2000.12.13up

ブレイク・タイム 12

上郷  伊織

◇◇◇◇◇

 松の古材にオイルステンの加工を施したテーブルが黒く渋い光を放っている。
 その上に置かれた紙片を、抜け殻のような表情で、忍はただただ見つめていた。

 契約は成立した。
 9月から12月。
 長いようで短い日々だった。
 こうして一つの契約が成立すると、次のターゲットを求めて、忍達営業は、たった数枚の紙片のために、毎日這いずりながら生きていく。
 嬉しいようで、悲しい瞬間だった。
「忍くん」
 心にぽっかり穴があいたような、そんな気分でいた時、榊の声が聞こえた。
「あっ、すいません。・・・・・・ところで、条件の方ですが」
 正気を取り戻し、忍は訊ねた。
 榊に案内されて訪れたマンションは、高級住宅地にそびえ立っていた。広々とした2LDKの部屋は、独り者には少し贅沢ではないかと思われる。
「もう少し、リラックスして下さい」
 忍が放心状態でいる内に榊はビールを用意していた。
「仕事中ですから・・・・」
 差し出されたグラスを遠慮がちに断ると、榊は寂しげな表情になった。
 条件は気になるものの、榊にそんな表情をされてしまうと、忍は罪悪感を持たずにはいられなかった。
 いつも食事をする時のように、気安くは出来ない。仕事中に飲酒などして、肝心の条件を満たせなかった、などという事になったら眼も当てられない。
「忍くんを下さい、と言ったらどうします?」
 忍が黙って榊の言葉を待っていると、榊は微苦笑を浮かべながら呟きを漏らした。
 その声を、忍はハッキリと聞き取れなかった。
 榊は絨毯の上に座る忍に、じりじりと近付いてくる。
「あの・・・・」
 忍がもう一度聞き返そうとしていると、榊の顔が間近に迫っていた。
「こういう事です」
 次の瞬間、忍の唇は塞がれた。
 状況を全く読んでいなかった忍は、たやすく榊を受け入れてしまった。
 濃厚な感触に、忍の体は追い上げられる。
 キスなどど、そんな生やさしいモノではない。
 いつしか、榊の腕に支えられ、忍の意識は朦朧となっていた。

