2000.12.13up

ブレイク・タイム 7

上郷  伊織

◇◇◇◇◇

 前日の雨が嘘のように、その日、空は晴れ渡っていた。
 朝の10時から、6件の客先を回り、笠原忍は車を駐車した場所まで、ふらつく足取りで歩いた。
 途中で買ったスポーツドリンクのプルトップを開け、中身を一息に飲むと、後から後から汗は背中を伝い落ちていく。不快な感触に足下を覗けば、濡れた土壌を歩いたお陰で靴には所々泥が付いている。
「こんなに痛んだのか・・・・」
 車内に乗り込む前に、底のすり切れた革靴を使い古しのタオルで拭きながら、忍は一人ごちた。車で営業しているからといって歩かない訳はない。車でどうしても入れないような道もこの世には多数存在するのである。
 この日、忍はそんな道ばかりを選んで、見込み客を捜した。たとえ小さな個人商店でも、見付け出せれば、という想いである。
 だが、成果は見られなかった。
 榊との約束の時間まで、あれこれ余計なことを考えずに済んだ事だけは救いと言えた。

 
 前日のデモのお陰か、その日のデモはスムースに進み、予定通り2時間で終わった。
 忍は榊から2・3の課題を貰い、早々に帰社するつもりだった。
「最初から営業希望だったんですか?」
 忍が席を立ち、機材を片づけだした時だった。
「はい?」
 榊が顎に手をかけながら、不意に尋ねた。
 忍の手は止まった。どう、返答して良いものか迷っていた。正直に答えると、やる気のない営業と誤解されるかもしれない。
「立ち入ったことを聞いてしまったようですね。機械を操っている忍くんが、あんまり生き生きしていたので・・・・・・。忘れて下さい」
 榊も来客用のカップを片づけ出した。
「いえ・・・・・」
 榊から気遣われてしまったことが、忍に罪悪感を抱かせる。この人に嘘をついてはいけない、と忍は思った。
「僕は開発部を希望して日設に入りました。研修後の配属で営業に決まったんです」
 契約して欲しいなら、嘘でも営業志望の前向きな社員を演じた方がいい。分かっていながら、くぐもった声で忍は真実を言った。
 榊は何も言わなかった。
「でも、僕はこのソフトに自信を持っています。色んな人に使って頂きたいと思っています。
 パッケージソフトだけど、痒いところに手が届く、というのか・・・・結構、描きたいと思った図面が工夫次第で自在に描ける所がこのソフトの長所です。
 それに、僕は開発部へは行けなかったけど、今も僕の信頼する同期の人達がもっと使いやすくしようと毎日研究を続けています。売るからには、彼らの努力を無駄にはしたくないと思っているんです。
 希望通りの職種じゃないからといっていい加減な事はしないつもりです」
 気がつけば、必死になって口を動かしていた。すべてが忍の本心で、いつも自分に言い聞かせている言葉だった。
 研修で机を並べた同期達、苦しくとも、楽しい2ヶ月を共に過ごした仲間の、ほんの一握りの人間が開発部にいるのだ。
 今でさえ一番仲の良かった国枝は月に1度の割合で忍にメールを送ってよこす。CADの一部を修正したから是非その機能を試してくれ、と。そんな時、忍は妬ましくも羨ましくもあるが、自分に出来ない事を変わりに国枝がやってくれていると自分に言い聞かせる。自分が手掛けたと思えば、そのソフトは愛着が出てくる筈である。
「どうしても事務所に帰らなければいけませんか?」
 何ヶ月か前に想いを馳せている忍に、榊は尋ねた。
 時計の針は6時半をまわっている。
「えっ、いえ。報告の電話を入れておけば大丈夫です」
「夕飯でも食べにいきませんか?」
 戸惑いは会ったものの、忍はコクリと頷いた。食事と言えば、お客と仲良くなれる絶好のチャンスである。
 食事の件を携帯電話で事務所に待機している課長に相談すると、課長も快く賛成してくれた。


