『真夜中密事』

 『彼女』が真夜中の遊び相手を募集したとき、『彼』が立候補したのはまったく自然な話だった。
 いつもなら『彼女』も、他に声をかけるまでもなく『彼』を指名しただろう。そうしなかったのには、これまた自然な理由があった。
 今は時期がよくない。
 真顔で言われた言葉の意味は、『彼』自身が重々承知している。
 それでもなお同行を申し出たのは『彼女』が心配だったから――というのは言い訳。
 本当は、わかっている。慎重な『彼女』に手抜かりなんて、そうそう無いということくらい。
 それでもあえて心配だと主張するのは、その暴言に『彼女』が怒らないのは、多分互いにわかっているから。
 『彼女』が助けを求める相手は、『彼女』が頼りにする相手は、いつだって自分でいたいのだと。
 どんな時でも、一番でいたいのだと。

◆     ◇     ◆     ◇     ◆

 空気の汚れた都市部であろうと、満月の晩は明るい。
 ビルの屋上の縁に座りながら、篠青は真円をえがく檸檬色の天体を眺めていた。
 短い白銀の髪が月光を浴び、眩い反射で煌めいている。月と並び立つ輝きを放つ色は、生来のもの。目立たぬよう黒く染めることもあるが、今夜は地の色のままだった。黄金に似た澄んだ琥珀の瞳は、ぼんやりと月を映している。
 ラフなシャツとボトムの組合せであってさえ、月下の青年には何処か浮世離れた人ならざる気配と、気だるい厭世的な空気が漂っている。時折思い出したように動かす手に握られたマイルドセブンが、ゆったりと吐き出す煙と共に短くなっていく。それだけが一幅の絵のような構図にあって、時の経過を表していた。
 仲秋の名月とまではいかずとも、望月は鑑賞に耐え得る美しさだ。酒どころか肴も無しに月を愛でる風流な趣味は無いが、暇つぶしにはなる。視線は宙へと向かっていても、篠青の研ぎ澄まされた感覚は、視覚で窺い知れぬ隣接するビル内部の動きを探っていた。
 隣のビルの中では先程から捕り物が行われていたが、今はそれも終局へと向かっている。その戦闘に参加している椿の動静に気を配り、ありえないと思いつつも彼女に何か不具合があったら即座に飛び込めるよう身構えて、その他の面子の行動を監視する。
 物騒な獲物を持っている人間もいるようだが、不意打ちを仕掛けたのは椿だ。準備は万全であり、万事彼女の予想範囲に納まっているようだ。心配はいらないだろう。
 その上すぐ横のビルの屋上に、こんな天然掲載レーダーのみで索敵可能なイキモノが陣取っているなど、普通は考えつくまい。それ以前に普通の人間は、鉄筋コンクリートに囲まれた数十メートル先の話し声なんてわからない。しかしだからこそ、彼が此処に存在する意味がある。
 引き受けるよろず厄介事の大半が異形に絡む彼女にしては珍しい、人間社会に関わる仕事。それ故に手加減やら根回しやらで面倒も多いらしく、公に通用する証拠を集めて追い込むまでに、既に随分疲れた様子だった。自分達の才能を活かせば証拠を探し出すのは簡単でも、人様の前に出すには順当な手段で物証を入手しなくてはならない。
 それなりに用心深い者達が一堂に会するとなれば、滅多とない一網打尽の機会だが、充分な人手がないと逃亡者を出してしまう。少数精鋭で動くのが常の椿がわざわざ実家に応援を頼みに来たのは、逆説的に『取り逃がす』自信があったからであり、遠慮なく『取りこぼす』予定でいるからだ。彼女の期待を裏切るつもりはなかった。
 正直言って彼自身は、政治家とヤクザが癒着しているのも、脱税の証拠にも興味は無かったが。
 彼女の望みなら、手伝うのに否やはない。
 やがてこそこそと裏手から出てきた男を見つけ、篠青はにまりと笑った。
 単独で逃げ出したのは、スーツの優男。侵入者を迎え撃ち始末しようという思考と無縁だったおかげで、乱戦や捕縛に巻き込まれずに済んだらしい。最初から身内も助ける意志が無い――というより、他へ仲間意識が無いのだろう。
 予想通りの行動は、非常にわかりやすくて結構だ。あんな卑怯者を捕まえるだけで、椿に感謝されるなんて、雑魚に向かって心から礼を言いたいくらいである。そう、せめてもの気遣いに、なるべく痛くない方法で捕獲してあげようではないか。
 心優しい考えを浮かべつつ、音もなく屋上から飛び降りる。
 人間には不可能な技も、篠青にとっては歩くのと同じ――どころか、息をするにも等しく容易い。思えば高いところから下を見ると目眩がする感覚とやらだけは、一度も感じた覚えが無い。人が塵のように見える位置さえ、彼には危険の無い場所だ。
