2000.12.13up

ブレイク・タイム 11

上郷  伊織

◇◇◇◇◇

 人が望むと望まざるとに関わらず、時は過ぎていく。

 展示会のその日、日本設計総合研究社では朝7時から全社員が出社し、展示場設営の総仕上げを行っていた。
 忍の所属するシステム部は主に機材の設置と配線に追われていた。前日まで事務所で使用していた機械も、今日は展示物の一部となる。
 壁一面に並べられたパソコン・プリンター・プロッターを次々と接続し、それが終わると、ソフトの動作確認が待っていた。
 展示位置は前日から設定され、配置図が全員に配られている。10時から始まる展示会に必ず間に合わさなければならない。
 額に汗をかきながら、忍も必死にテストを繰り返していた。配線が終わりかけた頃だった。忍は延長コードが足りない事に気づいて、事務所のフロアーに引き返そうとしていた。
「とうとう、この日が来たな」
 後ろから声を掛けられ、振り返ると、抱えきれない程の展示ブース用のパイプを小暮が抱えて立っていた。
 綿シャツの袖をまくって、ジーパン姿で首にタオルをかけている小暮は、まるで肉体労働者のようだった。折角の美貌が台無しである。
 設営作業時間は衣服がどうしても汚れるため、私服が許可されている。
「玄関用ですか?」
「ああ」
 忍は慌ててパイプの半分を小暮から受け取った。ささやかな忍の手伝いに、小暮はほのかに微笑む。
「榊の確約は取れたのか?」
「ええ」
 小暮からの質問に、忍は覚悟を決めたように頷いた。
 今日、忍は榊から契約書にサインを貰わなければならない。それが出来なければ、この不景気の折り、リストラの対象になるかもしれないのだ。
 本社からも入社半年目に総売上が五百万に満たない社員はリストラの対象とする、というお達しが出ている。
「泣いても笑っても今日だな」
「そうですね」
 正念場は、もうそこまで来ていた。


 午後2時45分、約束通り榊はやってきた。
 その時、忍はCADのデモを一人のお客様に対して行っていた。CADの展示場とセミナー室は別になっていたが、3時から始まるセミナーまで時間に余裕があった為、課長が展示場に榊を案内してくれたのだ。
 丁度、それに気付いた小暮が機械の操作を交代してくれたため、忍は慌てて榊に駆け寄った。
 展示会に自分が担当するお客様が来るのは初めてのことだった。売上げが上がらなかった時の事を考えると沈みがちな気持ちも、初めて招いた榊の顔を見た途端、浮上する。
 早速、来てくれたことに対して礼を言い、セミナーまでの間、ざっと一通りのブースの位置などを榊に説明した。
 程なくして、セミナー来場者への案内放送がかかり、榊は機嫌良く別室に消えた。
 
 忍は持ち回りのブースに戻り、また別のお客への説明に追われていた。矢継ぎ早に訪れるお客様に、目が回りそうな忙しい時間を忍は過ごしていた。
 もう、余計なことを考えている余裕はない。

