長月・月と酒と




 秋の夜長。
 陽は素早く傾き、東の空に月が姿を見せる頃。
 真円に程近い銀盤が、穏やかに柔らかく世界を照らしている。
 北条椿が山海堂を訪れたのは、そんな宵の刻だった。
 まだ時折は暑さが堪える真夏日もあるが、暮れるのはめっきり早くなった。常宵小路には市町村が設置する街路灯などは無いから、辺りは余計に黒々と沈んで見える。一部の屋敷前に外灯が点いているものの、肝心の山海堂は暗く静まり返っていた。
 山海堂店主は、闇をも見通す瞳を持っている。故に彼は夜の暗がりを照らす必要はない。しかし店を開けている間は、さすがに看板の前には小さな電球が点いているはずだ。
 予告無しの訪問だから仕方ないのだが、どうやら早々に店じまいしてしまったらしい。
 明かりの無い店内には、全く人の気配がない。しばらく迷うようにその場に佇んだ娘は、すぐに踵を返すと店の裏手へと歩き始めた。そちらに住人達の私的な空間があることを、彼女は熟知していたのである。


 庭を囲み竹林へと消えていく生垣は、色づき始めている。
 低い木戸を開けて中に入れば、そこはすっかり秋の気配を漂わせていた。
 庭園というより草原と、もしくは森とすら呼びたくなる鬱蒼とした庭は、彼女の密かなお気に入りだった。今では道端で見るのも少なくなった名も無き草が、そこかしこに伸び伸びと生えている。それだけではなく、季節の花々に加えて薬草や毒草が競い合って繁茂しており、素人はともかく知識ある者ならば、持ち主の人格を疑う有様だ。
 一瞥して僅かに目元を和ませた娘は、後者ではあるが家主と親しき関係でもある。今更それらに呆れたりはしない。たとえば以前に訪れた時と比べて、樹木の背丈があまりに急激に成長している気がしても。
 紅葉には早い木々の間を抜けて進み、屋敷の縁側が見えた時、娘は足を止めて丁寧に一礼した。視線の先で縁側に座る男は、刹那は驚きに目を見張りながらも笑顔で目礼を返す。
 娘がこの屋敷に姿を現すのは珍しい。しかし彼女は何時如何なる時でも、歓迎される存在なのだ。

*     *     *

 久方ぶりに会う娘は元気そうだったが、冷静さという仮面を被っているように見えた。
 なので穐月つかさはちょっとした悪戯心でもって、ちょっとした言葉を投げかけてみる。彼女の平常心を、少しでも崩そうと目論んで。
「篠青は、ここにはおらんぞ」
「……でしょうね。先程、居間に転がっていましたから」
 近付くなりの男の言葉にも、娘は微かに眉を顰めただけだった。
 淡々と応えた娘へと、面白がるような男の視線が向けられるが、表情がはっきり揺らぐことはない。それがどうしたと言わんばかりに。
「あなたこそ、どうしてこちらにおいでです。ご自宅に居辛い理由でもあるのですか」
「馬鹿を言うな。私は夫婦喧嘩の果てに追い出された訳ではないぞ」
「――しのと違って、ですか」
 相変わらずの声音ながら、嫌味のお返しかと頬を引きつらせた男は――相手の表情から、全然そんなつもりは無いとみて溜め息を吐く。いっそ友人が哀れですらあった。
 追い出されたと嘆き、行き場が無いと泣きながら、黒猫が山海堂や男の自宅に現れる回数は非常に多い。つまりそれは頻発する眼前の娘との諍いの結果なのだが、その割に彼女の『温度』が常に一定なのも事実だ。
 学術その他の師匠として、男は娘から相当の尊崇を勝ち得ている。
 様々な諸条件の重なった結果、義父にあたる醒花より懐かれているくらいだが、二人の関係については、幾度の助言でも改善される気配はなかった。
 元より彼女は、仕事においては沈着冷静に事態の収拾に当たるが、縁者と過ごす日常ではむしろ激情を垣間見せる。彼に関してここまで冷静さを保つのが、却って恐ろしい。単に、他人の恋路に口出しする野暮は慎むべきなのかもしれないが。
「――あれ、椿さん。こんばんは」
 隣を勧める機すら失った男と娘の間には、何とも言い難い気まずい沈黙が腰を落ち着けていた。
 それを破ったのは、屋敷の奥から盆を持って現れた少年だ。青年期との境目にあり、不安定ながらも伸びやかな思春期を過ごす勤労者。既に娘とも顔を見知った仲である。
「久しぶりだね、野々内くん」
 互いに微笑みあった二人は、何となくうまが合うらしく良好な関係だ。逆説的には、彼と篠青の仲が微妙に緊張する(こともある)原因とも言える。勿論彼女達の間にあるのは、そういう甘やかな名のつく類の感情ではない。
 よって少年は微笑んだまま、純粋な好意によって知己へと告げる。
「今日は篠青さんは来てませんけど」
「…………私は、そんなにいつでも彼の後を追いまわしているように見えるのか?」
 はっはっはっと男が大笑いを始める中、娘はいささか悩ましげに溜息を吐いた。