「――おい、そこの」
 周囲を窺いつつ歩き出した男の背後に回り、退路を確認した上で声をかける。
 この位置からなら見失う心配はない。例え逃げ出されても追いつくのは簡単だけど、さっさと決着をつけてしまいたい。早期に決着がつけば、上手くすればこの後で椿とのお楽しみが待っている……かもしれない、し。
 別に大したコトは望んでいないが、一緒にご飯を食べたりとか、一緒に家路についたりとか、それ以上もイロイロと出来るかもしれない――仕事熱心な彼女は、事後処理に駆けずり回って、自分のことなんかほったらかして忘れてしまうかもしれないけど。こんな簡単なお手伝いだけで、彼女に礼を言われるなんて夢のように都合の良い話だった。
 そう。だからこちらはある意味浮かれ気味に、怖がらせて話をこじらせるつもりは全然無く、声をかけたのだが。
 これまたある意味当然だが、相手は飛び上がって振り返ると、不審人物の出現に眼を見開いて壁に張り付いた。たいそう見苦しい有様で、哀れっぽく眦を下げ、手を合わせるようにして慈悲を請う。
「た、頼む、見逃してくれ!」
「いや〜、そういう訳には……」
「もちろん金なら払う。あんな女では出せない額の報酬を出そう!」
 計算高い言葉が洩れ出た瞬間。
 ぴくりと青年が眉間に皺を寄せたのに気付かず、男は更に言い募る。それが事態をより悪化させるなどと思いもよらず。
「……いや、そういう問題じゃなくてだな」
「あの小娘ごときに協力するより、私の側につきたまえ。あの身の程知らずは、近い内に後悔することだろ…………ぎゃっ!!?」
「――――黙れ」
 唐突に伸ばした右手で頭をわしづかむと、壁に後頭部を叩きつける。
 恐ろしくイイ音がしたのも構わず、低い声が最後通告をつきつけた。
「おまえ如きが、彼女を侮辱するとはいい度胸だ」
 話を続けるにつれ無表情になっていった相手が、好条件の検討に入ったのだと考えたのが男の間違いだ。篠青に対して椿の悪口を畳み掛けるなど、彼の基準的には救いの余地はない。
 こんな下衆な男が、悪事を働いた挙句に椿を蔑むなど、笑って流せる話ではなかった。死なぬ程度に切り裂いてやろうかという剣呑な思惑に反応して、周囲を吹く風が激しさを増す。風を使う青年の意志の揺らぎひとつで、カマイタチと化した空気は男を切り刻むだろう。
 しかし、一人だけ脱出してきただけあって、男のしぶとさは筋金入りだった。
 動機がイマイチ不純な篠青とは、やはり気合が違うのか。人生のかかった男は、この後に及んで自らの手を汚すのに、躊躇いはしない。
「……悪いが、ここで捕まるわけにはいかないんだよ」
 打ち付けられた頭は痛むだろうに早々に気を取り直し、自由に動く右腕を素早く上着の内側に差入れる。
 拘束されているから、かえって視界を遮られても篠青の位置はつかめる。男は真正面にいる青年へ向けて――取り出した、拳銃の引き金を弾いた。
 ぱんと小さな音がした途端に、前に立った青年の身体が小さくびくつく。
 あらかじめ消音器をつけていたから、銃声は轟きはしない。それでもつかんでいた腕から力が抜けて離れていくのを感じ、確かな手応えに男はほくそえむ。すぐに視界を解放された男は、浮かんでいた嘲り混じりの笑みを直後にかき消した。
 真正面から銃弾で胴体を撃たれ、即死はせずとも重傷を負って男の前に伏したはずの、青年の姿が無い。
 どこへどうやって消えたのか、唖然とする男の耳に届いたのは、むしろ面白そうな声音だった。
「――やれやれ。後で醒花に大目玉だ」
 反射的に顔を向ければ、其処にいるのは大きな白銀の獣。その腹部だけが、どす黒く濡れて汚れて見える。
 赤く縁取られた穴の開いたシャツがはらり、風に舞って翻る。まるで突然、中味が消失したかのように。
「せっかく苦労して、呪力を抑えてたってのに」
 白銀の毛皮に黒い縞。色彩こそ変わっているが誰もが見知った獣の姿。
 写真で、動物園で。干支のひとつに数えられる、古来より名も形も知られたイキモノ。
「……ト……トラ…………?」
 果たして男は肉食の獣が属する種に思い当たりつつ、違和感を覚えずにもいられない。
 成人男子の三倍を越えそうな巨躯は、一般的な虎の大きさを遥かに越える気がするし、人語を解するイキモノが、ただの獣であるはずはなく。
 そして風に飛ばされていった衣服の中味は。一瞬前までいたはずの、彼はどうしたのか。あの虎は、どうして腹から血を滴らせているのか。
 まさか、アレこそが、あの青年だというのか?
