『店主不在につき』



 薄い雲に覆われて、夜空に月は望めない。
 夜風は涼しいが、まだ寒くはない。
 静かな夜に、虫の音だけが響いている。


「――ああ、いい夜だ」


 男は広い庭がよく見える、縁側に陣取っていた。


 山海堂の十月の庭は少し寂しい。
 紅葉にはまだ早く、花の香りも絶えて。
 虫達の鳴く声だけが、彩りを添えている。
 枯れた景色も風情があるものだ。侘びしさが募るのは秋の気配だけが原因ではない。
 毎年のことだがこの月は、山海堂に店主が不在なのである。
 常に清浄に保たれた一帯の空気に異変はない。穏やかに静かに、揺るぎない霊威は満ちたままだ。
 それでも楽しげに笑う男の姿が見えないことは、微かなる不安を誘った。
「―――つかさ様。ささの用意はこちらに」
「ああ、済まんな」
「いいえ。どうかほどほどになさってお休み下さい。呼んで下さればすぐに参りますので」
 夕餉を終え、いつもは醒花と二人で座す縁側に、独りきりで腰を下ろす。
 佐保がいつの間にか奥からあらわれ、そっとつかさの横に膝をつく。
 酒とあてを用意した女は、腕白ないたずらっ子を見る眼差しで良人を眺めた。
 彼は時に、どれだけ叱っても聞く耳を持たない子供のようだ。
 そこまでする必要は無いと醒花は笑うのに、毎年この期間は山海堂に詰めている。
 そして毎夜、縁側で独り酒を嗜む。
 それが神無月の間中の、穐月つかさの習慣だった。



「もうし、よろしいでしょうか…………」
 しんしんと夜が更ける中、庭先から低い声が響いた。
 やがて闇を背負うようにして、体躯たくましい男が現れる
「先日、こちらのご主人に棲家を追われた息子の便宜を図って頂いたと伺いまして……」
「――――ああ」
 すぐに頷いたのは、現れた大男に似た気配に覚えがあったからだ。
 比べられぬほどに小柄で、同じように強い妖気を感じさせたイキモノ。
 醒花と共に、棲家を汚した人間を襲おうとするソレを諌めたのは、先月の話だったか。
 すったもんだの挙句、結局ソレは醒花の薦めた人間のまばらな地へと去って行ったはずである。
「これは心ばかりのお礼にございます……」
 差し出されたのは小さな風呂敷包み。その中からごそごそと何かが蠢く音が聞こえてくるのは、非常に気になる点であった。悪意があるとは思わないが、後ほど中味を確認する必要があるだろう。
 そもそもナマモノなら鮮度が重要である。
 なにしろ店主が帰宅するまで、まだかなりの時間がかかる。
「わざわざ起こし頂くとは恐縮です。しかしただいま当家の主人は不在でして」
 人の容をとるのにも、慣れていないのか。
 雲の奥から洩れる月の薄明かりに照らされた影は、ゆらりゆうらりと不自然に歪む。
 洩れてくるのは瘴気にも似た冷気。害を及ぼさぬよう抑えているのだろうが、周辺の草木がみるみる弱り始めたのを見て、内心で眉をひそめる。 
「――直接お目にかかれぬのは残念ですが、人の地に長居は出来ぬ身。これにておいとまさせて頂きましょう」
「申し訳ありませんな。戻り次第、必ず伝えさせて頂きます」
「よろしゅうに……」
 のたりと一礼しながら、唇が耳の下まで裂けて吊り上る。
 あれはひょっとして微笑んだつもりなのかと、気が付いたのは男が身を翻した後のことだった。



「―――なにか、御用かな?」
 ざわざわと竹の揺れる音が響く。
 庭の奥へと声をかけると、随分と長い間こちらを窺っていた影は、ようやく近付いて来た。
「ゴ主人ハ、ドチラニオラレル………」
 やけに細長い身体。かすれてひび割れた小さな声。ざりざりと岩をこするような音は、発声器官そのものが人とは異なるためだろうか。もちろんその程度では、つかさは動じたりはしない。
「神無月の間、あるじは不在だ。用があるなら代わって承ろう」
「用件……用件ハ………コレダアアアアッ!」
 本性を顕しながら牙を剥いて飛び掛ってきたのは、身の丈が大人の五倍はある大蛇だった。胴回りもつかさの五人分はあるとんでもない太さで、縁側に座ったままの男を一飲みにしようと鎌首を急降下させる。だが屋敷の奥から白光が一閃すると、蛇の頭は地に落とされ、長い肢体は二度三度ほどのたくったかと思うと力を失った。
 はあ、と溜息がこぼされる。
 いつのまにか、つかさの隣に刀を下げて立つ佐保が洩らしたものだ。
「呼んで下さいと申し上げたのに……」
「済まん済まん。いきなりだったからなあ」
 悪びれることなく笑う男は、つと懐に入れていた右手を外気にさらす。そこに握られていた紙切れを、まるで手遊びのようにゆらり揺らした刹那。
 首だけになった大蛇がカッと目を光らせながら宙を飛び、再び襲い掛かって来る。
 しかし毒牙は二人に届くことなく、つかさの手元の紙から発せられた雷撃によって阻まれた。残されたのは、黒く焦げて妙に香ばしい臭いを放つ物体。
「……まさに蒲焼だな」
「召し上がるおつもりですか?」
 呆れた気配を滲ませた妻女は、それでも頼めば大蛇を調理してみせるだろう。
 たとえば先年、カボチャのお化けを美味しく食卓に並べた時のように。
 少しの間考えた男は、笑いながら佐保に何事か囁く。
 応えて彼女は微かに目元を和ませて、頷くと奥へと戻って行った。



 ふと、夜空を見る。
 秋の澄んだ藍色の空。
 ぽっかりと浮かぶ檸檬色の月。


「ああ……いい夜だな」


 庭先に残る巨体の影を気にも留めず、男は穏やかに微笑んだ。


《終》