2000.12.13up

ブレイク・タイム 13

上郷  伊織

◇◇◇◇◇

 薄暗い闇の中、サイドボード上のヘッドライトが、ぼんやりと部屋を照らしている。
 榊卯人はベッドに座ったまま、灰皿に煙草を押しつけた。
 そして、出来立ての恋人を起こさぬようにそっとベッドを抜け出した。
 恋人は小さな寝息を立てて、眠り続けている。

───  やっと、手に入れた

 瞼を閉じていると、思いのほか睫が長い。
 小さな発見に口元は自然と綻んだ。
 そしてきめ細やかな頬に、一つ口付けを落と
す。
 すると、堅く閉じられていた瞼はうっすらと開く。まだ、頭は覚醒していないのか、ぼんやりとした瞳が、ゆっくりと動いている。
 瞳の焦点があった途端、恋人は完全に目を覚ました。
 恋人の名前は笠原忍。
 色恋沙汰には殆ど無縁だったであろうと思えるほど、初々しい昨夜の彼を思い出し、榊は一人、ほくそ笑んだ。
「・・・・・さかき・・さん・?・・・・・・」
 どうやら、忍は前後の記憶が怪しいらしい。
 榊の顔を見て、不思議そうに首を傾げている。
 困惑を露わにしている忍の表情も、たまらなく可愛らしい。榊は忍が気付くまでしばらく様子をみる事にした。
「・・あのっ、・・・・えっと・・・・・・」
 ベッドの上で、自分が全裸であることに驚愕し、忍は言葉を探しているようである。
「・・・かっ、帰ります!」
 どもりながら、そう叫んだかと思えば、次の瞬間には、忍の姿はベッドの上から消えていた。
 たぶん腰に力が入らないのだろう。
 榊が笑いながら手を貸そうとすると、忍はじっと榊を見つめた。
「無理もありません。昨日の今日ですから」
「・・・・きのう・・・・」
 榊の言葉に特別な意味を読みとったのか、途端に忍は真っ赤になる。
「忘れてはいないようですね。まだ夜中です。もう少しベッドにいて下さい」
 榊は忍を抱き上げて、ベッドに寝かせた。
 情けなさそうに身を縮める忍も、榊の眼には愛らしく映った。
 しばらくすると、忍はなにやら真剣な表情で考え込んでしまった。
 榊は二本目の煙草に火を付けた。 
「あの・・・契約書は破り捨てて下さい」
 不意に、忍はこう言った。
「あなたとこういう関係になった以上、契約を頂く訳にはいきません」
 潔癖な忍の言いそうな事である。
 榊はCADも欲しいのだ。
 それに、契約をしてしまわないと、次に忍に会えるのはいつの事か、全く保証は無い。
 忍の事に関しては、榊はあまり自信がなかった。
 昨日のことも、あのように騙したから上手くいきはしたものの・・・。もし、正攻法で攻めた場合、生真面目な忍の事だから、なかなかこうはいかなかっただろう。
 10回の指導の間に、なんとかこの関係を忍に慣れさせなければ、いつ、別れると言われても文句の言えない立場に榊は立っている。
「では、私は欲しいCADも買えないんですか?」
 榊はさも残念そうに肩を落としてみせる。
「でも・・・・」
「何か飲み物でも取ってきます。その間に、ちょっと考えて見て下さい」
 話を手早く切り上げ、榊はリビングへ向かった。その間に忍の考えが変わっていることを願っていた。


 二人分のコーヒーをゆっくりと入れ、榊は部屋のドアを開ける
「榊さん、やっぱり・・・・・・」
 やはり、忍の考えは変わっていないようだった。
「取り敢えず、飲みませんか。少しは落ち着くと思います」
 コーヒーカップを受け取り、忍は弾かれたように榊を凝視した。
「・・・・・榊さんだったんですか」
 忍はマジマジと榊を見つめていた。
「でも、あの人は六甲建設の・・・・・・」
 どうやら、忍はあの夏の日の事を思い出したらしい。
「やっと思い出してくれたんですね」
 願ってもないことだった。
 忍の記憶にはかけらも残らない程、些細な出来事だったのだろうと、すっかり諦めていた。「六甲建設は父の会社です」
 大手の会社では、別会社の人間でも、その社名が入った現場に入る場合には、必ずそこの制服を着なければいけなかった。
「あっ、そうか、あそこは大手だから・・・・・。あの時は本当にありがとうございました」
 忍は急にかしこまり、正座をした。
「布団の中に入った方が・・・・。私は構いませんが・・・・・」
 榊に頭の先から爪の先まで観察されているのを察し、忍はまた上掛けの中に慌てて潜り込んでしまう。