「どうしてくれる。すっかり封印が綻びて――力が有り余ってるぜ?」
 文字通り肉食獣のような、獰猛な響き宿る恫喝。
 体高すら自分を上回る相手にゆっくりと近付かれて、男は掠れた悲鳴を洩らして後退る。
 足音もなく動く獣は、確かな質量を感じさせる。理性はこんな怪現象を現実と認めるのを拒むが、その理性こそがコレは実在するモノだと告げてくる。
 檻の中にいてくれたなら、逞しくも優美な獣に惚れ惚れとしただろう。動くごとに隆起するしなやかで無駄の無い筋肉は、肉食獣ならではの危険さを秘めて。殺戮を繰り返して生きる糧を得る者の、力を正義として恥じぬ美しさ。生きて其処にいるからこその、写真や幻影ではありえない熱を帯びた存在。
 いっそ男は茫然として獣を見つめる。逃げ出すことも忘れて、立ち尽くす。蔑みと哀れみをこめて白虎が口元を歪めたが、さて獣の表情の変化を読み取れたかどうか。
 眼の端に映った白銀の残像が、胴をえぐるように打ち据えたと気付くことすら無く、男は虚空を見つめながら、ゆっくりと地面へと倒れ伏した。
 呆気なく崩れ落ちた男を眺めながら、白虎は微かに苦笑を浮かべる。
 どてっぱらに一発もらった鉛玉が貫通したおかげで、傷は血を止めただけで片付いた。
 多少内臓に傷がつこうと不都合はないし、雑菌にやられるほどヤワな体質でもない。仮にも神属に坐す青年の肉体は強靭だ。血だけ洗ってしまえば、ヘマがバレずに済むだろう。
 問題は血に染まってしまった、着てたら何かあったのが一目でわかる上着と、己が晒した本性の目撃情報をどうするか。この男が後日何か口走ろうと錯乱したで片付くと思うが、記憶操作もした方が無難だろう。その手の術は篠青の専門外なので誰か呼ぶべきだが、下手すると余計なお小言を喰らいかねないし……
 困ったなあと。
 実はあんまり困りもせずに、小さく溜息を吐く。
 やってしまったコトは仕方ないし、どうにかなると思っているから呑気なものだ。面倒臭そうな事後処理も、テキトーに済ませてしまおうか。そんないい加減な予定を立てながら、うつ伏せの男を引っくり返そうとして――近付いて来る気配に気付いた白虎は、弾かれたように顔を上げた。
 このままビル内部の捕獲物と一緒に引き上げるかと思っていた気配が、こちらに向かって来ている。
 男がメインディッシュの一切れだとするなら、当然の行動なのだが。むしろ独りだけで、人間のお仲間が来ないのは大助かりだけど。
 これは、彼女は、この状況では。
 非常にマズいのではないだろうか…………?