 案内されて訪れたのは、榊の設計事務所から車で20分程の距離にあるイタリアンレストランだった。
「君はとても正直な人だ」
「え?」
 ディナーコースを注文し、ワインで乾杯をしてまもなくの事だった。
 忍は脈絡のない榊の言葉を聞き、前後の会話を思い出そうとしていた。
「好きで営業になる人間なんて、滅多にいません。ですが、同じ質問をしたとして、殆どの営業は口から出任せのきれい事で誤魔化します。でも、君はそれをしなかった。
 私はそういう不器用な人間の方が好きです」
 事務所での会話の続きを榊はしているようだった。
 どうやら榊に自分が気に入られている、というのは本当らしい。だが、『正直で不器用』というのが、今後の社会生活に役立つとは忍には思えなかった。
「でも、僕がこんなだから思うように売り上げに繋げられなくて、いつも上司から叱責ばかり受けているんです。
 人間としては、このままでも良いかもしれない。けれど、営業としては今のままではいけないと思うんです」
 忍が本音を口に出すと、榊は僅かに眉を上げ、ワインに口を付けた。
「そうですね。今の忍くんは確かに業績を上げられる営業ではありません。
 ですが、長い目で見れば、顧客に信頼の得られる営業になれるかもしれない」
「でも、業績を上げられなければ、会社にとっては必要のない人間なのでは・・・・・・・」
 自分の事を榊が肯定してくれている。今の忍にとって何よりも有り難い事だった。けれど、榊は営業ではない。その為に忍は素直に頷く事が出来なかった。営業でない者に何が分かるというのだ、という反発が忍の心の奥にはあった。
 榊はといえば、グラスを緩やかに回し、忍の瞳を見つめている。その表情に不快の色は見受けられない。
「長い目でみれば、と言ったはずです。
 業績を上げられる営業が信頼出来る営業とは限らない、と私は言いたいのです。ウサギとカメのお話みたいなものですね。
 信頼出来る営業は固定客を維持出来ます。
 業績を早く上げる営業の多くは新規の顧客を狙いますよね、そこで、固定客に対するアフターケアがおざなりになりやすい。固定客が逃げてしまえば、また新規の顧客をその人は捜すでしょう。
 ですが、市場には限界がある。いつしか新規を掘り尽くして、当たっていくお客自体がなくなってしまう場合もある、ということです」
 ふと、以前に小暮から聞いた言葉を忍は思い出していた。その時小暮は、今、榊が言ったのと同じ事を岸辺に注意していた。
「固定客を大事にしていれば、そのうち紹介も出てきます。紹介ともなれば、飛び込みよりも遙かに信頼度は高い。となると、新規顧客はあとから付いてくる。この理屈が分かりますか」
 つまり、この喩え話のカメが忍だということらしい。
 この話を信じてみたかった。
 忍が模索している自分の営業スタイルを見つけたような気がする。
「榊さんは営業をやったことがあるんですか?」
 営業でもないのにどうして榊にそんなことが分かるのか、どうしても忍には納得がいかない。
「ありませんが、私たちのような図面屋でも、固定客の維持は大切な課題です。勿論商談もやりますし、何より設計に詳しい者でないと私たちの商談や打ち合わせは成立しません。つまり、大枠の理屈は同じです」
 言い終えると、榊は柔らかく微笑んだ。
 榊の聡明さを垣間見た気がする。
 それと同時に、自分が認められている、そう感じる事が、忍は嬉しかった。誰にも認めて貰えないと思っていただけに、榊の気持ちがたまらなかった。
 目頭が熱くなる想いで、忍は俯く。
 この日、忍は初めて仕事の喜びを知った。

 何があっても、この人に対してだけは誠実でいたい。

 忍は心の中でそう誓いをたてた。

                         つづく

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