葉月・迷子 |
八月に入って京都はますます暑く、淳也はますますヒマだった。暑さに誰もがダレてくる中、袈裟を着た人影が妙に忙しそうに飛び回るのが、この時節の風物詩である。 店に客がいなければ自由にしていて構わないと、店主からのお墨付きが出た結果、宿題も大半が片付いてしまった。基本的に淳也は、面倒事はさっさと済ませる主義だ。大量の宿題も八月の中旬以降まで持ち越した記憶がない。 静かで邪魔が入らず広い場所のある山海堂は、読書感想文だろうが自由研究だろうが、行うに最適の場所といえる。店主から怪しげな専門書やら感動的な名作を幾つか借り受け、一日に一冊のペースで読み終えては、ぶつぶつと感想を述べ論じる。妙な蔵書が多い醒花の書架は、この上なく興味深い宝の山だ。普段はふざけてばかりいる(ようにみえる)男が、膨大な知識量と深い洞察力を持つ存在だと、こんな時に実感する。どこからともなく引っ張り出された道具も、学校の化学室では比べ物にならない充実ぶりで、科学と相容れぬはずの存在の底知れなさを証明していた。 そしてなにより、淳也が山海堂に入り浸る理由は、快適な環境にある。 クーラーも扇風機も見当たらない店内は、如何なる手段によってか、とても涼しい。効き過ぎた冷房の肌寒さとは無縁の、心地良い室温。仕掛けの謎は、あえて問いたださないでおくが。 「――いっそ此処に住んじまえば、面倒もないだろうによ」 けらけらと笑いながら言い出したのは、金色の虹彩が妖しく輝く青年だ。否、青年のカタチを取った別の何か。今は人に似た形をしているが、大抵は黒い猫の姿で現れる。最近お見限りなのは、毛皮が暑いのかもしれない。 「馬鹿なことを言うな、しの」 「バカってのはないだろ。コイツがここに居着いてるのは事実じゃねえか」 店主に口答える彼の肢体は、だらりと冷たい畳の上で寝そべっている。猫ならともかく、長身の男性のカタチでやられると正直鬱陶しい。 「そういう篠青さんだって店に居座ってるじゃないか。帰る場所あるんだろ?」 そこはかとなくムカついて問い返せば、予想以上にひるんだ相手は露骨に視線を逸らした。この青年の弱味は、どうやら家族にあるらしい。誰もが言葉を濁すので、詳しい事情は聞き出せていない。恐ろしくて聞けないが。 「そっとしといてやれ……帰りたくても、帰れない奴もいるんだ」 「ち、ちがっ…………そう、家は暑いんだ! ここの方が快適なんだよ」 「それはそうだろうけどさあ」 醒花の静かだが辛辣な言葉は、ざくざくと突き刺さっている様子だ。聞きながら、つい視線に哀れみが混じってしまう。 「だから別に、帰れない訳じゃないって!」 「――しの。冷や汗が出てるぞ」 「そんなに焦らなくてもいいだろうに……よっぽどやましいことでもあるのか?」 「――ちがうって言ってるだろうがっ!」 わっとばかりにつかみ掛かられ、淳也は楽しく悲鳴を上げながらもがいた。互いに半ば遊びだとわかっているから、気楽なものだ。 その動きが停止したのは、篠青の手にぶつかって外れた淳也の眼鏡が、大きく弧を描いて店の入口近くまで飛んでいったから。 思わず力の抜けた篠青の下から這い出した淳也は、わざとらしい溜め息を洩らしながら眼鏡を拾いに戸口まで出る。景気よく飛んだが、幸いにも壊れてはいない。最近のレンズは硝子ではないから、そう簡単には割れない。 興は削がれたものの、怒ることでもない。ちょっと神妙な様子の青年に笑いかけ、傍に戻ろうとした瞬間――くい、と服が引っ張られる感覚に動きが止まる。 何事かと見下ろした淳也の目に飛び込んで来たのは、淳也の膝ほどまでしかない、小さな子供だった。 「…………こんなところで、どうしたんだ?」 「おまえ、自分の勤め先をこんなところはないだろう」 「だってここは――」 微妙に淳也が口ごもるのは、この山海堂が在る小路は普通に歩いたのでは到達不可能だと、身をもって知っているからだ。 求める者のために現れ、彷徨う者をいざなう通りに迷い込むには、幼い子供はあまりに不似合いだった。 |
* * * |