 永遠に続くかと思われる口付けは、いつの間にか終わっていた。
 やっとの事で解放され、忍は必死になって酸素を吸収していた。そして、榊の意志を悟る。
「私の事が嫌いですか?」
 答えようもなく、忍は俯いた。
 肩が小刻みに震えた。
 榊の事は嫌いではない。
 むしろ好きだと思っている。
 けれど、榊と全く同じ意味かと聞かれれば、違うような気がした。
 忍は奥手ではあるが、いままで同性に対して欲情したことはない。頭に「欲情」という言葉を思い浮かべた途端、忍は青ざめた。
 榊の行動が意味するのは、そういうことなのだ。忍は逃げ出したくなって、必死に床を這う。
 間近にあったテーブルを頼りに立ち上がろうとすると、指先に紙の感触がした。
 契約書である。
 これが条件だとすると、ここで榊を拒めば、契約をあきらめなければならない。この3ヶ月が無駄になる。
 立ち上がったは良いものの、忍は迷っていた。
 榊はとっくに立ち上がり、そんな忍を見つめている。
「・・・・・どうして」
 榊がこんな卑劣な条件を考えていただなんて、信じられなかった。
「最初にあなたを見かけた時から好きでした」
 榊の告白は、忍を絶望に追いやった。
 「最初から」と榊は言った。
 自分の力を榊に信じて貰えたと、ほんの数十分前まで忍は信じていた。
 榊にとっては六百五十万なんて、はした金で、自分は金で買われるのと同じなのだ。
 自分は営業力を売ったのではなく、躯を売ろうとしているのか、と思うと、惨めだった。
 榊にそんな人間だと思われていたのか、そう思うと死にたくなった。それと同時に榊に対する恐怖心が忍の中に生まれていた。
 忍は榊を心の何処かで信じたかった。
 何も起こってはならない。
 冗談だと榊に言って欲しかった。
 榊が近づくと、近づいた分だけ忍は退いた。
 榊は壁際に忍を追いつめていく。
「私に出会わなければ良かったと思いますか?」
 思わず、忍は視線を上げた。
 榊に出会えた事を忍は感謝している。出会わなければ、などと考えた事はただの一度としてない。忍は何度も横に首を振る。
 潤んだ忍の瞳に見つめられ、榊は柔らかな笑みを零した。
「私の気持ちは迷惑ですか?」
 榊に色々なことを教わった。
 そして、数え切れない程、たくさんの優しい言葉を貰った。
 榊の瞳は饒舌な程に、彼の気持ちを訴えかけている。
 それほどに思われる事が迷惑だなんて、忍には言えなかった。やはり、応えようがなく、忍は瞳をそらした。
 すると、榊は忍を抱きしめた。
「どんな手段を使ってでも手に入れたいと思ったのは、君が初めてです」
 未だかつて、これほどまでに誰かに想われた事があったろうか。自分はこれほどに誰かを想ったことがあるだろうか。
 耳に心地よい低音。
 間近で囁かれる情熱を込めた言葉。
 震える忍の唇に、榊の唇が重なるように近付いていた。その事に気付き、忍は本能的に榊の唇を手でそっと押さえた。
「ダメです」
 忍はその場の雰囲気に流されそうだった。
 だが、僅かな忍の理性が、本能を引き留める。
 先程受けた口付けを、今また受け入れてしまったら、自分が取り返しのつかない事をしでかしそうな気がする。
「そんなに嫌ですか」
 忍の手を押さえ、榊は眉を寄せた。
 榊の口付けを忍は嫌悪できない。
 むしろ、本能ではそれを気持ちいいと思う。
 だが、流されてはいけない。
 それぞれの立場を考えると、これ以上榊の言う通りには出来なかった。
 そんなことをしたら、忍は自分自身が許せなくなる。
「・・・・あなたに軽蔑されるのは嫌です」
 契約の為に躯を投げ出すなんて出来なかった。そんな人間を忍は軽蔑している。自分が同じ事をすれば、人から軽蔑されても仕方がないのだ。
 瞳にいっぱい涙を溜めて、忍は榊を見つめた。
 そこには慈愛に満ちた瞳があった。
「軽蔑されるのは私の方です。汚いと思うでしょう。君を手に入れたくて、姑息な手段を使いました。でも、もういい。私は君の気持ちが知りたい。CADは買います。もうこれは条件ではありません」
 榊はそう言うと、忍を解放した。
 こわばっていた忍の躯から力が抜けた。
 壁を背中に、ずるずる崩れ落ちていく忍の躯を、もう一度、榊は支えるように抱きしめる。
「仕事の時間は終わりました。君は自由です。契約書を持って帰っても構いません」
 そう言って、榊はソファーに忍を座らせた。「諦めなければいけないのに、君をますます好きになりました。ですが、今後、君が私には会いたくないと言うのなら、残念ですが、会わずに済むようにします。指導には気兼ねなく来て下さい。大丈夫、君が事務所に来るときは他の者にコンピュータを担当させます。あなたはその社員の相手だけをすればいい。私は所長室に籠もります。」
 なぜ、この人は先の事まで考えてくれるのだろうか。
 自分はこの人の気持ちに応えられなかったのだから、もっと邪険に扱われても仕方がない筈なのだ。
 それなのに、いつだって忍の気持ちを気遣ってくれる。
 追いつめられた状況の中で、榊だけが忍に気持ちの潤いを与えてくれた。
 どんな事があっても、榊を嫌うだなんて、忍には出来そうもない。
 榊が嫌でなければ、これからだって会いたい。
 どうして榊を嫌いになれないのか。
 どうして、ここから逃げないのか。
 もう、分かっている。
 自分は榊が好きなのだ。
 今更、榊の存在を失うことなんて、忍にはできない。
 榊と話をするだけで、自分が何でも出来そうな気持ちになれた。
 目の前に切ない瞳がある。
 熱を含んだ榊の瞳に見つめられると、言う通りにしてあげたい気分になる。
 今、榊の手を取るなら、契約まで頂いてはいけない。自分の力を認めて貰っていた訳ではないのだから、虫が良すぎる。不必要な買い物を榊にさせるわけにはいかない。
 
 契約は諦めよう。
 忍はそう思った。

 親身にしてくれた小暮に申し訳がない。
 小暮の事を思うと、涙がこぼれた。
 明日、出社して支店長や課長に、なんて言い訳すればいいのか、なんて分からない。
 リストラだって怖い。
 だが、それ以上に、榊を想う気持ちの方が強かった。榊に対して、後ろめたい気持ちを持ちたくはない。
 最初の日、榊は対等に付き合おうと言った。
 自分の成績の為だけに、榊から契約を貰うのは、対等ではない。
「もう、いいです」
 考えた末に、忍は結論を出した。
 そして、思い切って、忍は榊の腕の中に飛び込んだ。
「・・・忍くん?」
 榊は忍の豹変に、困惑しているようだった。
 それでも、榊は忍の身体をしっかりと抱きしめている。
「好きです」
 忍は榊の胸に顔を埋めて、囁いた。
 榊の顔を見るのが照れくさかった。
「それは、同情ですか?」
 榊は忍の言葉が信じられないようだった。
 つい、先ほど断ってしまったのだから、疑われても仕方がない。
「信じて下さい」
 忍は真っ直ぐに榊の瞳を見る。
「本当なら、逃げないでください」
 そっと、榊の唇が降りてきた。
 忍は逃げなかった。
 羽のように触れるだけの口付けは、妙に照れくさい。
 忍が潤んだ瞳で見つめていると、榊は忍を抱き上げた。
「そんな顔で誘わないで下さい」
 気障な台詞に、忍は首まで真っ赤になった。
 今までの冗談だと思っていた、気障な台詞の数々が本気だったのかと思うと、顔の火照りはなかなか直らない。
 榊は忍を抱きかかえたまま、別室のドアを開けた。
 見かけによらず、榊の腕は力強かった。

「今夜は君を帰してやれそうもない」
 
 そう言って、榊はドアを閉じた。


                         つづく

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