ゆるやかにねむるきおく



 夏の暑い夕暮れのことだった。
 ゆっくりと最期の一息を吐いて、老女は目を閉じた。
 枕元に座って母の死を看取った男は、静かに立ち上がる。縁側に出ると目が潤んだのは、残照の眩しさが理由ではない。
 穏やかな顔で眠った母は、しあわせだったのだろうか。父の無い子を産んで、後悔していたのではないか。ずっと聞けずにいた問いは、永遠に答を失ってしまった。
 背後では妻が震える声で嘆き、子供達が泣きじゃくっている。
 視線の先では合歓の木が、眠るように葉を閉じ始めていた。まるで、母の眠りにあわせるかのように。
 入れ替わりに命を得て、新しい花がふくらんでいく。一日限りの短い時を、精一杯に咲き誇るために。
 最期にゆるりとこうべを巡らせ、彼方に安らいだ視線を向けた母は、何を想っていたのだろう。
 遠くから物悲しい狼の鳴き声が届いて――そっと伏せた男の面に、一筋の涙が伝った。

◆        ◇        ◆

 無人の屋敷を前にして、野々内淳也は溜息を吐いた。
 何度呼び鈴を鳴らしても、反応は返らない。家の中で動く気配も感じられない。
 わざわざ京都郊外まで足を運んだのに、真神はどうやら留守らしい。今日の訪れは先日からの約束なのに、忘れられてしまったのだろうか。日頃はやたらと律儀な相手だけに、怒りよりも困惑が先に立つ。
 さほど親しくはないが、真神の基本的な性格はわかっているつもりだ。醒花よりよほど判りやすく几帳面で生真面目な彼が、理由もなしに仕事を放り出すとは考えにくい。間違っても滅多なことの無さそうな相手だが、いささか心配である。
「――どうしようか?」
「ああ……」
 振り仰げば同行者たる醒花は、鬱蒼とした木々の生えた庭先を眺めて、思索に沈んでいる。同じ方向を見やっても、少年の眼に映るのは夏の熱気に負けずに息づく木々ばかりだ。
 醒花ならば多分、家人の気配の有無がわかるだろう。ならば居ないなら、淳也が何度も呼び鈴を鳴らす前に制止すればいい。こちらも何を考えているのやら、さっぱりわからない。
 本日の目的は、真神の造った夏用の雑器の受け取り――のはずだった。
 彼は人間としての生計を、この地に構えた窯で何やら焼くことで立てている。今回の注文は山海堂から、随分前に発注したものだ。期日が遅れても即刻困る類いではないが、契約違反には違いない。
 この段階で彼に何かあったと焦るのは早いだろう。すっぽかされたと思う方が自然だ。かといって商品を求めて屋内を彷徨する訳にもいくまいし、引き返すのが妥当なところか。
 山海堂へ戻ろうと提案しかけた矢先、醒花がふと裏手へと歩き出す。
 よもや勝手口から侵入とか、そういう荒業に出るつもりかと、淳也はいささか警戒気味に男の顔を盗み見た。
 少年のバイト先の店主たるこの男は、初対面では冷静沈着な常識人に見えて、しばしば他者の度肝を抜いてくれる。世間的体裁よりも、自分にとって必要か否か――時には面白いか否かが重要な観点なのだろう。彼なら鍵明けでも塀を乗り越えるのもお手の物としても、犯罪の巻き込まれ型共犯者にはなりたくない。
 しかし見上げた男の顔は、意外なほどに真剣だった。
 かえって、厄介事の起こりそうな予感がする。
 真神や篠青と比べれば長くもない付き合いだが、常時穏やかな笑顔(にみえるモノ)を装備している男が真摯な顔をするなど、碌でもない事態に決まっている。
 煮えきらずに足の鈍る淳也を置いて、さっさと醒花は角を曲がって姿を消す。一瞬だけ躊躇したものの、少年もまたその後を追いかけた。
 まさかとは思うが、真神や醒花でも対処できない事態が起こっていたとしたら。そうなっては自分では間違いなく、ミイラを取りたがった挙句に干からびるだろうが、放ってもおけない。
 二次災害に留意しつつ歩を進めた少年が見たのは、裏庭で奇妙な形の花を咲かせた樹の下に佇む男の姿――その、不安を誘うほどに静かな眼差しだった。
「――どうしたんだ?」
 問いかけは至極当然の。
 対する応えは、謎めいた微笑みのみ。
 裏手の低い生垣の向こうに見える樹木。今を盛りと咲き誇る、薄紅と白の特徴的な花は――合歓の木のものだ。
 変わった花の形状と、夜になると閉じる葉。珍しいという程ではない、大きな木。
 そういえば花や木の多い山海堂の庭では、見かけた覚えがない。ひょっとしたら醒花は好まぬ種なのだろうか。巨木を見上げる男の顔は、妙に厳しいものだ。
「これが、彼のいない原因だろう」
「…………は?」
 唐突に言い放たれても、反応しかねる場合がある。
 醒花の言葉は、まさにそれだった。
「昨今の異常気象には参ったものだな。もう合歓の花が咲いているとは」
「……異常気象と納期放棄に、どんな関連があるんだ」
 即座に突っ込む少年の呆れ顔にも、醒花は微かに笑うだけだ。
 暑さで花の時期が狂うという報道は、桜の時期に散々聞いた。確かに例年から考えると、花が咲く時期は早いのかもしれない。けど、真神との因果関係はさっぱりだ。
「――彼は、眠れないんだろう。だから、出て行った」
「合歓の花が咲くと眠れないって……洒落にすらなってないぞ」
 らしくなく物憂げな醒花の様子が、胸を騒がせる。怒りに繋がる可能性を承知で、わざと茶化した物言いをすれば。醒花はようやくいつものように、楽しげに笑ってみせた。
「忘れられない花もあるということさ。おまえには、そんな記憶はないか?」
「俺はまだ若いし。……花が絡む思い出なんて無いなあ」
 ほっとした顔をしながらも悩む少年は、基本的に素直である。醒花が何かを誤魔化したとも承知で、それを追求しようとは思わない。面倒が嫌なのもあるし、恐らくは長すぎる過去の秘め事をほじくり返すほど悪趣味でもない。
 話題の転換に付き合って、ともかく若い頃――というより幼い頃の記憶をたどるものの、締切を破って逃走するのが許される程の記憶は無い。
「そうだな。入学式に桜が『咲いてなかった』ことは覚えてるけど」
「……なぜ?」
「単に北方過ぎたからだよ」
 津々浦々まで引越し続けた経験の持ち主は、あっさりと思い出を片付ける。
 しかし何時の記憶かという同意義で、何処の思い出かと考える少年にとっても、特定の存在によって記憶が刺激されるのは納得出来る。
 だから淳也は、醒花があっさりと帰路についたことに、それ以上何も言おうとしなかった。
 どうして真神が夜も眠れぬほどに心乱されるのかを、問おうとは思わなかった。

