やいてんねん 4
上郷 伊織
◇ ◇ ◇
もうすぐ朝が来る。
昨夜からチラチラと脳みそは穣の痴態ばかりを映し出す。結局、大は一睡も出来ず、同じベッドで眠る穣がしがみ付いて来る度に、鼓動も激しく忍耐の一夜を過ごした。
確かに、昨夜は色々弄らせて頂いた。が、しかし、全く持って不本意ながら、大の息子は満足を知らぬかのように反応を示すのである。
こと穣に関しては、中坊のような自分が信じられなくなりそうだ。
(エロかった。めっちゃ、エロかった)
今も大の横では穣が浅い息を漏らしながら、静かに眠っている。人形のように整った面をこちらに向け、微笑むように薄く開いた唇が赤い。元々、薄桃色の唇は、昨夜、大が何度も吸ったせいで色を変え、少し腫れたようにふっくらと、印象すらも淫靡に見せる。
薄暗がりの部屋の中、互いの吐息と時計の音ばかりが、やたらに耳につく。壁掛け時計の示す数字は午前3時を知らせていた。
肩に掛かる穣の掌を外せば、穣の手は空を彷徨い大を探す。子供の頃からお泊りの夜は、やたら大に体を密着させて眠るのが穣の癖だった。すべらかな素肌の触れる感触が、どれ程に雄の本能を刺激するのかなど知らぬようなあどけなさが辛い。
このままでいれば、穣の寝込みを襲ってしまいそうな気さえしてくる。
昨夜、無理矢理連れ込んだ浴室で穣の身体を隅々まで磨き上げた。最初こそ抵抗を見せていたものの、途中で穣は疲れ果てたのか、ぐったりと身を任せてきた。その後、綺麗に身体の水滴を拭ってやると、ベッドに倒れ込むなり、穣は眠りに落ちた。
上掛け一枚を捲れば、すぐにでも淫らな行為に突入出来るのだ。いつまでも裸体のままにしておくから、変な気ばかり起こしそうになる。
大は煩悩の理由を一つに決め付けて、そっと起き上がる。半身に触れてくる穣の手をシーツに下ろし、絡みつく足をそっと上げる。上掛けを捲り、穣の腕の中に枕をそっと差し込んだ。
「……ん。…だい…さ…ん」
鼻に掛かるかすかな声で寝言を呟き、穣は枕を抱きしめた。
まだ、日が昇るには時間が早い。
二階のキッチンに入り、小さな窓から下界を見下ろした。大通りには、大型トラックしか見当たらない。自転車の音がする方向を見渡すと、牛乳配達の男の姿が見える。
牛乳配達が働く姿を目で追っていると、大の店舗の前を通り過ぎて行く。大はそこに居るはずのない男の姿を見つけ出した。
慌てて衣服を身につけ、財布を手に階下へと降りる。相手に気付かれぬよう、勝手口から外へ出て、店の表に移動した。
「まだ、こんなトコうろついとったんか」
痩せ型の男が店の二階を見上げている。背後から声を掛け、同時に羽交い絞めにした。男はジタバタと抗うが、大の力が大幅に上回り、抱え上げると男の足が地面から浮きあがる。
「警察行くか? お前がやった事は立派に犯罪や。それとも、大人しく一発殴られて東京に帰る。どっちがいい?」
それは、昨夜、穣を襲ったストーカーであった。
「けっ、警察も、殴られるのも…いっ、嫌です」
昨夜はチラッと見ただけだったが、大が思っていた程、陰湿な雰囲気ではない。
「何言うてんねん。お前、みっちゃんのホッペ殴ったやろ。赤なってたやんけ」
「…!……。な、殴ってなんか……。彼を拘束した時、木の側でかなり暴れられたから、その時、ぶつけたとしか……。私にあの顔を殴れるわけがない」
むしろ気の弱い小市民タイプというか……。服装はカジュアルなボトムに小洒落たジャケットとシャツを合わせ、中々センスがいい。暗闇ではサラリーマンに見えたのだが。
「こんなトコで騒いでてもなんやから。ほな、一緒に来て貰おか」
店先で騒ぐのは得策ではない。穣を起こしてしまうかもしれないし、何よりご近所の目は避けたい。
