2000.12.13up

ブレイク・タイム 10

上郷  伊織

◇◇◇◇◇

 営業会社の朝は慌ただしい。
 例によって例のごとく、気怠い朝の空気を破り、日本設計総合研究社では、厳かに朝礼が行われていた。
「もう、展示会は秒読み段階に入っている。にも関わらず、未だ一件も集客出来ていない不届き者がいることを、皆さんはご存知でしょうか?」
 静かなフロアに支店長の声が朗々と響く。
 朝礼が始まってから、すでに20分は経過している。だが、支店長の話は延々と続いていた。
 イライラしながら様子を見守っていた忍は、話が展示会の事に及ぶと、身を隠したくなった。支店長が言った不埒者とは忍の事だったのだ。
 展示会は年に4度行われる。メインはCADのデモンストレーションで、社会変動に応じた事象のセミナーも含めた内容で、新規顧客に自社商品を紹介する為の催しだった。集客するだけならば、まだ簡単と言えるのだが、その日一日の支店全体の目標額は本社で設定されており、70支店がその成績を競う。ボーナスの査定にも大きく影響するので営業一人一人が、いつもに増して目の色を変える催しだった。
「心当たりのある者は前に出て下さい」
 忍はおずおずと支店長の横まで歩いた。
 忘れていた訳ではない。案内状も百枚近く手渡しで配ったが、未だにただの一件も申し込みの返事が無いのである。
 やはり、難しい事だったのか、同期の新人2人も忍の横に並んでいる。
「また笠原くんか?」
「はっ、はい」
 怪訝な表情で自分を見る支店長の瞳に、忍は怯えていた。
「新規を取ってくるのは、そんなに難しいかね」
「はい」
 今日は何を要求されるのかを考えると、逆らうわけにはいかない。無事にこの場をやり過ごして、いつもより一件でも二件でも多く飛び込み営業をしなければならない。
 また、忍は追いつめられていた。
「では、新人の場合には、今持っている見込み客でもいい、という事にしてあげよう。それなら、一件くらいは集客出来るだろう。なっ、笠原くん」
「・・・・・・」
 注意だけで済むかと思えた話は、無理な要求に変わっていた。見込み客と言えば、忍には榊設計事務所しかない。だが、衆人環視の前で、榊の名前を口に出したくはなかった。
「返事は!」
「はっ、はい!」
 忍の抵抗は、支店長の怒鳴り声の前には無力だった。
 この怒鳴り声を聞くと、つい、条件反射で返事をかえしてしまう。
「ほぉ、いい返事だな。それだけの返事が出来るんだ、もちろん、案内先は決まっているんだろうね。言ってみたまえ」
「・・・・・・・」
 しまった、と思っても後の祭りだった。
 支店長お得意の誘導尋問が始まった。こうして、相手の社名を聞いておいて、売上げが上がらなかった時には、より一層ひどい侮辱を受けるのだ。
 榊設計事務所に対して、百パーセントの自信があるなら、今、この場で言ってしまっても良かった。
 だが、最近は榊に話をはぐらかされてばかりで、売上げを上げられるか、確信を持てなかった。
 無言で俯くだけしか出来ないでいる忍を、支店長はさめた目で見つめている。
 視線を嫌と言うほど感じて、忍は身も縮む思いでいた。
 今までの経験からいって、雷が落ちるのは時間の問題だった。
「支店長、お話中よろしいでしょうか?」
「おお、課長か。なんだ?」
 珍しく、雷が落ちる寸前で課長が間に入った。 助け船を出してくれる者がいたのか、とホッと胸をなで下ろし、忍は顔を上げた。
「笠原はここ3ヶ月程、榊設計事務所と商談しております。一番濃い見込みとしては、榊設計事務所かと思われますが」
 支店長を説得するように課長は落ち着いた口調で、そういった。
「そうか、じゃあ笠原くんは朝礼が終わり次第、榊設計と連絡を取って、報告するように」
 課長の言葉は支店長に逆手に取られ、結局、忍に追い打ちをかける結果になった。
 支店長の最後の台詞に、忍は自分が崖っぷちに立たされていることを自覚せざるおえなかった。
 榊設計事務所からの売上げが上がらなかった時の事を考えると、胃が痛くなりそうである。
 忍にとって嵐のような朝礼が終わった。
 早速、恐る恐る榊に電話すると、快い返事をしてくれた。
 参加を勧める反面、忍は榊が断ってくれる事を期待していた。
 FAXで案内状を送ると、5分もしない内に榊からの申込書が送り返された。榊の達筆なサインを瞳に映し、忍は途方に暮れた。
 直ぐさま課長に申し込み書を提出すると、初めて課長は褒めてくれた。
 課長の手前、心にもない笑みを浮かべはしたものの、忍は喜ぶ気持ちにはなれなかった。 
 もう、確実に榊を顧客にするしかないのだ。

 忍の気持ちは重く沈み込んでいった。

                         つづく

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