2000.12.13up

ブレイク・タイム 8

上郷  伊織

◇◇◇◇◇

 閑静な山手の一等地にそのマンションは位置している。
 都会の中にありながら、四季折々の風景も楽しめるその一室を、榊は殊の外愛していた。
 自ら設計・建設に携わった時の愛着が強すぎて、購入してしまった物件がそのマンションである。
 玄関で暗い部屋に明かりを灯す。一番奥の書斎に荷物を下ろし、リビングに戻った。風呂の準備は自動給湯システムのボタンを押すだけである。冷蔵庫からビールを一本取り出し、また書斎に戻ると、今日入手したばかりのパンフレットを開く。
 そうする事で新聞や書類に目を通し終わる頃には、ゆっくりと湯に浸かることができる。その後、翌日の仕事の準備を済ませると榊は就寝する。

 それが毎日繰り返される日常だった。

 だが、ここ最近は何の変哲もない日常の中に、一つの楽しみが増えていた。
 笠原忍である。
 忍と話しをしたのは、今日で3度目だった。
 商談という形ではあったが、商談で2時間、食事で2時間半と、多少は個人的な会話も出来た。
 最初の商談ではかなり頼りない印象だったが、今日の忍はまるで別人のようだった。
 パソコンを操り、説明を進める忍の動作や態度は一本芯が通ったような感じがした。商談内容も設計事務所向けの改良がなされていた。会えなかった一週間で、いかに忍が設計事務所についての事を研究してきたのかが伺えた。
 あの夏の日、泣いていた忍の澄んだ瞳に映しだされた高潔な印象が、気のせいではなかった事を榊は確信した。
 忍と話す内に分かった事はそれだけではない。忍は他者に対して正直である。また、誠実でもある。
 可哀相だが、持ち前の性格と、社会で上手く生き抜く為の手段とのギャップに苦しみながら成長するタイプだ。
 狡賢く嘘吐きにならなければ社会の中では生き残れない。特に営業社員などはその最たるものである。
 きっと、忍が営業としてやっていく為には、彼が一番忌み嫌っている事を実践して行かねばならないだろう。
 彼が希望していた技術者ならば、今の性格のままで十分生きていけたであろう事を思うと、痛ましくもある。
 仕事運がない、というのは正に忍のような人間のことかもしれない。
 パンフレットを閉じて、榊はため息を吐いた。
 あれだけ勤勉で誠実な男は滅多にお目にかかれるものではない。扱い方さえ間違えなければ、まだまだ磨けば光る石なのだ。


 今日、榊は営業としての笠原忍を、すっかり気に入ってしまった。即決で契約しても良いとさえ思っていた。
 だが、もう遅い。
 毅然と説明する高潔なまでの凛々しい表情。
 食い付くような粘り強さ。
 ソフトを褒められた時に見せた、溢れんばかりの笑み。
 商談が終わる頃には、もっと忍を知りたくなっていた。
 もっと、もっと出来る限り多くの時間を忍と過ごしたい。
 仕事ばかりでなく、プライベートな表情も見たい。

 すでに榊は最初のボタンをかけ違えていた。
 可能な事ならば、時間をあの夏に戻して、最初からやり直したかった。
 どんな事をしてでも、すぐに忍を見つけ出し、正面から会いに行くべきだった。
 忍に気味悪がられても、玉砕するのを覚悟で告白すべきだった。
 苦い後悔の念を榊は抱く。
 もう、後戻りは出来ない。
 プライベートと仕事を完全に分ける自信はあった。けれど、榊の心は急速に忍を求めている。すでに仕事に恋愛沙汰を絡めてしまったのだ。
 このまま時が経てば、きっと忍はひどく傷つく事になる。
 自分が傷つけてしまう。

───  まだ、契約してあげる訳にはいかない

 早々に契約して、忍の顧客になることはいつでも出来る。だが、忍に顧客という意識が大きくなればなる程、榊を恋愛対象として見る可能性は低いだろう。ただでさえ、同性という障害があるのだ。
 榊自身、仕事関係の人間にはそんな感情を抱かない。顧客ともなれば、意識の外へはずしている。
 だからこそ、忍を手に入れるまで、契約する事は出来ない。

 気の毒だが、忍には泣いて貰うしかない。

 榊は決意を固めて、ビールを一気に飲み干した。

                         つづく

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