バレンタインの誤り




 その日の学校帰り、淳也はいつものように山海堂に顔を見せた。
 今日は祝祭日ではないが、ちょっぴり特別な日ではある。とはいってもバイト先では意味が無い。何しろ一人で店を切り盛りしている醒花は男性だ。
 訪れたのは放課後の、いつも通りの時間で、これだけなら全く普段と変わらない。
 しかし珍しいことに、店には醒花だけでなく佐保と椿の姿もあった。
 店主がいるのは当然ながら、佐保と椿とは珍しい組合せだ。それぞれ専用の湯呑みを手にして、くつろいだ様子で腰を下ろしている。平然と正座を続ける彼女らを見ていると、慣れとは素晴らしいと感心するしかない。彼自身は正座して十分と持たない気がする。そして背後に揺らめく影が人間とは異なる歪みを見せるのに違和感を覚えながら、まるで動じずにいる自分に気付く。ああ本当に、慣れとは恐ろしい。
 佐保と椿は、双方とも外見は二十代前半の女性だ。恐らくそう見えるだけ、なのだろうけど。佐保の方が幾つか年長に見えるが、醒花の養い子である椿へはいつも敬語を崩さない。彼女は本来、醒花に使役される眷属なのだという。椿からは姉のようであっても、彼女からすれば主筋であるらしい。
 とはいってもその会話は、互いの親しさに裏打ちされたものだ。この二名が揃うのが珍しいのは、佐保は朝早くから訪れて家事雑用をしていくことが多いのに対して、椿が姿を見せるのは大抵昼を過ぎて夕方に近いから。関係自体は至って良好である。
「甘い匂いがするな」
「……鼻が良いなあ」
 ぺこりと挨拶を送ったところへ、醒花から声がかかる。肩から下げたカバンを見下ろしながら、淳也は感心して笑った。袋に入った上に、包装された菓子の香りを嗅ぎわけるとは、妖ならではといったところか。
 今日は日本の学生なら、知らぬ者を探すのも難しいイベント当日だ。学校で女友達から渡された小さな包みを、少年は素直に嬉しく思う。深い意味は無くても、そこに宿る好意が喜ばしい。
 そして淳也の視線は、男の手元に吸い寄せられる。膝に置かれた皿の上には、甘く香る菓子が乗っていた。普段の醒花はさほど菓子を好まないが、今日ばかりはソレは特別な意味を持つ。口にとろける甘味には、密やかな想いが隠されている。
「ひょっとして、お二人が作ったんですか?」
「ああ、さきほど」
「あなたの分も包んであるのですが、こちらで召し上がられますか?」
「――ありがとうございます、頂きます」
 二人の言葉に頷いた少年へと、そっと椿が薄紅色の包みを差し出す。可愛らしいラッピングは、どちらの手によるのか。
「にしてもコレ、山海堂の台所で作ったんですか」
「ええ、なにか?」
「いや……大変じゃないのかなあと」
 山海堂には、基本的に電気もガスも水道も通っていない……のだと思う。
 暗くなれば灯りが点くし、風呂場も湯が使えるのだが、その仕組みは謎だ。メーターも水道管も見当たらないだけに、あまり追求したくない。そんな有様の台所は、江戸時代辺りから進歩していない設備しか備えていない。あそこでお菓子を調理するのは――例えば火加減なんかは大変面倒ではないだろうか。淳也なんかはまず火を熾すのに手間取るから、独りきりでは簡単な料理でさえ膨大な時間がかかる。そしてつい伏見を呼び出しては、周囲(の一部)に精神的圧迫を振りまいてしまうのだ。本来は戦闘専門の式神が料理を手伝う図は、とてつもなく恐ろしく思えるらしい(一部限定)。 
「自宅で作ればいいんじゃ――あっちは一応、台所とか現代風じゃないですか」
 それぞれ現世に暮らす者達は、ふっと顔を見合わせた後で悟りあったように首を振った。
「篠青に見られたらと思うと、落ち着かない」
「私も花屋敷でつかさ様に見られるのは、いささか問題ある気がしまして」
「……内緒にしときたいとか?」
 思わず視線が醒花へ流れる。彼にバレるのは構わないのだろうか。
「――贈り物を目の前で制作するのは、無粋だろう」
「私はつかさ様にはお渡ししませんので、あまり見られたくないのです」
「………なんで、あげないんですか」
 椿のむすりとした表情は、照れがあるのかと微笑ましく見過ごすとして。もうひとつ、聞き捨てならぬコトを耳にしなかっただろうか。穐月と佐保は堂々とちゃんとした、仲睦まじい『夫婦』だと思っていたのだが、違ったのだろうか。
 コワい答えが返ってきたらどうしよう。ちょっぴり怯えながらも恐る恐る尋ねても、佐保自身は何ら問題を感じていないらしく、柔らかな表情を崩さない。代わりに――といってはなんだが、笑い出したのは醒花の方だった。
 耐えられずに噴出して、笑い続ける姿は珍しい。しかし一体何がツボにはまったのか、さっぱりわからなかった。
「……つかさ様は以前、バレンタインがさほど世間で浸透していなかった時分に、うっかり勘違いされていた事項がありまして」
「彼の好みを考えると、とても『らしい』発想だったがな」
「あの方があれほど惚けたのを見たのは、この話くらいですよ」
 妻の説明に、親子がざくざくと突っ込む。そこには笑みが浮かんでいたが、種類は全く正反対だ。醒花は心底楽しげに、椿は呆れた苦笑いである。
「……お前達の前では格好をつけているが、彼は意外と抜けたところもあるからな」
 最も付き合いの長い男は、ささやかな悪戯気分に後押しされて、人の悪い笑顔になった。