*     *     *

 穐月氏はかなりの笑い上戸であるらしい。
 野々内淳也にとって新たな発見だったが、意外ではあまりなかった。よって辛抱強く彼の大笑いが収まるまで立っていた娘に、慣れているなあと感心しつつも同情する。それよりまずは申し訳なく思う。爆笑の原因は、少年の一言だったから。
「――それでは本題は何なのだね?」
 男がようやく弟子に向かって問いかけると、散々に笑いの肴にされた娘は、それでも怒りは見せずに左手に下げていた荷を持ち直した。
「どうぞ、こちらを」
 差し出されたのは、酒――どうやら、ワインのようだ。
 この屋敷の食卓では、供されるのを見た覚えがない酒種。特に嫌いとも聞いていないが、洋酒自体が珍しい印象はある。
「おや、どういう風の吹き回しだ?」
「そうですね――まあ、敬老の日も近いですし」
 あくまでも平静な娘の言葉に、男の顔がいささか引きつった。
 密かに相当な歳を経ているのが事実でも、老人扱いは嫌とみた。
「……私は、おまえの義父と同世代だぞ? それで敬老というのはあんまりだろう」
「冗談ですよ、仕事先からの単なる土産です。たまにはと思いまして」
 小さく肩を竦める仕草。実は意趣返しをしようと考えるくらい腹立たしかったのか。
 彼女は師が大酒呑みであるのを快く思っていない節がある。なので土産が酒なのは、確かに珍しい。
「本当に敬老精神があるなら、酒が土産というのはどうかと思いますしね」
 言いながらため息を吐く娘は、わくわくと目を輝かせた男を横目に、呆れた様子を隠そうともしないかった。
 実際のところ、彼は酒の過多では身体を損なわない。この屋敷に出入りする中で、肝臓を気にする必要がある生物は淳也を含めたごく少数だ、が。
「何を言う、酒は百薬の長というのだぞ!」
「適量を守れば、なんじゃないのか?」
「一日に碗一杯で充分だと聞きますが」
 咄嗟に反論する男へと、揃って向けられた二対の視線は限りなく冷たい。もっとも娘の方は、自分が酒を持参した手前、すぐ諦めたように吐息を漏らす。
「あんたはいつだって思う存分飲んだくれてるじゃないか、そもそも……」
 少年は尚もぶつぶつ文句を呟いていたが、男はそれ以上は何も応じない。返す言葉がないからなのか、土産という実利を既に取った以上、口論の必要がないからか。
「……望月にはまだ早いでしょうに、もう其れですか」
 彼女が指し示した先には、少年が運んできた盆がある。その上にあるのは明らかに、月見酒の用意で、答など押して知るべしというところだった。