「なぜ、泣いていたんですか」
 頭まですっぽりと隠れていた忍は、そっと顔半分を出す。

 そして、一呼吸おいて話し出した。
「 あの時は・・・・、自分が世の中で一番不幸なんじゃないかと思っていたんです。望んだわけでもないのに、どうして自分は営業なんてやっているんだろう、・・・なんて、世を儚んだりして」
 笑いながら忍は呟いた。
「学生の頃は、遊びで簡単なゲームソフトを作ったりしました。それだけで得意になって、もっと自分の可能性を信じていて・・・・。自分がやりたいとか、なりたいとか思えばそれが現実になると思っていました。でも、段々大人に近付いて大学時代の後半は、特に就職っていう言葉が重くのし掛かってきて、やりたい事を考えるよりも、自分に出来ることを探し出して、それが大人になる事なのかな、なんて事を考えていました。実際周囲の殆どの人がそうだったから、自分もそうならなきゃいけないって、思い込んでいました」
 昔を懐かしむように、忍は遠い目をした。
 忍がこのまま消えてしまいそうに、榊には思える。だが、榊は続きを促した。
「そして、現実を本当の意味で自覚したのは就職してからでしたね。僕はなんて馬鹿なんだろうって思い知りました。だって、日本設計総合研究社って言ったら、その名の通り建設や建築関係の会社だと分かり切っているのに、僕ときたら、募集広告の「システムエンジニア育成」この一行しか頭に無かったんです。
 設計図面作成ソフトを作るとしたら、最低でも建築の知識が無いと、お客様に売る事なんて出来ないのに・・・・・・・。そういった知識も無く、ただ、ソフトに携わりたいとだけ思っていて・・・・・・。
 だから、今の現状は、不本意だけど、今の僕には当たり前っていうか・・・・・・、でも、やっぱり心の奥では、そういった諸々の事を納得出来ない自分がいて・・・・・。
 あの時は、ちょうど、そんな時だったんです。
 でも・・・・・、やだなっ、・・・・・あの時の人が榊さんだったなんて・・・・・・・」
 忍は照れくさそうに鼻の頭を指で軽く擦った。
「今も、そうなんですか?」
 榊はさりげなく聞いた。
 忍は天井を眺めながら、少し考え、ポツリポツリと、言葉を紡ぎ出す。
「うーん、そうですね、でも、今は、あの時とはちょっと違っていて・・・・・。確かに営業としての数字は出せていないけど・・・・・、最初の頃はまるで相手にもしてくれなかった得意先の人が、何度も通ってる内に、徐々にですけど、僕と話をしてくれたり、今使っているソフトについての質問をしてくれたり、それに応えるのに精一杯なのに、どこかでそれを喜んでいる僕がいて、半年前よりも3ヶ月前の僕の方が幸せで、3ヶ月前よりも今の僕の方がもっと幸せで・・・・・・」
 そこまで言って、忍は言葉を切った。
「・・・あぁ・・・・、何を言ってんだろ・・・・。すいません。わけの分からない事ばっかり言っちゃって・・・・・」
 そして、榊に一度視線を投げて、またすぐに目を反らした。忍は自分の支離滅裂な言葉を恥じているようだった。
「解らなくもないです」
 忍が振り返ると、榊の柔らかく細めた瞳とぶつかった。
「続きを聞かせて下さい」
 榊は優しく、こう付け加えた。
「だから・・・・・、つまり、確かに現状には満足してないです。でも、このままこの仕事を続けていく内に、なんとなくですけど、僕のやりたい何かが見つかるような気がするんです。僕は今の仕事を100%掴んでいるわけでもないし、100%掴んだと思えた時にその答えが見つかるような、そんな気がするんです」
 時折困りながらも、口元に笑みさえ浮かべて語る忍を榊は「眩しい」とさえ思う。