◆        ◇        ◆

 山中の桜は、咲いている時期は華やかに人目を引く。
 奥深いこの場所にも、昔から時折は花を目当てにやってくる人間がいたものだ。その頃は人がもう少し近くにいた気がする。けれど多くの人間が都市に集い、桜に葉ばかりが繁るこの時期に、此処を訪れる『人間』はいない。そんな桜の巨木の下で、大きな銀狼は寝そべっていた。
 いつからか、人の間で暮らすようになったけれど。
 いつからか、ヒトは遠い存在だった。
 己の子孫たる子らを見守り続けて幾年経ったのか。この山の村を去った子を追うように京へ入ってからも、既に百年を越える。
 時に人間の中で暮らすのが億劫になると、真神は此処に戻って来る。遥かな昔、自分が本能に拠って生きる獣だった頃から縄張りである場所。たとえば彼女を思い出して心揺れるとき、その逆に彼女を思い出したいときにも。
 此処は彼女が眠る場所であり、彼女と出会った場所だ。刹那の邂逅の、全てが詰まっている。かつてと変化のない真神の外見と同じく、内に秘めたる想いも風化することはない。
 うつらうつらと、微睡み初めてどれくらいが過ぎたのか。
 数日という短さではないが、一月と経ってはいまい。幸か不幸か食餌無しでもしばらく不都合のない身体では、時の経過は図りがたい。その間も痛みは鋭く追憶の合間に胸を突き、真神を安らぎから遠ざけていた。
 故に客の訪れは、不在が心配になる程に時間が経った表れかもしれない。
「……何をしに来た」
 聞くまでもない問いかけをぶつけた後で、久しぶりに瞼を開く。
 その金色の瞳が捉えたのは、思った通りの顔だった。いや――人ならざる色彩をまとう姿は、今や却って見慣れない。
 あえて人としてではなく、大神の友として現れたのか。隠そうとしない獣の気配は、群れなして生きる種の真神に、ある意味での落ち着きをもたらした。これは馴染んだ仲間の気配には違いない。
「そうだな、つまりは――催促に」
 微笑みながら告げられた言葉に、少しだけきまり悪げに沈黙する。促されるままに人の容を取ったのは、感情に溺れて約束を放り出した罪悪感からだ。
「……ほとんどは居間の隅に、箱に入れて置いてある」
「そんなことだと思ったが、勝手に侵入もできないだろう」
 肩をすくめる醒花は、その気になれば住居の不法侵入も容易い。が、一応はモラルだとか遠慮だとかいうモノが存在するので、家主不在の友人宅から依頼品の持ち出しは致しかねた。独りになりたくて山にこもった友に会いに来る、絶好の口実でもあったし。
 多分放っておいたらこの大神は、心乱したが終わってもずっと……下手をすれば年単位での長い時間を、孤独の内に微睡み続けるだろう。それは、酷く切ない光景だ。
「せっかくだ、付き合ってくれ」
「――肴は無いぞ」
「それもまた、いいだろうよ」
 隣に腰をおろすと、持参した徳利の中味を注いだ猪口を大神に押し付ける。無表情なまま神妙に受け取った真神は、黙ってそれを口に含むと――わずかに顔をしかめた。
 酒精に混じる、仄かな甘味と微かな香りは覚えのある花のもの。よりにもよってと言いたくなるが、彼らしいとも言える選択。
「――合歓の花や樹皮は、精神の安定をもたらすとして薬用に用いられる」
「それは、知っているが……」
 安楽に効果ある調合であろうと、亡き妻を偲ぶ真神を知っていて、合歓に寄せる想いをわかっていて選ぶには、いささか趣味が悪い。まあ、別に腹が立つほどでもないから、彼の見立ては正しいのかもしれない。思うよすがを引きずっていても、酒は確かに美味かったから。
「おまえに安寧をもたらすには、相応しいかと思ってね」
「……そうかもしれんな」
