の安らぎになっていた。
その日も忍は、相変わらず外回りをしていた。
午前中に6件の会社に飛び込み営業を行い、遅い昼食を摂った。無駄な時間を減らす為に、移動の途中、バーガーショップでセットものを購入し、市民公園の近くに車を停車させた。忍が担当しているようなベットタウンでは平日の飲食店は付近の主婦達の社交場と化している。知らずに店内で食事をすると、実際に食べている時間は15分でも、日によっては1時間以上かかってしまう事もある。
注文待ちにイライラする事を考えると、車の中で食事をする方がまだましだった。
食事を終えて、営業鞄から数冊のパンフレットを取り出す。パンフレットを見つめる忍の瞳は爛々と輝いていた。
年末商戦も近づいたこの日、本社から新機種の資料が送られてきた。パソコン本体のパワー
アップも喜ばしい事だったが、何より忍の目を引いたのは、プロッターの新機種発売に伴う価格設定だった。
プロッターとは、主に図面出力に使われる装置のことである。種類は平板型とロール紙対応用との二種類。A2から原寸とサイズは機種によっても違う。ミリ単位の正確な図面を出力するためには欠かせない一品である。プロッターの中でも特に重宝されるのがペンプロッターと言うもので、これは予め機械がシャープペンシルか油性ペンを持って図面を描く。ペンの種類も通常7・8種類を設定出来る。
特殊なものであるだけに、需要は限られている。その為、新機種が出ても価格はなかなか下がらない。紹介する側も奨めにくい商品だった。
昼食を終えて、忍は車外に出た。
午後の柔らかな日差しが、肌に心地よい。
一度大きく伸びをして、忍は背広の内ポケットから携帯電話と名刺入れを取り出した。
「もしもし、日本設計総合研究社の笠原と申しますが、榊所長はいらしゃいますか」
榊の事務所に電話をかける時、いつも忍は迷ってしまう。先方の事務員さん達は、すっかり忍の存在にも慣れて、気さくな対応をしてくれる。榊が忍の事を「忍くん」と呼ぶため、事務員さんの中でも「忍くん」とか「忍さん」などとファーストネームで呼ばれる事が多い。
今も電話口で事務員の三宅さんに「忍くん」と呼ばれてしまい、照れくさい気分を味わっていた。
「お電話、代わりました。榊です」
前回に会ってから、ほんの3日しか経っていないのに、榊の低くてソフトな声は妙に懐かしかった。
人を心地よくさせる声質だった。
「・・・・・・」
「忍くんですよね」
包み込むように優しい声音を榊は奏でる。
忍は脳裏に、鮮明に榊の姿を思い浮かべた。
「忍くん?」
再度の呼びかけで、忍は我に返った。
「あの、こんにちは。今日の午後3時頃のご予定をお聞きしたいのですが・・・・」
美声に酔いしれている場合ではない。
肝心の用件を言わねば、電話の意味がない。
姿勢を正して、明るい声で、忍はまず榊の予定を確認するつもりだった。
「3時・・・・ですか、残念ですが、これから出かけなければならないんですよ」
榊は申し訳なさそうに答える。
「そうですか・・・・・」
忍は電話口でがっくりと項垂れた。
今日、事務所で新機種の情報を聞いたとき、真っ先に浮かんだのは榊の喜ぶ顔だった。午前中は予定が詰まって身動きが取れなかった為、もし、予定が合うならば、入手した情報を早く榊に伝えたかったのだ。
「そうですね、7時には戻れますが・・・」
平日の夜に会いたい等と言ったら、榊に迷惑がかかってしまう。どのみち今週末にはまた会えるのだ。
「いえ、また週末で・・・・・・・・・」
「構いません。忍くんさえよければ、今日会いましょう」
最近、よく感じる事だった。
榊はまるで忍の気持ちを読んだように、望み通りの言葉をくれる。
「・・・でも、・・・・・・・・・」
「おっと、もう時間がない。時間と場所を言って下さい。それとも、事務所まで来ますか?」
「はっ、はい。じゃあ、7時頃伺います。ほんとに急なお願いをしてすいません」
榊には珍しく、声にまで焦りが感じられて、忍は榊の申し出を呑んだ。だが、榊を困らせたのではないか、という罪悪感は残っている。
「謝らなくていいです。折角の忍くんからのお誘いを不意にするなんて事、私がするわけがないでしょう」
優しい言葉ばかりをかけてくれる榊に、自分は甘えている。自分がどんどんわがままになっていくようで、忍は戸惑っていた。今も忍が遠慮しないようにとの気遣いか、気障な台詞を吐く榊に笑みが零れた。
こんな台詞を女性がこの声で囁かれたら、誰だって本気になってしまうに違いない。声だけでなく、実際に会ってしまったら1度で恋に落ちるだろう。端麗な容姿に印象深い知的な瞳。最初に会った時、男の忍が息を飲んだ程の美形なのだ。絶対にもてる筈なのに、事務所の中でも浮いた話をしたことはない。それが、忍には不思議だった。
だが、それと同時に、自分の容姿をひけらかしたりしない榊が、忍は好きだった。
「そんな台詞は恋人にでも言うべきですよ」
「忍くんが恋人なら、私は本望です」
「また・・・、すぐそういう質の悪い冗談を・・・・・」
少しのやっかみと、からかいを込めて、忍は榊をたしなめた。
最近では冗談を言い合う事さえ出来るようになった。
「では、時間ですので。また夜に・・・・・」
人付き合いの苦手な忍にとって、これくらいの距離が一番心地よかった。
もし、榊が顧客になってしまったら、また二人の付き合い方は変わってしまうのだろうか。
このまま時が止まってしまえばいい。
いけない事とは思いつつも、本音のところで忍はそう願っていた。
そして、電波の切れてしまった携帯電話を、忍はいつまでも見つめていた。
つづく