「でも、やっぱり、まだダメですね」
 肩を落とし、寂しそうに俯く忍の瞳から涙がこぼれた。
「そんな事はないです。現に私は忍くんに説明して貰ったから、あのCADが欲しくなったんですよ。今も欲しいと思っています。それに、忍くんが指導員だから、買いたいんです」
「それは、身内意識みたいなものでしょう」
 忍はこの件に関して、榊を信用する気がないらしい。
「これだけは言っておきます。たとえ身内でも、私はつまらないモノにはビタ一文だって払わない人間です」
「でも、六百五十万で買おうとなさったのは僕なんですよね」
 力説する榊への忍の反論は、あまりにも悲しすぎた。
 言った本人が傷ついたように、瞳に涙を潤ませている。
「騙すような事をしたのは謝ります。そんな悲しい事を言わないで下さい。忍くんがそんなはした金で買えるなら、8月中に買ってます」
 忍を傷つけたのは、他でもない自分だ、と自覚しながらも、榊はそんな忍を見ていられなくて抱きしめる。
「値段なんて付けられる訳がないでしょう」
 慰めになっているのかいないのか、忍は榊の胸を濡らした。
 声もなく、涙を流し続ける忍に、榊の罪悪感は大きい。
 いつしか忍は泣き疲れて眠ってしまった。
 榊はいつまでも忍を抱きしめていた。

◇◇◇◇◇

 芳しい香りが鼻孔をくすぐる。
 その朝、忍はコーヒーの香りで目を覚ました。
「ちょうど良かった」
 声の方向を伺うと、榊がトレイを片手に立っていた。
 時計は午前6時を指している。
 自宅ならば、正に二度寝のタイミングだった。
 榊のマンションから会社まで、約1時間。
 それほどゆっくりとは出来なかったが、二人で朝食を摂った。榊がいつもと変わらない事が、昨夜の出来事を夢のように思わせる。だが、そんな思いを腰のダルさが裏切っていた。
 時間に余裕のある事を確認し、シャワーを借りた。
 不思議なほどに、頭も気持ちもすっきりとしていた。
 出社の支度を整え、玄関先に出ると、榊が待っていた。
 車で送ってくれる、との申し出を忍は丁重に断った。忍が間に合って、榊が遅刻したのでは、社員の方々に申し訳がない。
 やはり、忍の頭は固かった。
「忘れ物です」
 契約書の封筒を榊は手渡そうとする。
「・・・・・・・・」
 忍は無言で契約書を榊に押しつける。
「人件費を現状維持するために、私には必要だと言っても・・・・・。どうしても売ってくれないんですか?」
「本当に必要なんですね」
 渋々封筒を受け取り、忍は玄関を出た。
 冬とは言え、朝の日差しが、まぶしい。
 下り坂を降りていると、クラクションの音がした。
 振り返ると、車の窓から榊が顔を出している。
「しのぶくん! 契約書の件、支店長には連絡しておきましたから・・・・」
 それだけ言い残して、榊は走り去っていった。
 確かに、支店長の朝はいつも早い。
「最初から、僕の許可なんて、いらなかったんじゃないか!」

 小さく見える榊の車に向かい、忍は悪態をついた。
 榊の手回しの良さに呆れ返り、忍は笑った。
 そして目を擦った指の先は涙で光っている。
 本当は榊の気持ちが嬉しかった。

 きっと、自分の状況を察してくれたのだ。

今度、差し入れでも持っていこう。
 榊の入れるコーヒーに良く合うモノを・・・・・。
 忍はそう思った。

 張りつめっぱなしの神経を和らげる事の出来る休憩場所を、忍は見つけた。
 榊と言う場所を・・・・・・。

                         おしまい

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