 だが、と真神は呟く。
 自分は辛くて苦しいから、忘れたくて此処へ来たのではない。此処に在るのは哀しみだけでなく、求めるのはむしろその逆だ。
 彼女を今でも覚えている。永遠に覚えている。二度と戻らぬと知って、それでも忘れようとは思わない。消失は確かに痛みでもあるが、たった一瞬の逢瀬は全てを賭けるに相応しいほど、甘やかな想いに満ちていた。幾度も思い出しては、それだけで安らげるくらいに。
「今でもおまえは、しあわせか?」
「――ああ」
「そうか…………」
 ならば良い、と。
 微笑む旧友は、心からそう思ってくれているのだろう。
 失ったものへの嘆きは、かつて得たものへの愛着である。大切だったからこそ、忘れることができない。そして愛しい相手を覚えているから、永遠に満たされていられる。永い永い妖の寿命の残りを、独りではないと思っていられる。
 彼女が死んだときも、あの花が咲いていた。
 静かに眠りへといざなうように、夜の中で一日限りの花を開き、闇から逃れるように葉を閉じて。
 彼女が死んだときを、あの花は見つめていた。
 出会い、愛し合った日から最期まで、再びまみえることのなかった愛しい女を、じっと見つめていた。まるで真神に代わるように、すぐ傍にたたずんでいた。
 乗り越えて、前を見よと忠告する者もいる。愚かなことだと、忘れてしまえば楽だろうと、呆れる者もいた。だが、この想いを捨ててしまわねばならぬ理由が何処にある。彼女ほど愛しいものは、これだけ生きても他には現れない。
 ――ああ、確かに。この想いを引きずりながら酔うのに、これほど相応しい酒は他にない。
 永遠に忘れられぬ絆に縛られたまま、合歓の根元でゆるゆると、永い時の果てへと朽ちていくのも悪くない。
 春は遠く過ぎたというのに、まるで花天月地のごとく世界は穏やかで満ち足りている。
 夜に眠る合歓の樹は、安らかな眠りを運んでくれる。 
 傍らには友が在り、胸には愛しい女の記憶を抱き。
 小さく欠伸をした獣は、その根元でひととき優しい夢を見ながら眼を閉じる。
 久しぶりに、良い心地で眠れそうだった。

◆        ◇        ◆

 夏の暑い昼のことだった。
 家族や村人と共に母を見送り、男はようやく家に戻って来た。
 未だしなくてはならぬことは多く、並外れて丈夫な男も疲れきっていた。一時の休息を求めて母の寝所であった部屋に入り、深々と溜息を吐く。閉め切られていた部屋の暑さが不快で、薄暗さに再び住人の不在を思い知らされる。
 せめてもの明るさと涼を求め、庭に面した障子を開く。そこで男は、予想外の光景に凍りついた。
 庭に立っていたのは、ひとりの男。今が盛りの合歓の木を見上げながら、動かない影。
 髪は長い銀色の、裳裾の長い衣をまとう。垣間見える端正な横顔には、幾つもの刺青。それはまるで、古の貴人のごとき。
 今まで見たことがない男だった。
 一度でも見れば忘れられぬ異相の、美しい異形のイキモノだった。
 怪しいとしか言い様も無いのに、誰何の声を上げる気になれなかったのは――わかったからだ。
 彼が『誰』なのか。一目見ただけで、それを確信する。血が騒ぎ、魂が訴える。
 やがて異形と視線が交わる。一瞬のようで、永遠のごとく長くも思えた沈黙の内に、彼は何を得たのだろう。彼は微塵も表情を動かさず、身を翻した。
 思わず声を上げた男を振り返っても、言葉は無く。眼差しに確かに宿る哀しみに、何も言えなくなる。黙り込む間にその姿は霞むように消え失せ、銀色の巨きな大神が顕れた。
 そうして一声。息子の心を震わせる太い声を残して。
 獣はゆっくり、山へと還っていった。

《終》