2002.07.18up

もう二度と  8

上郷  伊織

◇◇◇◇◇

「で、どこまで話したかな……」
 小首を傾げながら、雅が呟く。
 年を取って、物忘れが酷くなっているようだ。
 雅は昔の事を細かく憶えているのに、ついさっき、自分が起こそうとした行動をよく忘れる。
 私も人の事は言えないが、3つも年下の癖に、雅の方が症状が酷いように思えた。
 最初にこの家に来た時、色々な衣装を揃えておいた。雅は何でもよく似合う。特にシルクのシャツが似合うと私は思うのだが、雅の目下のお気に入りは、薄いグリーンのコットンシャツのようだった。多紀さんが洗濯物を取り込む度に待ちきれないようにシャツを取りに行くので、彼の好みは分かりやすかった。
 どうやら少年の頃着ていた、女性の襦袢で作ったシャツは物資がないから着ていただけらしい。
 美鈴姉さんが作ってくれたんだ、と自慢気に着ていたあのシャツも妙に似合ってはいたのだが、今のシャツの方が上品に見えていい。
 今度はもっとコットンシャツを仕入れておこう。
 すでに雅は私の生きがいになっていた。
「満州の話がまだだったな」
 もう、雅の過去を聞かなくたって構わない。
 むしろ聞きたくないというのが、私の本音だった。


 ある日、買出しを共にしていた時、空襲にあった。
 あの日の雅を私は忘れられない。
 防空壕を見つけて、私は雅を引っ張り込み、攻撃が止むのを待とうとしていた。だが、雅は家に残してきた自分の家族を守らなければならない、と何度も外へ出て行こうとした。押さえ込むのに苦労したのを憶えている。私の腕を必死に振り解こうとする華奢な骨ばった体を、綺麗な少し茶色かかったサラサラとした髪を、顰めていてさえハッキリとした綺麗な吊り上り気味の目を、彼の汗の匂いを……。
 雅を特別な者として意識した瞬間だった。
 このまま誰の命を失う事も無く、無事に戦争が終わり、雅達が普通に暮らせる日を私は夢見ていた。
 だが、そんな日は長くは続かない。
 
 突然、雅は私の前から姿を消した。
 後から人づてに聞いた話では、満州鉄道で儲けた成金に連れて行かれたという事だった。
 なぜ、そんな金持ちが雅を連れて行ったのか……、なぜ、雅が大人しくついていったのか、その時の私には到底想像も出来なかった。

 訳が分からないままに私は志願兵になった。
 力が得られるような、そんな気がした。
 そして、雅を好きだと思いながらも何も出来ない無力な自分と決別したかった。
 大切な人を守る事も出来ない命などいらない。
 そんな力のない人間ならば、さっさと死んでしまえばいい。
 本気でそんな事を考えていた。

 どうしようもなく、私は子供だった。


「智久、なんだろ?」
 私の皺だらけの頬に細い指先が触れた。
 ボンヤリと考え事をしていた私は、いきなり触れた人肌に驚いて身を引いてしまう。
 そんな私の仕草に雅は長い睫を伏せる。
「……智久だな」
 少し枯れてしまった声が私を呼ぶ。
 雅が私の名を口にした。
「……憶えていたのか?」
 私は喜びに目を瞠った。
「忘れるわけがない」
 見たこともないような優しい、だが悲しい瞳が私を捕らえる。
 では、なぜ知らない振りをしていたんだ。
 雅の真意が読めなかった。
「忘れるわけがない。お前だけだった。育ちが良いくせに俺を馬鹿にしなかったのは……。お前だけだった。俺を心から綺麗だと言ったのは……。誰もが俺を汚いもののように見ている中で、お前だけだった」
 いつも憎まれ口をきいている雅。
 尊大な雅。
 あれは、君を守る鎧だったんだろうか……。
 
 
 戦争から戻った私は、大学へ進む為の準備をしていた。
 叔母の家に帰省すると、叔父も戻って家族が全て揃っていた。私は元々の父の家を継ぐ決意を叔父に話し、私が学生の間は叔父や叔母に家の管理をして貰い、卒業の暁には一人で移り住む約束をした。
 焼け野原の中、復興の希望だけを胸に前向きに皆が生きていこうとしていた。

 私はちょうど文章を書き始めた時期で、反米意識の高いものばかりを書いていた。
 そんな折、雅が我が家を訪ねて来た。
 満州にいる筈の雅がなぜ日本にいるのか、疑問よりも喜びの方が大きかった。
 二人で私の実家に行き、積もる話をしようと思ったが、話しているのは私ばかりで、雅の口は重かった。満州で何をしていたのか、どうして帰って来たのかを尋ねても、方法論としての事、引揚者に紛れて逃げて来たとしか雅から聞く事は出来なかった。
 雅があの成金に買われていったと知ったのは、随分と後の話だった。
 