警察に突き出そうかとも思ったが、ちょっと、話を聞く必要がありそうだ。もしかすると、大人しく帰るかもしれない。漠然と大はそう思った。
公園のベンチに移動すると、男は観念したのか、大人しくなった。
「そのものズバリで行こうや。あんた、東京帰って、もう、二度とこの界隈には来んといてくれへんか」
穣の服を破いて剥いだだけでも、一発殴ってやりたい気持ちに変わりはないが、痩せ型の眼鏡を掛けたひ弱そうな男を見ていると、まるで、自分が一方的に暴力を振るうようで、いただけない。
男は俯いたまま返事もしない。
「穣かって悪いトコ無かったとは言わん。けどな、あの子かって、サラリーマンやったのに会社辞めてんで。ええ大学卒業して新卒で一流企業やってん。もう、再就職するにしても会社のレベルは落とさなあかん。そんだけのリスク考えても、あんたから離れたかったんは判らんか?」
「……相手にされてない。むしろ、嫌われてしまったのは判っています」
しょげ返った男が小さく呟くように声を落とした。
「せやったら、なんで穣に拘るん? あんだけ怖がらせたら、あんたに可能性はないやろ」
神経を逆撫でしそうな事を大ははっきりと告げる。
「でも、私は怖がらせるつもりなんてなくて、一度でいいから付き合って欲しかった。せめて、一夜の相手をしてくれるだけでよかったんですよ」
「そりゃ、穣には無理や」
頭を抱え、男は嘆く。そして、夕べ穣から聞いた通りの事情を一通り話すと、まるで、自分が一方的な被害者のような顔をする。
「にしても……。弱ってる言うても、よう、穣が誘いに乗ったな」
「…え? ああ。誘ったというか、私も落ち込んでまして、意気投合したというか……」
話によれば、穣が店に入ってから、新顔のせいもあるのか、モーションを掛けてくる男は後を経たなかったらしい。目立つ程の美形でセンスもいい。一見、遊び慣れた風に見えたらしい。このストーカー男も最初から隣に座った穣が気になっていたが、自信が無かったので声は掛けずにいたとか。すると、小一時間もしない内に、穣ががっかりした様子で『やっぱり、あかん』と呟いた。てっきり生粋の東京人と思っていた所に、ほんわかした呑気な口調の関西弁が頭に投入され、男は気が抜けたという。
関西人の大には理解しがたい事だが、確かに、穣の関西弁は妙にフワフワと柔らかい。声質と性格が滲み出ているのかもしれない。
あまりの意外性に『何が「あかん」なんですか?』と、つい質問してしまったらしい。無視されるかと男は思ったらしいのだが、穣は無視しなかったという。初めて発展場と称されるバーに足を踏み入れてはみたものの、どうも、誘いを掛けてくる人間の値踏みするような態度や、露骨にぎらぎらと飢えた態度、遊びと割り切った軽い態度についていけないと。そこで、二人は意気投合してしまった。この男もそういった雰囲気が苦手で、中々他の人間にも声を掛けられずにいたのだそうだ。
「なんや、それ」
「いや、だって本当の事ですから」
呆れる大に不服そうにストーカー男が返答する。
「話してる内に、なんとなく幸せな気分になっちゃったんですよ。間が絶妙に可愛いというか……。私もこの人といたら、いい方向に変われそうだと思ってしまって」
いい雰囲気になった所で穣をホテルに誘い、穣は大人しく付いて来たと男は言う。服を脱ぐのを逡巡したり、助けを求めるような流し目にムラムラ来た瞬間に押し倒し、唇を奪おうとした。途端に蹴られて逃げられたらしい。
「同じ男としては気の毒やとは思う」
「そうでしょう?」
可愛らしい態度を取っていた子猫ちゃんが、いきなり山猫に変貌して逃げたという事だ。正に寸止めである。
「せやけど、あれは、やりすぎやろ?」