 客足は落ち着きを見せだした頃の事である。
「やはり、解像度の高い機器は違いますね」
 聞き覚えのある声に振り返れば、そこには榊が立っていた。時計を見れば、午後5時を回っている。2時間は、あっという間に過ぎてしまったのだ。
 慌てる忍とは対照に、榊は落ち着き払っていた。
「やはり、多少の緊迫感があるほうが、忍くんはいいですね」
 パンツのポケットに手を入れたまま、榊は呟いた。
 背広姿の榊はいつもに増して優雅だった。
 他のブースを見ていた何処かの奥様らしき女性も、榊に見とれている。
「CADをご覧になりますか? と言っても、すでにご覧頂いた機能ですが・・・・」
 榊の所にはさんざんお邪魔して、何度も説明していたので、見せるものがない。招いたは良いものの、忍は困り果てていた。このまますぐに商談コーナーに連れて行くのもあまりに露骨である。
「そうですね、折角これだけの機器が揃っているのですから、カラーパースを見せて下さい」
 いつもノートパソコンでデモを行っていた為、どうしても解像度の落ちるものしか榊には見せられなかった。
 解像度とはディスプレイに映しだされる写真や絵の粒子の細かさを言う。解像度が高ければ高いほど、緻密な絵が描けるのである。ちなみに、カラーパースは建物の外観の絵等の事をいう。
 榊の助け船に忍は頭の下がる思いだった。
 本来なら、営業の忍が気付かねばならない事である。
 忍の落ち込んだ気分を、知ってか知らずか、榊は普段と変わる事無く、忍に柔らかな笑みを向けていた。
 その微笑みに忍の心は和む。
 一時でも、戦々恐々とした市場競争を忘れられるような気がしていた。
 なごやかな雰囲気のデモは数十分で終わりを告げた。
「鮮やかなものだね」
 気がつくと、支店長が後ろに立っていた。
 忍は支店長の本意をはかりかねていた。
 支店長は榊に丁寧な挨拶をし、二人の会話に入り込んだ。彼はしばらくの間、榊の隣に座り、忍のデモを熱心に眺めていた。
「デモも一通り終わったようですし、どうですか、あちらのコーナーで飲み物をご用意しておりますが、休憩されませんか?」
 極力丁寧な口調で、支店長は商談コーナーへと榊を誘導する。ここに至って、忍は支店長の本意を悟った。彼は忍の商談の主導権を握るつもりなのだ。
 忍はじっくりと榊を説得した上で、契約を頂くつもりでいた。だが、支店長の目には、商談に持ち込みかねているように映ったのかもしれない。
 忍は心の奥で舌打ちをした。
 榊を支店長のごり押し営業の餌食にはしたくなかった。けれど、彼を止める力は忍にはない。
 もう、忍は成り行きを見守るしかない立場に追いやられていた。
「そうですか、CADには以前からご興味がおありだったんですか」
 いつもの横柄な態度はどこに隠れているのか、支店長は終始笑顔を絶やさず、柔らかな対応をしていた。
「笠原くんがいつもお世話になっているそうですが、もしも至らない点がありましたら、いつでもおっしゃって下さい」
「いえ、笠原さんは私のわがままな希望もよくきいてくれますので、私は満足しています」
 差し障りのない会話が続いていた。
 不意に支店長が耳元で指示を出した。
 予め用意していた見積もりを出すようにとの事だ。
 悔しさに唇を噛みながら、忍は支店長に見積書を手渡した。本当は、自分で商談を詰めるつもりで、昨夜、自宅でシュミレーションしていたのだ。
 額面を見た時、支店長は目を向いたが、すぐに落ち着いた表情に戻り、榊と向き合った。
「この見積書をご覧下さい」
「笠原さんがたてた見積もりなら、改めて私が見る必要はありません」
 攻め込むような目つきで、見積書を差し出す支店長に対し、榊は眉も動かさずにそう言った。
 忍は涙が出そうなくらい、嬉しかった。
 榊は忍に対する信頼を示してくれたのだ。
「では、契約して下さると・・・・・」
 疑うような支店長の表情にも、榊は動揺しなかった。
「ある程度、条件はありますが、契約しても構いません。ですが、担当が笠原さんだから、私はこの契約をする気になったんです。それを忘れないで下さい。それから、今日は実印を持っていませんので、本契約は後日になります」
「榊さん・・・・・・」
 忍の瞳は潤んでいた。
 支店長にきっぱりと言ってくれた言葉が何よりうれしかったのだ。こんなに嬉しい事は社会人になって初めてだった。
「ところで条件の方ですが・・・・・」
 榊に邪険にされている事に気付きながらも、支店長は契約交渉を進めたいようである。
「条件について、詳しくは笠原さんと二人でお話がしたいのですが、席を外して頂けないでしょうか」
 柔らかく、榊は支店長に退散を言い渡した。
「あ・・・、ああ、そうですか、わかりました。それでは私はこの辺で失礼致します。笠原くん、よろしく頼んだよ」
 動揺も露わに、支店長は退散した。
 忍は支店長に対して、これほど露骨な態度をとった人間を初めてみた。
 たとえ嫌っていたとしても、相手の肩書きが偉ければ、心にも無いことをいうのが社会人だと思っていた。
「榊さん、なぜ、支店長にあんな・・・・・」
 今日の榊は機嫌が悪いのだろうか?
 そんなことを思いながら、忍は訊ねた。
 いつも、温厚な榊に似合わない。
「私は外部の人間に、自分の部下を貶めるような事を言う上司は嫌いです。しかも、あの人は私の忍くんに非常に失礼な態度をとっていました。許せません」
 たったあれだけの会話で、支店長と自分の関係を悟ってしまう。
 榊の勘の良さに改めて驚かされる。それと共に、子供じみた榊の言いぐさがおかしくて、忍は吹き出した。
 忍の様子を伺っていた榊も、照れくさそうに微笑む。
 忍は自分の立場をしばし忘れられた。