*     *     *

 薄い雲間から、限りなく満月に似た月が覗く。
 思い思いに縁側に腰掛ける影は、いつしか四つに増えていた。
 手渡された瓶に書かれた横文字をたどりながら、醒花は少し首を傾げる。
「それにしても、おまえが酒を持って来るのは珍しいな」
 しかも洋酒は初めてではないかと。
 笑う男は純粋に不思議がる様子だったが、娘は申し訳無さそうな顔になる。
「もう少しずれれば菊花酒を探したのですが、いささか時期を外してしまったようです」
 本当は、もっと以前に仕事の片がつくはずだったのにと。
 困り顔の弟子に対して、師がまあまあと宥めに入る。他人行儀な娘の態度に、義父は微かに苦笑を浮かべた。
「――にしても、九九年のものか」
「ええ。せめて九を重ねてみようかと思いまして」
 交わされる言葉は、あまりに自然に前提を踏まえたものだ。何が重なるのか少年にはさっぱりわからないようで、物言いたげな顔をする。
「もうそんな時期かね」
「いえ、今年はまだ大分ありますが…………」
「だろうなあ、まだ一ヶ月ばかりあるだろう」
「間が悪いのは承知しております。本日つかさ様がおいでとは、知らなかったもので」
「…………うむ」
 遠まわしな存在の拒絶に、師は曖昧な表情となった。どう応えたものか流石に困惑したらしい。
「――確かに、私や淳也だけなら、来月の重陽まで酒を置いておけばいいことだからな。おまえが揃っているとなると、すぐに消費されてしまうだろうが」
「あのな。人を酒狂いのように言うな」
「狂いというか……アルコール中毒じゃないのか。ひょっとして燃料を酒に切り替えたか?」
「誰がだ!!」 
 年長者がひとしきり漫才を行う姿を、娘と少年は礼儀正しく沈黙して見守った。正しくは、突っ込む気すら起きないと言うだけかもしれない。
「椿さん、重陽の節句って今月の九日じゃないんですか?」
「そう。未だというのは、旧暦においてだ」
「そりゃ……七夕とかは旧暦でやる地方もあるけど」
「確かに重九の意味を考えれば、新暦で行う方が字義は正しいかもしれない。私が旧暦を数えてしまうのは、職業病のようなものなので」
「おまえはそうだろうなあ。私はあんまり気にならないが」
「……つかさ様はそうでしょうね」
 ぼそりと「性格的に」と付け加えたのは、嫌味なのか率直な感想なのか。
 ここの師弟関係もどこか妙だ。そして少年は、どんな職種だと暦を数える癖がつくのか、検討もつかない様子である。
「あのさ……いや…………ジュウクってのは?」
「九を重ねる。古来、大陸においては奇数を『陽数』といい、陽数の極みの九が重なる九月九日を『重陽』と呼んで、特別にめでたい日と定めていたんだ」
「ああ、それで『重陽』の節句なのか」
 ただし少年としては、名前を聞いた程度の記憶しかない節句らしい。何処から酒に繋がるのか、いまいち分かっていない顔だ。
「別名を菊の節句とも言って、長寿を願って菊酒を飲んだりするのは、今でも行われているだろう。しかしワインではなあ、温め酒という訳にもいかんな」
「申し訳ありません。燗に向く酒がなかったもので」
「ワインを温めるとは、あまり聞かんな。しかし縁起を担いだ心持も大切だが、やはり酒は味が一番。美味いならそれが何よりだ」
 弟子には微笑みながらも、少年に向かう視線が怪しく細められ、口元に人の悪い笑みが浮かぶ。
「重陽の節句にぬる燗にして飲む酒を、温め酒と呼んだりもするのだが、いずれにせよ長寿を祈り病を防ぐに効果あるという代物だ。せっかくだからおまえもどうだ?」
「俺は、未成年なんだけど。そもそも今日は重陽と関係ないだろ…………?」
 少年が吐く深い深い溜め息には、底知れぬ苦悩がつまっている。
 彼としても、飲酒に全く興味がないお年頃ではないのだろうが、男達に付き合うと、アルコール中毒で病院に担ぎ込まれる己の姿が幻視されるという。
「うむ。春ならば七草を探して来いとでもいうところだがな」
「秋の七草でも、この庭なら見つかるんじゃないか? 粥を食べるのは構わないけど」
「なんだと?」
「だって、七草粥も本来は、災いを避けるとか長寿を得るとかいう縁起物じゃなかったか?」
 多量の酒を飲まされるよりは、健康的な話だと言いたいらしい。しかし伝統行事に詳しい他三名は、呆気にとられたように少年を見つめる。
「……ひょっとして、本気で言っているのか?」
「本気……だけど。なにか?」
 恐る恐る応じた台詞に、しばし縁側に秋風が吹きぬける。そろそろ夜風は肌寒い。
「まさしくおまえさんも、最近の若い者だな!」
「近頃の常識とは、そんなものなのか…………」
 笑われ、懊悩されて、少年は縋るような眼差しを雇い主に向ける。見つめられ、こちらも微妙に呆れ顔だった男は肩を竦めて口を開いた。
「月見の絵で、団子の横に描かれることが多いのが秋の七草だ。鑑賞用の花が多く、薬草としては使えるが、粥にする習慣はあまり耳にしないな」
「そういやなんか花が供えてある絵が多いような……」
「ちなみに、秋の七草が『何』かはわかるんだろうな」
 そこで再びうっと詰まった少年に向けて、店主はにっこりと微笑んだ。まるっきり裏など無さそうで――それ故に人の悪い笑顔である。淳也が『わからない』のを承知した上で言葉を続ける。それは言うなれば、些細な悪戯であり、ちょっとした知識を得る為の試練。
「仲秋の名月には団子と七草を供えるのが伝統というものだ。せっかくだから、七草はおまえに探してきてもらおうか。ああ、当日までで構わないぞ」
 指差したのは、鬱蒼として暗闇に沈む眼前の庭。灯りの無いそこが、何故か見た目以上に広く深い場所であるのは、少年も嫌というほど実体験済みだ。夜に踏み入りたいとは決して思うまい。
 しかし。意外にも彼は黙って考え込んだ。とりあえず断ると言う選択肢を捨てた辺りにも、慣れというものが感じられはする。
 今夜の内に秋の七草を調べるのは可能だろうが、明日の放課後に独りで庭を彷徨ったとして、彼だけで七種の全てを見つけ出せるだろうか。七草の紹介はあっても、探し方までわかるだろうか。それらをどう判断するか、男達は興味深く動静を見つめる。
 空の月が満ちるまでの時間は、あと僅かしかない。
「――椿さん」
「…………わかった」
 訴えるような視線を受けて、皆まで言わせず娘は立ち上がる。今日ならば、人の好い協力者がいると、その判断は非常に正しい。
 彼女の師が笑いながらすかさず差し出したのは、和紙で出来た提灯。その内へとひとりでに、青白い炎が宿る。
「どうも手間を取らせて済みません」
「いや、行こう」
 最早そんな不思議はどうでもよくなったらしい少年と娘は、夜の庭へ――深き森へと進んで行く。彼等の仲が良好な一因には、同種の苦労をしている相手だという親近感があるのかもしれない。他人事のように店主は思う。
 ゆらゆらと揺れる青いひかりは、しばらくの間ただひとつの標として庭を照らしていた。



《終》

2006/5/25改稿