「ここはおまえの来るような場所じゃないぜ、チビ」 「……もうちょっと穏やかな言い方は出来ないのか、あんたは」 冷たく、というより呆れたように言い放つ青年へと突っ込む。幼児相手になんて言い草だ。つられて自分も柄が悪くなりそうだと呟きつつ、淳也は膝までしかない少年の前に膝まづいた。 「何処から来たんだ? お母さんかお父さんは一緒じゃないのか?」 「………………ぼくひとり」 淳也としては至極順当に思える言葉をかけてみるが。 途端に相手が目を潤ませたのを見て、思わず腰が引ける。 年少の兄弟が無く、子供好きでもない高校男子としては、幼児に泣かれては為す術もない。助けを求めて背後を振り返れば、篠青は元より醒花までが、妙に複雑そうな読みにくい表情で沈黙している。救いの手は、差し伸べられそうに無い。 野々内淳也は比較的他人と関わりあうのを嫌う人種である。余計なモノが頻繁に見える彼は、故に他人と親しく交わるのを忌避している。 それでも泣きじゃくる幼児にしがみつかれては、それを振りほどける性格ではない。 頭のどこかで、コレは厄介事になると囁く声がしたものの、突き放すのは早々に諦めてしまう。まだしも己を知っているのだ。もう関わるしか仕様がないと。 相手はせいぜい幼稚園児か小学校の低学年。この年頃は、ほんの数ヶ月で驚くほど個体差が出るが、幸いにも彼は、意思疎通が可能な程には成熟している様子だった。 「ウチがわかんないんだ……ここ、どこ?」 「迷子なのか?」 子供の面倒など見たことがないので、内心かなり動揺していた淳也は、こっそり安堵の息を吐く。泣かれるのは本当に困るのだ。どうしたらいいか全くわからない。 迷子なのだ、と主張されれば、対処の仕様もあるというもの。会話も成り立たずに泣き続けられたらどうしようかと、最初は非常にコワかった。 「おまえの家は何処なのか、住所を言えるか?」 「あのね、コウベってどっち……?」 「――神戸?」 鸚鵡返しに繰り返しながら、脳内で時間を計算する。 ここ京都から電車を使って神戸に出るまで、二時間とはかからない。しかし、幼稚園児に道を伝えて放り出すには、あまりに目的地は遠い。 「みんなはちゃんと標識があるっていうんだ。けど、ぼくにはよくわからなくって……」 「標識ねえ……」 ひらがなも読めなさそうな子供では、標識も何もあったものでは無いだろうに。皆とやらも相当無責任である。というか、保護者は何処だ。ひとりと言うが、ここまでどうやって来たのだろう。普通なら、親がはぐれた近辺を探し回っていそうである。 一番楽なのは、近所の警察に届けることだろうが、気が進まなかった。子供は淳也にすがるような視線を向けているし、妖しげな店でバイトしだしてから、官憲に関わるのがマズい気がしてならない。別に犯罪行為は行っていないが、京都にいる理由を聞かれると返事に詰まる。 「―――――小学生以下は、電車賃無料だったっけ?」 自分ひとりなら、多少遠出するくらいの財布の余裕はある。 情けは人の為ならず、いずれは己にかえるもの、と言うことだし。 「…………来いよ。家まで連れてってやる」 差し出した手に、子供は嬉しそうにつかまった。 溜め息混じりに仕方がないかと、立ち上がった淳也は店内の二人に子供を送っていくと告げる。彼としては当然の帰結だったが、意外にも二人は顔を見合わせ目と目で何かを会話したようだった。 「……別に暇だし、店番は良いだろ?」 「そーいうことじゃ無いんだけどさあ。おまえ、わかってるか?」 「やめろ、しの。淳也が送りたいならそれでいいだろう」 「………………何が言いたいんだ?」 そこはかとない嫌な雰囲気を感じたものの、二人は肩を竦めるばかりである。 何か有る、と。絶対の確信は得るものの、其れが何なのかは不明だった。少なくとも危険が伴うものでは無いと判断し、問いただすのは諦める。口を閉ざすと決めた際に、醒花から秘密を聞き出すのは至難の技だ。少なくとも淳也は、今まで成功した例がない。 知らずとも良いと思ったからこそ、黙っているのだろうから。 |
* * * |
電車に乗ってしまえば、京都から兵庫までは一時間程度だ。 切符代のいらないお子様は大喜びで、道案内を追い越す勢いである。 改札口を切符無しで駆け抜けていく子供を、必死に追いかける。周囲の視線が痛いが、なりふり構ってはいられない。幾らタダとはいえ、大人がついているから子供が無料となるのだ。意地でも一緒に改札を通る。 はっきりいって、道がわからないと言う態度ではない。子供のパワーに激しく負け気味である。こんなときに淳也は、自分は既に『子供』ではないと思う。子供は風の子だとか、外で元気に遊んで来いだとか……そんな言葉で表される『お子様』とは、生きる力が有り余っている世代にかける台詞だ。 「じゅんやくん、いっしょに来てくれてありがとね」 電車内でおとなしく席についたのを見て、内心胸を撫で下ろす。 今まで公共の場で騒ぐ子供を見ると、静かにさせて欲しいと思ったりしたが。 