2002.07.19up

もう二度と  9

上郷  伊織

◇◇◇◇◇

 その夜、雅は風呂敷包み一つを抱えて、私の家を去ろうとしていた。
「世話になりっ放しってのは、性にあわない」
 そう言って出て行こうとする彼を上手く止めたいのに、肝心な時に限って私の口からは気の利いた言葉が出てこない。
「行かないでくれ」
 雅といられるだけで、私は幸せだったんだ。
「もう、ヘタな小細工はしないから、だから、私と暮らしてくれ」
 私はみっともなく、雅にしがみ付いた。
 豊かな白髪が蛍光灯の光に揺れてユラユラと銀色に輝いて見えた。
「誰が何と言おうと、私は雅しかいらない」
 妻も娶り、子も授かった。だが、君の事が頭から離れなかった。
 私は妻が先立つまで彼女を裏切りつづけていた。
 息子すらも裏切っている。
「雅は汚くなんかない。私の方がよっぽど汚いんだ」
 ずっと好きだった。
 ただ、それに気付けなくて、気付かない振りをして、常識に振り回され、嘘ばかり吐いてきた私と決別したいんだ。
 死ぬまでに、一度だけ私は正直になりたい。
 自分に嘘をつくのはもうたくさんなんだ。
 君を想って私が書いた文章は、図らずも私を支えてきた。
 君は知らないかもしれない。
 だけど、私は君のお陰で生きてこれたんだ。
「俺には何もできない。ただの老いさらばえた年寄りだ」
 雅は冷たく言い放つ。
「俺なんかと知り合いっていうだけでも、お前の経歴に傷がつく」
「かまわない。私だって年を取った」
 玄関から雅を奥の部屋へと戻らせた。
 無言になってしまった雅は人形のように表情を消してしまっていた。
「君の事を書いた小説で私は生きていたんだ。読者は皆、女性だと思っていたヒロインに君を重ね、いつも君なら、と想像を巡らせて書いていた」
「もっと、若い内に言えよ」
 雅の瞳に光が戻った。
「君が勝手にいなくなったんだ」
「そんな事、言ったてよ……」

「君と暮らしたいんだ」
 思い余って抱き締めた体は変わらずほっそりとしていた。

「けど、お前、こんな年寄りを抱く気になんてなれないだろ? 俺にはこの身体しかない。それも、もう不能になっちまった……。おもしろくないだろ……」
「関係ない。そんな事、出来なくたっていい」
 途端に雅の表情は曇った。
「俺が嫌なんだよ。何にもしないで食わせてもらうのが」
「……そんな」
「まあ、お前を楽しませるだけなら出来るかもしれんが……」

                         

つづく

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