「確かに……。でも、彼は、あの夜私に『優しいトコあんね』って言ってくれたんですよ『僕、基本的に優しい人、好き』とも。だったら、一度くらい幸せ分けてくれたっていいじゃないですか」
力説しながら立ち上がる男と、その時の穣の表情までもを想像してしまい、頭が痛くなる。
ゲイの世界では、別段、好きという感情がなくとも、性交渉をする輩は多い。そういう人間が大勢集まる所で、そういう人間に対して、気安く『好き』は言ってはならないだろう。それくらいは大にも判る。穣の発言が世慣れた風に勘違いされたのだろうという予測すらついて、頭痛は酷くなる。
「あのな? 穣のあの独特の艶とか華は生まれつきやし、それに、あの言動も天然なんやわ。素直過ぎるちゅーか、ちょっと気ぃ許したら地が出るんやわ」
「は? だって、本命とも上手くいかないって……。だったら、私だっていいでしょう」
特定の相手が穣にいない事を強調される。この男が、諦められないのはソレが一番大きな理由らしい。
「んーーー、どない言うたらわかるかな? あんた、穣の事、世慣れた子や思てへん?」
「はい?」
「信じられへんかもしれんけど、昨日まで交際経験ゼロの童貞のバージンやってんで。そら、いざとなって怖なって逃げてもおかしないやろ」
「え? えーーーっ! そんな馬鹿な!」
「俺もそう思た」
どう説明すれば諦めてくれるのか、ほとほと困り果てた挙句、昨日知ったばかりの穣の秘密を教えてやる。そうすれば、逃げられた理由も察してくれるのではないか、という算段もあった。
「アレは遊べる性格ちゃうねん」
「あのぉ。もしかして、彼の本命って……。貴方なんじゃ」
「そうみたいやわ。俺も昨日初めて聞いた」
知られて意固地になられても困るのだが、大は正直に事実を告げる。ついでに、大も閨では蹴られた事も教えてやると、男は絶句した後、大を凝視していた。
「本命でも蹴られるんですか……。でも、なんというか、羨ましい」
「そない思うんやったら、別の子探してくれ。頼むから。もう、ココで噂でも立ったら、穣の居場所が無くなってまう。最悪、この町出て行ったかて俺はかまへんけど、穣の実家はココにあんねん。こんなトコで騒ぎ起こさんといてくれ。穣が優しい言うてついて行ったんやったら、あんたきっと優しい人なんやろ? あの子見る目はあるんや。せやったらいい人見つかるって。な?」
あまり説得力は無いかもしれないが、男を慰めた。この男は穣の言葉と態度に舞い上がって、逃げられた結果、思い詰めた気持ちを自分の中で昇華出来なかっただけかもしれない。穣がキチンと話をしていれば、付き纏う事もなかったのではないか、と思えて仕方が無い。
地面の砂利を靴底で何度も擦るザリザリという音がやけに大きい。
「あんたが近づくなら俺が全力で阻止するからな。セメント詰で大阪湾に沈んでみるか?」
「え? いえいえいえ。セメントは止めてください。…かっ、帰りますから」
「そうか。悪いな」
男は狐に摘まれたように、ポカンとしていた。大の話に納得しているのかいないのか、態度がはっきりとしない。
大は留めに脅す事を忘れない。すると、やっとの事で、男は結論を口にした。
「あのぉ。殴らないんですか? さっき殴るって」
「もう、ええわ。穣の天然爆弾喰らった被害者って事で。俺も喰らいっぱなしやし。あれ、たまらんよな」
真夜中の公園、街灯の下で男が二人ため息を付く。
妙に間抜けな光景だ。
そんな風に思いながら、大は立ち上がる。
男は大に一度頭を下げ、駅に向かって歩いていく。
男の姿が見えなくなるまで、大はその場で見送った。穣を好きという気持ちはお互い違いないはずだ。大はたまたま昔馴染みで両思いになれただけなのだから。
つづく