 大学に入って、旧友達とダンスホールに行った折、男色の話になった。その時、その趣味で有名な男が満州へ少年を連れて行ったという話が出た。少年の特徴は雅そのものだった。


「聞かなくても知っているんじゃないのか……」
「……満州の話はいい」
 もう、いいんだ。
 雅が私を思い出してくれたなら、もう、取材の振りをする必要もない。
 だが、雅は話を続けた。
「あの時は、美鈴姉さんや武達に飯の心配をしなくてもいい場所を作ってやりたかった。俺達には身寄りがないから、配給も受けられない。今日、飯に有りつけても、明日があるかがわからなかった。それに、俺は学が無くて馬鹿にされたけど、武達には良い暮らしをさせてやりたかったんだ」
 満州の成金は、雅がいた売春宿の客で、雅がまだ十歳にも満たない頃からずっと目をつけていたらしかった。困った事があったら、いつでも屋敷にくるようにと言われていた雅は食料が底を尽き、戦争が激しくなって来た頃、その男を訪ねていったらしい。
 男は満州に行けば、孤児院をやっているご婦人が知り合いにいるからと、雅の家族の安全を約束した。だから、雅は自分の気持ちは二の次にして、満州に、その男と渡ったんだそうだ。
 そして、美鈴や武達が本当に安心出来る所に引き取られたのかを確認してから逃げ出した。

 あの時、雅は僅か十五歳だったのに……。
 そんな風にしか考えられなかった雅の事を思うと、鼻の奥がツンとして、私は涙を押さえきれなかった。
「そんな顔…するな……」
 悲しいのは雅なのに、私はその本人に慰められていた。
「だから、お前に話すのは嫌だったんだ」


 学生の身分でありながら、私は今で言う所の出版社に出入りするようになり、しばらくすると地方版の新聞に小さな記事を載せてもらうまでになっていた。雅は色んな仕事に勤めては辞める生活を繰り返していた。彼の手癖の悪さが災いしたのだ。
 雅は自分のやった事はやったと正直に言うし、その罰も受けていた。真面目に働くと決めてからは、置き引きなどもしなくなっていたが、物がなくなると、どこの職場でも雅のせいになっていた。そこで喧嘩を繰り返しては辞めてしまうのだ。
 時々、会ってはつまらない近況報告を話したりしていた。雅は私の学校での出来事を聞くのが好きだった。ひらがなとカタカナしか読めないからと、私のところに来ては本を読み、辞書を引き、一つ一つ漢字を憶えて行く、雅は優秀な生徒でもあった。
 そんなある日、私が憲兵に追いかけられる羽目に陥った。私の書いた記事がまずかったらしい。
 私は生活もそこそこ、逃げ出さねばならなかったが、家はあっても私のもとに現金はなかった。
 その頃、雅はやっと落ち着いて、米軍キャンプへ物資を運ぶ仕事をしていた。
 前々から引き上げの際にアメリカに行かないかと誘ってくる米兵を雅は袖にしていたが、私の為に金を調達してくれた。私は何日間かの禁固刑くらいなら受けても構わなかったのに、雅はまた私の前から姿を消す事を選んだ。
 
「雅、どうして、あの時アメリカへ行ってしまったんだ」
 私は長年の疑問を口にした。
 雅は台所へ向かい、多紀さんに紅茶を頼むと、私に向き直った。
「俺は汚れちまってるけど、お前は綺麗だったから……」
 意外な言葉に私は唖然とした。
「私のどこが綺麗なんだ……」
 雅は呆れたように首を振る。
「お前は真っ直ぐで、何にも汚れた物なんか知らなかった。俺から見たら、お前は絵に描いたような人生を歩く人間に見えたんだ。泥の一滴も落ちてもいない道を真っ直ぐ進む奴なんだから、曇っちゃいけないんだよ。あの時分は世の中が間違っていたんだ」
 そんな風に見られていたなんて、知らなかった。
「濁った水溜りに置き去りにされていた俺とは違う……」
 
 私はまた、罪深い事をしてしまった。
 口にしたくも無い事を雅に話させ、また、思い出したくも無い事を思い出させてしまったんだ。

「ま、過ぎてしまえば、そん時大騒ぎしても、あっという間だけどな……」
                         

つづく

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