 しばらくして、条件を聞くと、忍の耳に榊はこう囁いた。
「忍くんがなんでもしてくれるなら、コンピュータを買ってあげてもいいです。これが条件です」
 忍は自分の耳を疑った。
 なんでもというのは、どうとでも取れる言葉である。目を白黒させて榊を見つめても、全くその意味は分からない。
「自宅に実印を置いてあります。もし、忍くんに、今から私のマンションへお越し頂けるなら、今日中に契約を交わせるんですが・・・・・・・」
「今日中ですか? 展示会は6時終了ですので、別に構わないと思いますが、上司に相談してきます」
 こんな条件は聞いた事がない。
 とにかく、課長か支店長にお伺いを立てて、条件の事についても聞いてみるつもりで、忍は頷いた。

 支店長に相談に行くと、一も二もなく、条件を呑むように言い渡された。
 榊の承諾に、支店長はすっかり有頂天になっているようである。支店長のギラつく瞳が、命令を発している。「絶対に逃すな」と。
 見積もりの額面が額面だけに無理のない事態だった。
 総合計六百五十万の契約を、榊は二つ返事でするというのだ。目の色が変わらない者がいるわけはない。見積書を書いた忍自身、夢でも見ている気分だった。

 荷物を取る為に事務所へ戻ると、約半数の社員が休憩していた。
 午後5時40分。
 展示会の終了時刻が間近に迫り、客足は少なくなっている。みなの行動はそれを見込んでのことだろう、と忍は思った。
「こら、笠原! なに、鞄なんか持ってるんだ。まだ、片づけも夕礼も終わってないだろ!」
 そんな中、岸部に引き留められ、忍は仕方なく、手短にいきさつを話した。
「やったじゃないか! 六百五十だと! この!」
 自分の事のように喜んでくれるのは嬉しいのだが、岸辺のリアクションは毎回激しすぎて、忍にはついていけない。 
 頭を小突かれながら、周囲を伺うと、先輩社員の中には忍達を睨んでいる者もいた。売上げが思うように出ない時は、嫉妬深くなる者もいるのだ。
 そこの所を岸辺に分かって欲しかった。
「ばかもの」
 休憩に戻ってきたのか、小暮が拳骨で岸辺の頭を殴って、止めに入ってくれた。
「あたぁ」
 岸辺は自分の頭を撫でながらも、今回は小暮に反発しなかった。
 ほんの何日か前に小暮に教えて貰った情報で、今月の目標額を余裕で達成できていたせいかもしれない。
「小暮さん! やりました」
 心配してくれていた小暮に忍は元気いっぱいに報告する。
「そうか。それで、何か条件はあったか?」
「それが・・・・・・」
 小暮は条件面でも心配してくれたようである。忍も心に引っかかっていた事だけに、ありのままを小暮に報告した。
「それだけか?」
「そうなんです」
 忍の話を聞いて、小暮はなにやら考え込んでしまった。
「だったら心配することないって、俺なんかそういうのしょっちゅうだぜ。大抵は池掃除とか、犬の散歩とか、そういえば引っ越しの手伝いってのもあったな。何にせよ、肉体労働だって。ね! 小暮さん!」  
「お前は条件付きでしか契約を取ったことがないのか。自慢にならんぞ!」
 話を横から聞いていて、岸辺が自分の経験を語った。
 それに対して、小暮は情けなさそうに、呆れた口調で岸辺をたしなめる。
「がんばれよ!」
 分が悪くなったのか、岸辺は激励の言葉を残し、早々に退散した。
 岸辺が去った後、小暮は忍に向き直った。
「たぶん、岸辺の言ったような意味だと思うんだが・・・・・、大丈夫、きっとそうだ」
 小暮にしては、歯切れの悪い言い方だった。
 その態度が、忍には気に掛かる。
「ここまで来たんだ。気を抜くなよ」
「はい」
 忍が不安そうにしていると、小暮は忍を元気づけるように、肩を叩いた。

 小暮にエレベーターの所まで見送られ、忍は榊の待つガレージへと真っ直ぐに向かった。

 待ちに待った時が訪れようとしていた。

                         つづく

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