2007.02.01up

純愛なんて知らない (3)

上郷  伊織



  ◇◇◇

 物理室を覗いていた人物は逃げるように立ち去った。
 佐伯は二郎だと言っていたし、俺も立ち去る後姿が二郎に似ていると思った。
 俺はどうしてもアレが二郎だとは信じたくなかったけど、教室でのやり取りを考えると、やっぱりあれは二郎なのだろう。
 出来る事なら消えてしまいたい。
 よりによって、あの健全な好青年が服を着ているような堅物の二郎に俺の一番醜悪な姿を見られるだなんてありえない事なんだ。
 あの後の事は良く憶えていないけど、俺はずっと放心状態だったような気がする。なんとなく憶えているのは佐伯が甲斐甲斐しく俺の体を拭いたり服を着せてくれたりしてた。会話らしい会話は無かったように思うけど、俺の意識がはっきりしたのは自宅の中だった。
 それから随分長い時間、俺は自室でボンヤリとベッドに転がって窓の外の夕日が沈んでいくのを眺めていた。
 時折、涙が頬を伝うのを他人事のように感じて。

 だけど、二郎はなぜわざわざ物理準備室に来たのだろう?
 二郎が俺に干渉する権利なんかない。
 俺は既に一度二郎に振られているんだから。
 無視してくれればいいんだ。
 そうやって俺に構っている事が俺にとっては生殺しと同じ事なのを、いい加減に悟って欲しい。二郎が駄目だから俺は一応前向きに他の人を探そうとしていたし、実際、今、俺の傍には佐伯がいてくれるのだから。

 二郎と知り合ったのは中学に入学してすぐだった。3年間クラスもクラブも同じでバスケットをやっていたのだ。中学の頃の俺たちはいつも一緒に行動してて、身長もどんぐりの背比べ。馬鹿な事ばっかり言ってふざけたり、互いの家を行き来したり。二郎に最初の彼女が出来た時もちゃんと俺に紹介してくれた。ただ、二郎と過ごせる時間が減ったから、俺は誰かとずっと一緒に過ごそうなんて思ったら相手は恋人じゃないと無理なのかも、と思っただけだった。
 それまで俺を最優先してた二郎が女の子を最優先する。それを不条理に感じたのは俺の我が侭なんだと理解するしかないのだから。女の子はズルイ。可愛くお願いしただけであっさりと俺の前から二郎をかっさらっていってしまう。クラブ活動がある日は女の子に邪魔されずに二郎との時間を過ごせるから中学はまだ救いがあった。

 俺は人よりも何かが足りないのかもしれない。
 明日はまた学校へ行かなきゃならない、でも、教室に入ればそこには必ず二郎がいる。二郎と対峙して俺はどんな顔をすればいいんだろう。冷静な表情を取り繕う自信なんかない。
 学校がこれほど嫌になる時が来るなんて……。
 休んだ方がいいのかもしれない。
 そんな風に思ったら、俺は母さんに電話していた。ずる休みする時にはいつも使う手だ。親から連絡して貰えたら教師も信用するしかないからね。
「母さん?久しぶりで悪いんだけど、俺ちょっと風邪ひいちゃったみたいで調子悪いんだ。学校にさ、2〜3日休むって連絡入れてもらえる?」
 電話口で母さんは心配しているように、「熱は?」とか「ちゃんと食べてるの?」とか聞いてくる。それに俺は「そんなに酷くないし、ちゃんと食べてるよ」と安心させるように答えて電話を切るんだ。こんな風に電話をしたって俺の母さんは帰ってこない。自分が用事がある時とか、自分の母性本能が騒いだ時しか家に帰ってこない人だから。
 俺の家は俺が2歳の時に両親が離婚していた。母さんは主婦向きの人じゃなくて外でバリバリ働く事に生きがいを感じているような女性だ。インテリアデザイナーなんて仕事をしていて小さな頃から家には家政婦が来ていた。小学校の頃は母さんも必ず家に帰ってきていたけど、俺が中学に通いだしてからはそんなに世話もいらないし仕事が忙しくなったからとオフィスの近くに別宅としてマンションを借りている。今は恋人が出来て仕事と恋と充実した毎日を送っているんだ。
 だから、夜になるとこの家には俺しかいない。
 高校に入って家政婦も俺が煩わしくなって断ってしまったから、母さんがたまに帰ってくる以外は一日中俺しかいない。

 いつもは一人が当然で、むしろ一人の方が落ち着くのに、時折、無情に一人でいるのが堪らなくなる夜がある。
 そんな時、誰かが傍にいてくれるだけでいいんだけど、そんなのは友人の誰にも頼める事じゃなかった。

 知り合って半年くらい経った頃だったかな、土曜の昼から二郎が遊びに来ていて、俺はどうしても一人になりたくなかったから、だから、帰ろうとした二郎のシャツの裾を引っ張ってしまった。意識したわけじゃなく、二郎が帰ってしまうと思ったら自然に体が動いていて本能的に引き止めた。
 その時、二郎は自宅に連絡を入れて泊まってくれたのだ。二人で一つのベッドに眠るだけ。ただそれだけで俺の心は満たされていた。こんな事を真顔で誰かに言ったならガキ臭いと言われるかもしれないし、かなり馬鹿にされるかもしれないと思っていたけど、二郎は俺を馬鹿にしたりしなかった。
 俺の家の寒々しさを知っていたからかもしれない。
 でも、二郎はその夜に言ったんだ。
「俺でよかったら時々泊まろうか?」
 その言葉は1年半程の間だけ有効だった。

 あの頃の俺はどれ程幸せだった事か。

 俺の心の中で二郎との時間は綺麗な思い出として残しておきたい。
 まっすぐで優しい奴だから。

 常識とか規則とかをやたらに気にする奴だから、もう、俺を嫌いになっちゃったかな……。
 時代に取り残された好青年は奥二重の澄み切った黒瞳を射抜くように真っ直ぐに俺に向けて眉根を寄せるのかもしれない。
 そんな風に見られたら、俺は立ち直れるのだろうか……。


つづく

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