2002.07.17up

もう二度と  6

上郷  伊織

◇◇◇◇◇

「旦那様! 旦那様、大変です」
 朝の柔らかな日差しの中、庭の草木を眺めながら、お茶の時間を楽しんでいる私の元に、多紀さんがはちきれんばかりの体を揺すりながら駆けてくる。実に久し振りの光景に私は頬を緩めた。我が家の長男が幼い頃のようだ。
「笑っている場合じゃございません、旦那様」
「何か消えたのかい?」
「ええ、ええ、そうですとも。銀製の蜀台が一つ消えました」
「そうか……」
 私は笑いを堪えるのに、かなり苦労した。
 これで一体いくつ目だろう……。
「……まことに申し上げ憎いのですが、……こんな事はあの方がお見えになってからなんでございますよ。旦那様からどうかやんわりとご注意をなさってくださいまし」
 やはり、多紀さんは雅を疑っていた。
「そのうち戻ってくるでしょう」
 物を取らなくても、欲しいと言うだけで手に入るという事を彼が理解すれば、自然になくなる現象なのだから……。
「旦那様ぁ!!」
 呆れた口調で、心配性の多紀さんは悲鳴を上げる。
 実直な彼女には気の毒だが慣れてもらう他なさそうだ。
「まあ、まあ、同じ物をまた揃えて置いて下さい」
 私は雅に注意を与えるつもりが毛頭なかった。

 雅を家に連れ帰ってから、既に一週間が過ぎようとしていた。
 最初、彼に健康状態を聞き、これといった問題はないとの答えが返って来た。
 一緒に住む以上、何か問題を抱えているならば、十分な治療を施したかったからだ。
 彼の起床は遅い。
 昼前、十一時頃になると起き出すのが彼の普段からの習慣だったらしい。
 拘置所の中では起床就寝も決められていたので、その件に関してだけは、あの場所に不満があったらしく、この家に移ってからの彼は満足行くまでの睡眠を楽しんでいるようだった。
 年を取ってから、やたらに朝が早くなってしまった私としては寂しい限りだが、彼がそれで健康でいられるのならば、致し方ない。
 今朝も彼は決まった時間に起き出し、洗顔したばかりの顔をタオルで拭きながらリビングへと現れる。
 そこへ、多紀さんがタイミング良く現れ、働き者の皺だらけの手を差し出すと、タオルを渡す。彼と多紀さんは、きっと多紀さんが聞けば気を悪くするかも知れないが、長年連れ添った夫婦のように息のピッタリとあった動作でやりとりしている。
 私はそんな彼等を微笑みながら眺める楽しみを一つ得て、機嫌の良い毎日を過ごす。
 遅い朝食を取る彼と早めの昼食を共に取り、建前の仕事が始まる。
 この日は、私の書斎で彼の話を聞く事となった。
 
 終戦後、彼はアメリカ将校と共に海を渡り、使用人として5年もの間海外生活をしていたらしい。ちょうど、私と離れ離れになったあの日の後の事だ。だが、彼はその間の生活について詳しく語ろうとはしない。そして、再び日本の土を踏んだが、これといって何の経験もない彼は途端に生活に困り、水商売に手を出した。
 最初はバーでボーイとして働いていたそうだが、その内、その店に出入りするヤクザと繋がりが出来て、女衒のような生活を送っていたらしい。この辺りに関しても彼の話は曖昧で、真実かどうかを見極めるのは難しい。
 この世の裏街道ばかりを歩んでいたようだ。
 確かに、雅がまっとうな生活をする事事態難しい事だったのかもしれない。

                         

つづく

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