2001.11.26up

生きてりゃこんな夜もある 8

上郷  伊織

◇◇◇◇◇


 土曜日、午後の新宿は人波でごった返していた。

 人ごみを避けるように、葵はメモで指定された場所に佇みながら、時計に目をやった。

(ほんとに大丈夫なのかなぁ・・・・・・)

 約束の時間まで、あと5分。
 心臓はドクンドクンと早鐘を打っていた。

(どうして、あの人は何もしなかったんだろう・・・・・・)

 一人でいると、思い出されるのは一柳と名乗った男の事ばかりだった。
 あの夜、一柳は葵の話を聞くだけ聞いて何も仕掛けては来なかった。

《・・・・しないの?》
《お前は客の言う通りにしていればいいんだよ。客が言って来なきゃ何もしなくていい》

 そんな風に言って、ただ、葵を抱き枕にしただけだった。
 お金を貰う事に後ろめたさを感じながら、翌日、モーニングを奢って貰って別れた。
 その時渡されたメモの場所がここだ。
 一柳の指示通り、被害者の男にも電話した。
 これからの事を考えると、葵の気持ちは沈んでいくばかりだ。
 
 
 約束の時間から5分後、携帯電話が鳴った。
 準備が完了したという合図。
 そして、更に15分後、水槽を内蔵したワンボックスタイプの黒い車両が葵の目の前に横付けされる。
「随分早かったんだね」
 善良そうな表情で遊び人風の男が声を掛けてきた。
 とうとうこの時が来てしまった。
 葵は祈る気持ちで決まった台詞を脳裏に浮かべた。
「どこで受け渡しますか?」
「そうだな・・・。とにかく乗ってよ。走りながらファミレスでも探そうか・・・・」
 カバンから封筒を見せると、男は上機嫌に車へと葵を誘う。
 
 1週間前の事、コンビニの駐車場で自転車を出そうとしている時だった。
 止めた時には2台しか停めていなかった自転車が5台に増え、その横には車が一台駐車されていた。
 注意をしながら、自分の自転車を出したつもりが、隣の自転車を倒してしまい、その先に車があったのだ。倒してしまった自転車を直していると、車から慌てた素振りで男が現れ、捲くし立てるように物凄い形相で葵の住所と電話番号を聞いてきた。
 車に自転車をぶつけたという感覚は葵にはなかったが、男は車に付いたキズを指差し、今付いたモノだと主張する。直接的に当たった訳ではないので、葵には「ぶつけていない」と断言は出来なかった。
 そうこうする内に、男は葵が車にキズを付けたと断定し、自分の携帯番号だけを残して去っていった。
 その翌日、葵への電話があり、修理費十万円を要求された。
 親に相談しようかとも思いはした。
 だが、葵の両親は離婚しており、父がまともに働かない人だったので、母に引き取られ、随分前から母子家庭だった。母は保険の勧誘員で、2LDKのアパートの家賃と生活費、それから葵の学費を稼ぐのが精一杯。とても裕福とは言えなかった。苦労している素振りを母は葵には見せなかったが、それでも葵には痛いほど分かっていた。
 小さい頃から葵に新しい服を買ってくれても、母は滅多に自分の服を買わなかった。いつも擦り切れた靴を履き、破れたりヒールが取れたりでいよいよ履けなくなってからしか靴も新調したりはしなかった。
 そんな母を見ていて、急に十万円いるから出してください、なんて葵はとても言えなかったのだ。
 
 促されるままに車に乗り込もうとした瞬間のことである。
「うちの坊ちゃんに何の用じゃ!」
 黒い横スリットのスーツに幾何学模様の派手なシャツ、真っ黒なロイド型のサングラスの男が怒鳴り込んだ。
 元々、堅気の人間には見えないのに、輪をかけて趣味の悪い格好の一柳が登場する。
 事情を知った一柳がやってみようと言ったのだ。
 もし、相手に非がなかったら大変な事になるからと葵は止めた。

《そんときゃ、俺が払ってやるさ》

 軽い口調で一柳は言った。
 あまりの酷い格好に葵は半ば呆れかえっていたが、もう一人の男はそうではなかったらしい。
 あからさまに顔を強張らせ、葵の様子を伺っている。
「巽ぃ、なんでこんなトコまで付いて来るかなぁ。もう」
 打ち合わせ通りの演技である。
「ですが、坊ちゃんに何かあったら、俺は指どころじゃ済まないんですぜ」
「先に帰ってっていったのに・・・・・」
 葵は大仰に困った素振りを見せる。
 すると、一柳は考える振りをしながら、車の側でしゃがみこみ、キズを調べだした。
 車に付いたキズは約5p幅1oといったところだ。だが、おかしな事にそのキズは錆びが付いている。
「これを坊ちゃんが1週間前に付けたって言うんだな。え!若造!」
 凄みのあるドスの効いた声で、一柳は男を睨み付けた。
「・・・・え、・・・・あ、はい! そ・・・・そうです」
 一柳の迫力に押され、男はどもる。
「1週間で見事に錆びるもんなんだなあ、兄ちゃん。ま、いい。坊ちゃんが弁償するって言うなら仕方がないが・・・・。その代わり、うちの取引がある鈑金屋まで来て貰おうか」
「・・う、うちって・・・・? ・・あの」
 葵と二人の時に見せた余裕は欠片もない。
 男はアタフタと慌て始める。
「関東竜神会じゃ」
「りゅ、りゅうじんかい!?」
 ハッタリの筈なのに、一柳はやたらと板についていて、自身満々に言い切るものだから、男は完全に信じたようだった。
「おう、そこのお方はな、次期組長じゃ」
「巽、素人さんを脅かしちゃダメだってば」
「ですが、ぼっちゃん」
 葵もすっかり調子に乗ってヤクザのボンと手下の遣り取りを楽しみだした。
「・・・す、すいません。いや、もう、弁償は・・・・・」
 震えながら男は車のキーを回す。
 だが、慌てているせいかなかなかエンジンは掛からない。
「え? だって、俺が悪いんでしょ?」
 やっとエンジンが掛かったところで、葵と一柳が車から少し離れると、そそくさと発進してしまう。
 加速も凄い勢いだった。制限時速50`の道路でいきなり80`は出ていたのではないだろうか。

「・・・・ぷっ。・・・・くっははは」
 男の豹変に思わず葵の口から笑いが漏れる。
「な、言った通りだったろ。あれは詐欺だ」
 自身満々に一柳は胸を張る。
「・・・・・うん」
 笑いながら涙が零れた。
 上手くいったのは嬉しかったのだが、何よりここ数日の緊張が一度に解けて、ホッとした。
「うん。・・・・ありがと・・・・」
「泣くヤツがあるか」
「だってさ・・・・」
 大きな手に頭をクシャっと掻き回された。
 頭を触られるのは嫌いな筈なのに、その時の葵には、何だかそれが嬉しかった。

                         

つづく

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