*      *      *      *      *      *



「――どうも近頃、この時期の街中は騒がしいとおもわんか」
 今は昔、如月に入ったばかりの頃だったはずだ。
 既に洋装が一般的にはなっていたが、その日も二人は共に和装だった。防寒という点からは洋服も捨てがたいと、そんな馬鹿な話をしていた覚えもある。ただし二人は外気温に対して非常に耐久性の高い肉体を所持しているが。
 問題の会話は、醒花とつかさが連れ立って市中を歩いていた時に行われた。
 今となっては、二人で外出した本来の用件ははっきりしない。すっかり記憶から抜け落ちてしまっている。それくらいに続く事態は他愛なくも衝撃的だった。
 騒がしいというよりは、ピンク色や赤色に可愛らしく染まった店の飾り付けを見て、つかさは不思議そうに小首を傾げた。ハートマークの乱舞する店先に集まっているのは見事に女性ばかり。その光景がなにゆえか、本気でわからないのだろうかと、横にいた醒花はしばしの沈黙後に事実の確認を測った。
「……おまえ、バレンタインというものを知ってるか?」
「ん? ああ、それくらいは知っている。なかなか美味いらしいな」
「美味いのかもしれんが……私は甘味が強すぎて、どうもな」
 どうやら、最低限はわかって言っているらしいと、小さく息を吐く。
 この友はどうも常識の範囲が偏っていて、意外なネタを知らなかったりするから油断できない。
「勿体無いことを。余っているなら、幾らでも手伝ってやるぞ」
「そうはいってもなあ、あれを頂けるのは好意の表れだ。他人に手伝って貰うのは失礼だろう」
「好意……なのか。中元や歳暮なら、挨拶程度の意味だろうに。気持ちだけ受け取れば充分だと思うぞ。好きな者に消費された方が、されがいがあるというものだ」
 どこまでも堂々とした態度だったが、下心が透けて見えては言葉の威力も半減である。
「おまえ……それはちょっと無神経だぞ。女性の気持ちを蔑ろにするつもりか」
「女性!? おまえ、女性からしか貰ってないのか。モテる奴とは思っていたが……」
「……そりゃあな。男からでは、さすがに受け取るのを躊躇するよ」
 貰ったことがないかはともかく、彼は基本的に同性からのご好意は丁重にお断りしている。
「傲慢な奴だな。それこそ『気持ち』だろうに。腐るものでもないんだから、有り難く頂け。受け取らん方が余程礼を失しておる」
「そりゃ、比較的長持ちはするだろうけどな……時にはきっちりと気持ちを伝えるのも大事だと思う」
 生殺しはよくない。まるでその気が無いのに気をもたせるのは卑怯ではないだろうか。そもそも嫌なのに下手に気を持たせては、後の大惨事に繋がる。色恋沙汰というのが、刃傷沙汰に発展したとき最も対処に困る類いであろう。もつれた感情には理屈が通じない。
「――どうしても嫌なら、それこそ手伝ってやるぞ?」
「手伝いって……まさか贈り主の排除をか?」
 だからといって、嫌な相手を即座に始末するつもりなんか無い。仮にも好意を向けてくれた相手を、『だから』二人で廃棄などとはあんまりだろう。
「違う! 頂きモノの始末の方だ。我々が飲み明かせば、一晩で五升は軽いだろう」
「…………………ちょっとまて。何の話をしている?」
「ああ? おまえが、中元か歳暮か知らんが、人様の好意を性差別しとるという話じゃなかったのか?」
「…………………………………………何か誤解が無いか?」
 会話の内容が、どこかおかしい。
 齟齬を感じた醒花は、あっけらかんとしたつかさを怪訝な顔で見つめた。
「いや誤解も何も。酒を呉れるというんだから、有り難く貰っときゃいいだろう」
「――は?」
「だからウイスキーが余っとるんだろう? 独りで淋しく楽しまんでも、私が付き合ってやろうと言って――」
「――――――――――それは、バランタインだ!!」
 世間にいまだバレンタインデーというイベントが浸透していなかった時分の、他愛なくも趣味のわかる勘違いである。非常にらしいといえば、穐月らしい間違い方でもある。
 ぐらりとする意識を引きとめ、醒花は場所柄も考えずに力一杯絶叫した。
 珍しい逆上ぶりにぽかんとした穐月が、内容を吟味して顔を赤くしたのもまた滅多とないことであり、事態が面白おかしく身内に喧伝されたのも当然の一幕だった。



