夜に歩く |
大都会の夜、繁華街の路地裏は、他にも増して暗い闇に満ちている。 表通りが華やかに明るく美しいほど、その裏は際立って影が深い。そこには数多の苦悶と絶望が落ちている。僅かに残る喜びさえ色褪せて煤けているのは、気のせいではあるまい。 ビルの隙間を生暖かい風がすり抜けていく。 不吉の予兆であるかのように、ひゅるりりと泣き声に似た風音が響く。妙に人の心を騒がせるそれが治まった時、いつのまにか其処には、幼女が独り佇んでいた。 赤いオーバーオールと、大きすぎて顔の半面を隠す青い鳥打帽。擦りきれたそれの下に在る顔は、まだ五、六歳くらいだろうか。こんな処に保護者も無しにいていい年頃ではない。 その口元が、奇妙に大人びた曲線を描いたのは、影に沈む生物を見つけたときだった。 飲食店の裏口近く、薄汚れた白い軽自動車のボンネットに、寝そべる黒い猫。視線を感じたのか、金色の鋭い眼差しが、子供の顔をしっかりと捕らえる。 互いに相手を認め合い、微かな殺気が混じり合って、弾けずに霧散する。 「やあ、黒猫。お久しぶり」 「……こんなとこで何してやがる、チビガキ」 口汚い獣を咎めるように、轟と風が吹く。 くるくるとゴミを巻き上げた旋風は、しかし少しも黒猫の毛並みを乱すことはなかった。 ビロードのように艶やかな光沢のある、漆黒の毛並み。ぴんと立った尻尾。煌めき輝く金色の瞳は、力強い意志に満ちている。そして、獣が人語を解する驚きは、当然のように少女には存在しない。 「そっちこそ、なんだってこんな所にいるんだい?」 「……ヒトのことは放っておけよ。おまえは近頃、ずいぶん羽振りが良いらしいけどな」 「別に、そんなことはないけど」 華やかな都市の裏側のうらびれた道で、孤独に耐える己の身を、歯痒く思ってはいるのか。むっとして言い募る黒猫は、子供を軽く睨む。 「幾つか面白い話を聞いたぜ。青い帽子の子供が、ニンゲンをさらってくってな」 「攫ったわけじゃ、ないんだけどね」 くすくす笑う子供は、幼さが表に見て取れるだけに禍々しさが倍増する。 愛らしい子供の素振りと、からかうような口振り。しかし微かに覗いた幼女の瞳は、どろりと虚ろに濁っている。そんな明らかな異端を知るだけに、素直に稚さを見るのは難しい。 「――ひょっとして、おねえさんと喧嘩でもしたのかい」 「……誰に向かって、そんな口を利いてやがる」 投げつけられた少しばかり笑みを含んだ言葉に、黒猫は顕著な反応を示した。図星、だったのかもしれない。逆鱗に触れたという訳か。 底冷えのする言葉と共に、刺すような視線が少女を貫く。凍てつく眼差しはそのまま圧力となって、少女へと吹きつけられた。 圧倒的な霊威の差に、微かに少女の身が強張る。 見掛けは小さな猫に過ぎないが、この獣の本質はそんなものではない。 気高くも力強い、畏れられるべき存在。少女とは比べ物にならぬ格の差があるのだ。普段がどれほど情けなく、気安く見えてはいても、こんな瞬間にそれを実感する。 「さっさと行けよ。ここにはお前が望むモノも、お前を呼ぶモノも無いぜ」 「……そうするよ」 子供の返事を聞くまでも無く、黒猫は背を向けて目を閉じる。そこに宿る静かだが確かな拒絶に、少女は黙って鳥打帽を引き下げると、身を翻す。小さなその身体を庇うかのように、路地裏を吹き抜けた風が轟と音を響かせた。淋しい幼子を宥めるように。 そこから少女への慰めを感じ取って、黒猫は小さく舌打ちを洩らした。無関係な子供に八つ当たりするつもりは無かったのだ。自分と『彼女』との諍いは、夜に潜む幼女には関わりがないこと。 「――――おい」 小さく、しかし明らかな少女への呼びかけ。 振り返った子供の顔を見て、身を起こした黒猫は微かにたじろいた。それは勿論、異相への恐怖や嫌悪ではない。ギョロリとして死人に似た目の奥に、切なげな色を感じたからだ。 「……またな」 別れと共に再会を約する言葉に、少女は口元にほんのちょっと笑みを浮かべる。 やがて再び突風が轟と吹き抜けた後には、その姿はなく。 異形の残り香は、何一つ見当たりはしなかった。 「――また、何処かの夜で会おう」 ぼそりとした呟きを残して。 軽やかに地面へ飛び降りた黒猫もまた、ゆっくりと夜の中へと歩き出す。 後には、ただ夜の静寂だけが残されていた。 |
《終》 |