バケモノじみた活力を有するイキモノの制御は、大人には不可能ではないだろうか。もしも自分に子供が出来たとして、非常に元気がいいお子さまだったら手に負えないだろうなあと、暗澹たる気分になる。当面そんな予定はないが。 「……暇だったからな。気にしなくていいよ」 むしろ、彼からの呼びかけの方が気になる淳也である。オジサン呼ばわりや呼び捨てより数倍マシだが、幼稚園児にくん付けされるのも、ちょっと哀しい。 「だって、送ってくれるのたいへんなのに」 「言うほどでもないだろ。神戸なんてすぐだし」 放っておけなかったのは、幼児のためというより淳也が放っておきたくなかったから。それを何故と問われると、困るけれど。 「じゃあ、どうしてぼくを助けてくれたの?」 「だってなあ……ほら、泣く子には勝てないものだし」 幼稚園児からの突っ込みに、激しくたじろいでしまう。 泣いてる子供に道を聞かれた後、送っていく以外にどうしろと。 見て見ぬ振りをする段階を通り越して、関わってしまっては、見捨てるほど薄情にはなれない。 「まあ、面倒事には関わらないのが賢い生き方だと思うけどな……」 子供には聞こえないよう、ぼそりと呟く感慨は、心からのもの。 否応無しに奇妙なモノを察知してしまう体質だけに、消極的と言われようが若者らしくないと言われようが、基本的には厄介事は避けて通る習慣だ。逃げたつもりで、充分収支決算が合ってしまう。 余計なモノまで見える目は、いつでも淳也を異端に導いた。周囲に混ざろうとしても、どうしようもなく浮き上がる己に気付いてしまえば、数年から短ければ数ヶ月で移動する生活は気楽でさえあった。それだけに、遠出して子供を送っていくというのは、珍しい行動だと言える。 しかし、なにしろ相手は幼稚園児である。 おまけに迷い込んでいるのは常宵小路である。放っておいたら末路が洒落にならないのは確実だ。 なのに今の自分は、周囲の異形のイキモノに価値を肯定され、彼らに心まで守られて、幸せですらある。 「人として何か間違ってる気がするな…………」 世間様の常識に縛られるのを望んできた身としては、最近の変化が後ろめたい。とはいえ何が悪いと申告も出来ない。 そして恐ろしい自問を繰り返す。果たして自分は――ちゃんと人間に見えているのか? どちら側でもなく、おっかなびっくり境界に立つ自分は、優柔不断なのだろうか。けれど、どちらも選ぶことなど出来ない。両方を欲しがるのは贅沢なのか。欲張っていると攻められても仕方ないのか。 時間的にも人気のまばらな車輌内は、のんびりゆったりと座ることが出来る。 ついさっき泣いていたとは思えぬ様子で、わくわくと落ち着かぬ子供を見守りながら、淳也はしばし己の思考に沈んでいた。 |
* * * |
いまだ陽射しの強い中、緑の多い住宅地を歩いていく。 関西に引っ越して僅かしか経たぬ淳也は、神戸と聞けば港に面した洒落た都会を連想する。しかし周辺には閑静な住宅街も数多く点在している。 その一角を歩みながらヒートアイランド現象を実感し、淳也はめげ気味だった。熱中症になるまで秒読み段階だ。涼しさに慣れた身体には、アスファルトを照り返す熱気が辛い。 クーラーの無い場所で過ごして来た訳で、冷房中毒ではないが。山海堂とでは、体感気温が五度は違っているだろう――しかも。 「…………番地ってのは、本当に隣と繋がってるのか?」 電信柱に打ち付けてある番地表示を読み取りながら、途方に暮れる。要するに、彼等は迷っていた。 近くまで行けばわかるはずと主張する子供の意見を頼りに、歩くものの。恐らく近隣には至っていると思いたいが、見覚えのある場所に行き当たらない。 碁盤目状に区切った計画都市でも無い限り、番地で道筋を推測するのは意外に難しいものである。見上げても視線が追いつかぬ子供と違って、淳也は標札や地図を読むのに支障は無いが、根本的に土地鑑が皆無な人間にとって、古い町の家並みは迷宮も同然だ。 大通りを直進すれば、どんどん街は変化していく。時折子供の記憶に引っかかる場所はあるものの、決め手となるまでの確信はない。 「近所にわかりやすい建物は無いのか?」 「ん……近くにお風呂屋さんがあったけど、こないだつぶれちゃったんだ」 だからよくわからなくなってしまった。 呟く子供も、困惑を隠そうともしない。再び泣き出されたらどうしようと、密かに淳也を慄かせる、悲しげな瞳。 「――潰れても、店の建物は残ってるだろうが。