2000.12.13up

ブレイク・タイム 3

上郷  伊織

◇◇◇◇◇

 広々とした幹線道路。
 空は青々と澄み渡り、道路脇の歩道に一定の間隔で植えられた銀杏が明るく色付きはじめていた。
 そんな秋の訪れを告げる一本の銀杏の木の下に、白い乗用車が一台止まっていた。ボディーにはあざやかなブルーのペイントが施され、「鞄本設計総合研究社」という社名がはっきりと書かれている。
 その車内で、笠原忍は大きなため息を吐き出した。
 運転席からバックミラーをのぞき込み、車の後部、南側に見える建物を確認する。そして、もう一度忍はため息を吐いた。
 鉄筋コンクリートのそのビルには「榊設計事務所」と書かれた看板が掛かっている。
 本来ならば、これから忍の勤めている会社が発行している新聞とパンフレットを持って挨拶に向かわねばならない会社である。
 忍が建設・建築関連の総合コンサルティング業務を主にしている会社に入社して半年が過ぎていた。忍が配属されたのは営業一課システム部と言って、コンピュータのハードとソフトをセット販売する部署だ。
 今日も忍は営業の為にこうして外回りをしていた。
 現在、時刻は午後4時10分。帰社するにはあまりに中途半端な時間帯である。
 だが、車内で後ろ向きにシートにしがみついたまま、忍は榊設計事務所の看板を恨めしげに睨み続けていた。
 正直なところ、忍は榊設計事務所を避けていた。何故なら、新入社員研修を終えて入社2ヶ月目位の頃からだいたい一月に1・2度の割合で榊設計事務所を訪れてはいるが、いまだに、ただの一度として、そこの事務員さんに相手にされた事がないのである。忍が挨拶をしても、口を利いてくれるどころか振り返ってもくれない。完全無視の状態。あの、なんとも言えない、いたたまれない気分をまた味合わなければいけないのかと思うと、足は自然と榊設計事務所には向かなかった。
 確かに、忍は営業が上手いとはお世辞にも言えないし、口べたでもある。また、社交的でもない。だが、ちょっと名刺を受け取るくらい、あるいは、玄関を入ってすぐのカウンターまで歩いて来る位なら、それ程仕事の邪魔にはならないのではないかと、行く度に思ってしまう。
自分の担当地域内にある会社だから無視するわけにもいかない。せめて月に一度くらいは覗いておかなければ・・・。
「やっぱり、行くしかない!」
 自分に言い聞かせるように、勢いをつけて忍は車のエンジンを切った。

 
 車外に出て、バックミラーを覗き、手のひらで髪をなでつけ、ネクタイを締め直し、忍は姿勢も正しく榊建築設計事務所の玄関前に向かった。

 ・・・・・・ よし、いくぞ!

 心の中で自分を激励し、歩みを進める。
 ガラスの自動ドアが近付くにつれて、鼓動はドクドクと音が聞こえそうな位、高くなる。
 忍は怯えていた。
 タイミングを計り、数歩足を進めると、自動ドアが開く。
「こんにちは、日本設計総合研究社より参りました。笠原と申します。本日は・・・・・・・」
 覚悟を決めて、飛び込み営業時のお決まりの口上を始めた時だった。相変わらずの冷たい視線の事務員6人に混じって、柔らかな微笑みが視界に入った。そこで、忍の口上は停止した。
 ラフなベージュのコットンパンツに淡いグリーンのサマーセーターを上品に着こなした長身の美丈夫が近づいてくる。
「あっ、あの・・・・・、あのっ・・・・・・・」
 引き込まれるような、静かで穏やか微笑みに、自分が今、どういう立場でどこにいるのかさえ、忍は忘れてしまいそうだった。

───  笑ってる

 営業に来た先で初対面から、相手に微笑まれた経験が忍にはない。
「どういったご用件でしょうか?」
 相手が語りかけた声に、差し出す筈のパンフレットを取り落とし、忍は慌ててしゃがみ込んだ。
 深く優しい響きの低音は、いつか、どこかで聞いたような気がした。
「大丈夫ですか?」
 だが、忍の思考は中断されてしまう。
 相手の男が忍の目線までしゃがみ込んで、一緒にパンフレットを拾おうとしたからだ。
「あっ、そんな事をお客様にして頂いては・・・・」
 丁寧に断りを入れ、一人ですべてをかき集めた。
 パンフレットに刻まれた社名のロゴを視界に認め、当初の目的を思い出す。
 即座に忍が立ち上がると、相手も同じように立ち上がった。
 目の前にする男は最初の印象通り、スラリとしたモデルばりの長身だった。男の顔をまっすぐに見つめようとすると、自然と見上げる格好になった。忍の身長が170ちょっとだから、相手は180を軽く越えているだろう。
 その上、男前ときている。
 羨ましい限りである。
 そんな事を思いながら、忍は大急ぎで落としたパンフレットは鞄に収め、新しい物を名刺と共に差し出した。
「失礼致しました。日本設計総合研究社より参りました。笠原と申します。本日は当社のCADを御社にご紹介させて頂きたく、こうしてお伺い致しました。今後ともよろしくお願い致します」
 だめで元々。一息に口上を述べ、売れない営業の性とでもいうのか、忍は話を聞いて貰いたいくせに、心の中では、相手の断り文句を想像していた。
「CADですか、丁度良かった」
 敬礼を終え、覚悟を決めて顔を上げようとしている時だった。信じられない言葉を聞いたような気がして、忍はあんぐりと口を開いたまま、立ちつくす。
「はっ・・・?・・・・」
「どうぞ、お上がり下さい。上の部屋でお話をお聞きしましょう」
 パンフレットと忍の名刺を手に、相手はさっさと奥のエレベータに向かって去って行く。
 忍の聞き間違えではなかったようだ。
 半信半疑のまま、男に置き去りにされぬよう、忍が後ろをついて行くと、途中、横切る席の事務員達も意外そうに忍の姿を目で追っていた。 好奇の視線が背中に痛い。
 もしかすると、この人は課長・部長クラスだろうか?
 前を歩いていく男は、年回りからして20代後半位にしか見えない。だが、数百万単位の話を会社の中で堂々としようと言うのだから、それなりの人物でないはずがない。

 野心というものが忍の中にもあるのなら、この時、まさに忍の中に燻る鈍い火が光り出した。

このチャンスを生かすも殺すも、これからの忍自身の行動に掛かっているのだ。


 喉から手が出る程のチャンスが・・・・・・・・。

                         つづく

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