ほう 
              地元は早い時点から方二町説


                                 富松城跡を活かすまちづくり委員会

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 富松城の規模については、尼崎市史によると「方一町」(100メートル四方)とあります。また、1996年の尼崎市埋蔵文化財調査年表では、「方一町」より広い範囲に堀と土塁がめぐらされていたことが分かっています。
                        えんじゅじ
 しかし、地元の郷土史研究家 (当時、円受寺住職) の故・橋本観誠さんは、
 (1)富松村に何故城が出来たのか。
 (2)現在確定している方一町説の全貌の疑問点。
 (3)規模構造の実態はどの様であったか。             
を、文献に記された内容や古地図、旧地名の「北垣内」や町の通称名「中之丁」「北内丁」などを総合的に考察され、1983年3月、尼崎郷土史研究会会報「みちしるべ」で「富松城考」と題して方二町(200メートル四方) 規模の城であると発表されています。 
 
 また、ある講演会では、「細川高国と細川澄元・晴元との戦いの時に、何万という大軍が攻めては追いを繰り返して (中略) 富松城は非常に重要な役割を果たしております。そんな重要な城が、方一町 という小さな規模であるわけがありません」とも言っておられました。

 既存の土塁が、城郭のどの位置に当たるかについて尼崎市教育委員会の見解との間に差異は見られますが、今後の調査によっては、橋本観誠さんの研究発表のとおり、城域は更に南と東に拡大され、富松城の規模を再考するときが来ると考えます。

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