人に聞けばいいだろう」 「そうじゃなくて、建物がこわれたの。その後どうなったかはしらないんだ」 泣くまいとしてか、きゅっと唇を噛み締める。たっと小走りに先に立つ子供は、もう涙は見せないと心に決めているのかもしれない。 「建物が壊れるって、どういう状態だ……?」 その幼子の姿を健気に思いつつも、日本語の表現の難しさに、首を傾げずにはいられない。その『潰れる』は、淳也が想像した『倒産』とは激しく違う状態である。 無くなってしまった建造物を追っても仕方ない。他の目標を確認しようとして、背後から襟首に手を伸ばし――引っつかむ前に、その手がピクリと揺れながら停止する。 炎天下、必死に還るべき地を探し求めるいたいけな幼子は、問答無用でつかむことの出来ぬ気配を漂わせていた。 伸ばした指先が背に触れようとする直前、淳也はそっと手を下ろす。 子供が自由に、望むままに進んでいけるようにと。 しかしそんな感傷を秘めた行動は、その直後に意味の無いものへと成り果てた。 「あそこだ!」 「ちょ……っと待て!」 叫んだ子供が、突然走り出す。 何が決め手だったのか、脇目も振らず、大きな道路へ向かって。 そのまま道路に走り出そうな勢いに、焦った淳也も後を追って走り出す。予想以上の速さで前を行く子供を捕まえようと、必死に手を伸ばし……その行為に『意味が無い』と気付いて、顔を歪めて息を飲む。幸いにも、子供は車道に出る直前にちゃんと立ち止まった。 「だいじょーぶだよ。飛び出したりしないから」 「…………当たり前だ、危ないだろうが」 「――うん」 無邪気な微笑み。花開いたかのような、周囲が明るくなるような錯覚。 「ここまで来ればわかるよ。じゅんやくん、ありがと」 「ああ……気をつけてな」 ここで良いと言われ頷く。この先についていこうとは、微塵も思わなかった。だって――正直言って、この先は見たくない。 「あのね……本当に、すごく心細かったんだ。誰もぼくのことわかってくれないから」 低いところからじっと見上げられて、淳也は少したじろいだ。純粋な好意に圧倒される。 「ひとりは初めてなんだ。迷っちゃって、もうお家に帰れないかと思ったのに――」 どうもありがとう、と。 子供は満面に笑みを浮かべて再び礼を繰り返す。どれだけ感謝してもまだ足りぬと言わんばかりに。何度も、何度でも。 やがて子供は、ばいばいと手を振って走り去っていく。 その輪郭が滲み出したのに気付いて、淳也はこぶしをぎゅっと握りこんだ。言葉にしがたい感情の波を、押さえ込むために。 「あちらからこちらに還る日、か」 燦々と照る太陽の下でも影を作らぬ子供は、脇目もふらずに家路につく。 「――帰りは迷わないようにな」 消え行く後姿を見ながら、淳也は小さく溜め息をついた。 |
* * * |
眼鏡を弄りながら結果を報告する従業員に、店主は穏やかな笑顔で応えた。 淳也は硝子一枚で、世界の常識と非常識とを区別している。だがそれは、彼の無意識の選択の結果でしかない。一度認識し、あると理解した現象は、眼鏡をかけなおしても存在を見失わぬものらしい。 「この頃は初盆の風習も廃れてきているからな」 特に都会では、それが顕著だ。 呟いて苦笑する男は、それが悪いとはいわない。良いともいわなかったが。 永遠に留まらずに過ぎ行く時流を、恐らく果てしなく長く見つめてきた男。彼は決して変化を否定しない。必要に応じて洋服を身につけ、パソコンを駆使して情報を探し出す男は、その変化をどう感じているのだろう。 もっとも、今まで超えてきた時の長さを思えば、彼が『現代』に対応しているのだって不思議はないのかもしれない。淳也にとっての『昔』すらも、醒花にとっては遥かな未来に等しいのだろうから。 「……そういや、名前も聞かなかったな」 「縁があれば知る機会もあるだろうよ」 「別に知る必要なんか無いけどさ」 不貞腐れたように横を向く淳也の頬は、微かに色付いて彼の動揺を物語っている。 幾許かの哀しみと、照れくささや恥ずかしさ。様々な感情が一緒になった想いを、自分でも把握しきれていないらしい。 「――あの子が、おまえに会えてよかった」 ぼんやりと虚空に視線を投げて追憶に耽る少年を見ながら、醒花は微笑んだ。 突き詰めてしまえば人が好いのだと思う。 本人は甘さと弱さを同一視して、己の性情を好いてはいないようだが、その優しさが、いつまでも彼と共にあるように祈ってやまない。 時に愚かしく思えるとしても、優しくいられるのは悪いことではないのだ。 |
《終》 |