『飼い犬』


 昔から、我が子ながら変わった子供ではあった。
 唐突にとんでもないコトを言い出したり、虚空を見つめてぶつぶつと喋っていたり。
 ずばりヘンな子供だったのだが、各地を転々とする内に他人との距離の取り方を聡く学習したらしい息子は、いつしか「普通に目立たず」を主義とする優等生に育っていった。 
 高校生にもなると親の転勤につき合わせてもいられず、夫は単身赴任を始めた。共働きの上に自分も出張の多い仕事であり、しばしば夫の元へ泊まったりもして、半ば以上独り暮らしをさせている。それでも非行に走るほどの可愛げも意欲もない辺り、手のかからない子供ではある。何かあっても、いわゆる「うちの子に限って」と言うのも無理な放置っぷりだと自覚はあったから、恐る恐るかかってきたおねだりの電話は、内心では嬉しかったりもしたし、律儀なことだと感心もした。
「もしもの話なんだけど……犬を、預かってもいいかな」
「預かってってのはなに? 飼いたいってこと?」
「…………うん、そう」
 息子は幼い頃を自然豊かな地方で暮らしたためか、小さいのから大きいのまでやたらと動物大好きではあった。というより、異様なほど動物に好かれる傾向があり、それも『ヘンなところ』の一部かと疑わしいくらいだった。しかし引越し続きで借家暮らしの生活では、動物は飼えないと理解している聞き分けの良い子供でもあった。
 捨て猫の前でじっと座り込んでいたのを見かけた我が子が、夕方遅くに家に帰って来たときに何も連れていない姿は、ほっとすると同時にそう感じた己が情けなかったものだ。
 彼が今住んでいるマンションは、ペット飼育可であるし、しっかりした子だから問題は無いと思う。それでもやけに煮え切らない口調に、不審さを覚えずにいられない。
「ご飯だってタダじゃないんだし、ちゃんと世話できるか財布とも相談した?」
「あ〜……それは本来の飼い主と話はついてる。手間はかからないし……むしろ俺の方が世話に……いや、ちゃんと世話出来るから」
 別に餌代くらい出すつもりだったが、あえてカマをかけてみれば、やはり自力で飼うつもりらしい。
自己責任と言って放置するには、まだまだ子供のはずなのに。頼られぬのはこれまでの実績ゆえだろうが、親として寂しくもある。だが、本当に自分で連れてきたからというだけだろうか?
 ごにょごにょと語尾を濁す態度は、ちょっと怪しい。何かマズい点があるのだと、母親の勘が告げる。こっちだって伊達に十数年子育てして来た訳ではないのだ。多少なら誤魔化されても良いけど、彼が口ごもるのはきっと相当なネタだ。それも自分達に迷惑がかかる可能性がある類だろう。
 さて問題は飼い主か、それとも。
「ちゃんとトイレの躾は出来てる仔?」
「………………トイレ?」
 生き物を飼うならさほど難しい質問でもないだろうに、妙に長い沈黙が返る。
 耳をすませば電話の向こうで、トイレってどうするんだろうと尋ねる声。どうやら傍に誰かいるらしい。基本から入ったつもりが、意外な展開だ。溜まり場になるのを嫌う息子は、友人を家に連れてくることがあまり無い。というか、トイレもどうするか知らないのでは困る。
「飼い主さんが、そこにいるの?」
「え、いないけど……」
 他に聞く相手などいないと思ったのに、すぐに返る反射的な即答。不思議そうな返事に嘘はない。どうして飼い主の存在を疑ったのかわかっていないのだ。ならばいったい?
「じゃあ、誰がいるの?」
「それは犬が…………いるん、だけど」
 これまた即刻返答がなされた後。
 しーんと、電話越しにイロイロなものが詰め込まれた沈黙は、痛いほどだった。ぼそぼそと小さく消えていった言葉が、いっそ聞こえなければよかったのに。
「…………犬と、話してたの?」
「あ。いや、その……」
「淳くん――ナニを飼うって言った?」
「…………………………犬を」
 いささか長い沈黙の後で、我が子はきっぱり先程と同じ答を返してくる。ソレに思うところが無かったとは言わないが。ああまったくもって言わないけれど。
「…………いいんだけどね、うん。独りは淋しいだろうし、犬がいるのもいいんじゃない?」
「う……うん。ちゃんと世話するし」
 話をうやむやに済ませようという態度は、さすがは親子というべきか息の合ったものだ。
 むしろ世話をするのはこちらですと。向こうから声が聞こえたのも幻聴だ、きっと。
 我知らず虚ろな笑みを浮かべながらも、思い切りよく話を切り上げることにする。


 電話を切って考える。
 果たして愛しい息子は、我が家にナニを連れ込んだのだろう。
 ソレは、本当に犬なのだろうか。
 もしもの話だが、もっと違うモノだったらどうしよう?