「――……しの」
 覚えのある声が、夜の闇を裂く。
 普段よりも低いそれは、怒りを堪えている証だ。
「…………つ、ばき?」
 うろたえた白虎は、檻の中の獣のように、うろうろと意味も無く足踏みをする。
 侵入口とは異なるビルの正面から、見慣れた人影が見慣れぬ表情で現れる。
 乱闘を予定する関係上、黒のパンツスーツの上着は脱いで、紺色のタイも緩められた姿。所々についた赤黒い染みから彼女以外の臭いがして、戦いの厳しさを物語る。
 常に冷静に己を律している娘は、人前で感情を露わにするのを無様だと考えている節があるが、今はあからさまに怒りが見てとれる。それでも問答無用で不甲斐ない青年に向かって、お仕置きを始めたりする気配は無いが、此処が半径一キロメートル内に人間がいない場所だったりしたら、無傷では済まない失態ではないだろうか。
 現れた娘はまず、虎が一気に頭からすかっと忘れていた男に近寄り、健康状態を淡々と確認した。当分は気絶から覚めないと踏んで一旦放置を決定すると、次に獣がすっとばした衣服を黙々と回収する。ボトムはともかく、血染めの上着に下着まで集められて、篠青は非常に気まずく小さく畏まっていた。精一杯身体を縮めてお座りの体勢になり、裁きの宣告が下される罪人の心境で、真っ直ぐな瞳が自分を見据えるのを待つ。
 最後に男が取り落とした拳銃を指紋がつかぬよう注意して拾い上げると、ようやく鋭い視線が虎へ向かう。
「……なんだ、その有様は」
「や、だってな、こいつがいきなり……」
 襲ってきて、ついつい本性を曝け出してしまった……のは、普段は小さな猫の姿に篭められている、魔力の封印が解けかけていた所為もあるのだが。といっても封じが更新すべき時期に来ていたのは己自身承知の上で、彼女はだからこそ助っ人を他に求めようとしたのだし、自分を頼って欲しくて無理について来たのも自分の意志なので、こんな台詞も全ては見苦しい言い訳でしか無くって。
「どうせ封印をかけ直さないと駄目な時期だったんだから、醒花も大して文句は言わないって」
 彼女が不相応に思えるほど忠実な対象を、さして煩わせることもあるまいと。
 押し殺された怒りの原因が、迂闊にさらした白き風の神の性にあると踏んだ青年は、わざと何でもないかのように、へらりとして首を傾げる。こんな獣の格好でやって、可愛らしいかは疑問だったが、人型でやるよりはむしろ、マシだろうと思いつつ。
「――違う」
 しかし椿は、短く思惑を否定する。
「油断しなければ、避けられたはずだ」
 あまりにも正論で、過ぎた今では意味のない言い草。
 それでも腹が立たぬのは、彼女が相手だからというだけでなく。告げる声が僅かに、確かに震えているからだ。素直ではない娘の、心配の裏返しである言葉。
 近付く彼女が腹へ向ける眼差しが険しいのも、傷の具合を判じているから。椿とて、篠青が銃創のひとつふたつや十や二十で、どうこうなるほど弱くないと知っているが。例えば彼女が怪我を負ったら、かすり傷だろうとも心配で、つけた原因に逆上して向かっていきたくなる己を自覚しているので無言になる。結局彼女を助けるつもりで、その身はともかく心を傷つけたのは自分なのだ。マズいヤバいと脳裏をぐるぐると空回りする言い訳。彼の表情は、男を見据えた際の冷然とした瞳とうって変わって不安定に揺れていた。
 獣を見慣れている娘なら、わかりにくい変化に気付いただろうか。篠青をこうまで簡単に揺らせるのが、自分に限られているのもわかっているのだろうか。
「もう、塞いだのか」
「――お、おう」
 間近に来て、傷を確かめるように身を屈めた娘のうなじを見つめながら、嬉しいような申し訳ないような、微妙な気分に陥る。
 溜息混じりに虎に向けられた顔は、泣くのを耐えているような憂い顔だった。恐らく、うっかりと負傷した自分の迂闊さを、助っ人を頼んだ側の不明と思って恥じているのだろう。
 そんなことはない、という気持ちを込めて、すりりと頭を胸元にすり寄せると、少しだけ笑顔が見える。篠青も気に入っている、ほっとして気を緩めた時に見せる表情。
「――帰ろう」
「ああ……あっちはいいのか?」
 尻尾の先でビルを指せば、娘は小さく肩をすくめる。実際問題、虜を尋問して裁く先までは、彼女の領分では無いのだ。後は正規の手段をもって、事態は解明されねばならぬ。本当は最後まで付き合うつもりだったが、篠青と共に姿を消しても構わないはずだ。
「ここまで協力すれば、充分だろう」
「いや、おまえが良いなら文句ないけどな」
 路上に倒れた男は、本人の仕立ての良いスーツで拘束する。妙に手慣れているのはご愛嬌。日頃の活動が窺える瞬間だ。携帯を取り出して操作したのは、どうやら仲間に脱走者の連絡をしたものか。鎮静化していた内部が動き出すのを確認するも、促してくる娘に従って、篠青は歩き出す。久しぶりの本性は、爽快な開放感がある。横には椿が並ぶとあれば、楽しさもひとしおだ。
 娘を守るかのように、傍に寄り添う白虎の姿は、やがて夜の奥へと消えていく。
 やがて椿からの一報に気付いた者達が現場に駆けつけた時、そこには少量の血と共に、汚職政治家が転がっているだけだった。


《終》