◆        ◆        ◆



「当時はもう少し、人間との関わりも多かったから……私は受け取る機会があったんだよ」
 ただし穐月の方は、女性からチョコレートを貰った経験が無かったと、そういう話。
「……にしても、穐月さんて天然っていうか、マジボケってやつか?」
「冗談には聞こえなかったな」
 今ほどは店先前面にチョコレートその他が押し出されることは無かった時代の笑い話だ。
 つい笑ってしまいながらも、醒花は仕方なかったと理解を示す――笑いながらだったが。
「……いつ頃の話だよ、それ」
「ふたむかしは前になるな。おまえは生まれていない頃だ」
「あ、そ……穐月さんらしい勘違いとは言えるかもな」
 特徴を述べる際に、酒好きの一言は特記すべき人物である。本人は否定するが、淳也の前での頻度だけでも相当なものだ。
「……それで、穐月さんへの贈り物はソレなのか」
「ええ」
 あっさりと首肯した佐保には、まるっきり他意はない。その傍にあるのは、華やかなラッピングの洋酒である。
 彼女にあるのは、穐月なら菓子よりも酒の方が喜ぶだろうと思う、純粋な好意だけだ。
 現在では、甘いものが苦手な男性へと用意されるアイテムは様々である。それこそ酒もあるし、花なんてのもある。本命のみならず義理チョコや友チョコなんて、新しい分野もどんどん定着していっている。
 この国においては、結局は基本的にバレンタインディはお祭騒ぎであり――そうでしかない。深刻な土壌から発生したイベントでは無いのだ。お菓子業界の陰謀だという声は、事実を含むだけに消えることはない。聖バレンタインという聖者が何をしたかを知る者の方が少なかろう。
「ですので、つかさ様には毎年洋酒をお贈りしています。他の方々はお菓子で良いと仰られますので、チョコレートを用意させて頂いております」
「…………まあ、気持ちが大事なんでしょうしね」
「ええ。心を込めるのが大切だというので、他の方々の分は手作りしている訳です」
「そうですか………………」
 素人に酒を美味しく手作りしろとはいえないし、確かに穐月は大の酒好きである。否定する者など、親しい仲には誰一人いないに違いない――が、しかし。自分が彼の立場だったとしてその心理を考えると、ソレで本当に満足しているのかは微妙に思える。
 どう言ったものか、余計なお節介だろうかと頭を悩ます少年を見て、女性陣は不思議そうに顔を見合わせる。唯一の男性である醒花は、淳也の危惧を察しているのだろうに何も言い出そうとはしない。彼の親友(?)への態度は、妙に屈折している。
「ところが自宅で菓子を作っていると、つかさが覗くのが気になるんだそうだ。だから此処を使えばいいと言っている」
 くすくすと笑う醒花は、ひたすら楽しそうである。それは、恐らく悪友のかつてのボケた発言がそうさせるのではない。
 人の悪い微笑みは、醒花が旧き悪友に対しては頻繁に向ける表情だ。悪戯好きの子供にも似て、悪意は存在しない――けれど油断は禁物な笑顔。
 自分の妻が台所でチョコを作っていたら、幾ら高い洋酒を貰ったとしても、その行方が気にはなるだろうなあと……浮気とかそういう疑いの有る無しでなく、気にならなかったらダメだろうと。
 飄々としている穐月の意外――でもない弱点は、やっぱりこの女性だったのかと。
 椿が絡むと途端に身も心もよろめきまくる黒猫を思い出しつつ、それはそれで今日という日に相応しい結論かと納得し。
 篠青が大人気なくも、淳也と椿が会話していた直後に見せる言動やら行動やらを思い出して、いささか背筋に冷たいものを感じる。
 実は篠青よりもずっと性格悪そうで、遥かに要領の良さそうな穐月に、自分が食べ損ねた逸品を口にしただろうと睨まれるのは遠慮したい。義理チョコとして貰う側にとっては、ソレはあくまでも普遍的な好意の象徴でしかないのだから。
 そもそもこの始まりは何年前になるのだろう。一言、佐保に頼んだならば簡単に解決する事態に思えるのだが、その一言が言えぬままにどれほどの年月が重ねられて来たのか。その間の重みを考えると恐ろしくも――哀しくもなってくる。
「……穐月さんにも、酒だけでなくチョコを贈ったらどうでしょうか」
 自分が突っ込むべきではない。そんな理性の囁きを耳にしながらも、淳也は力無く呟かずにはいられなかった。



《終》