弥生・花信風




 西の國では春の訪れは、東大寺のお水取りが終わった後だと語られる。
 その後に寒の戻りがあるというのも、毎年のこと。
 弥生に入りながらも、白く舞うものが絶えなかった夜の出来事である。



 高き天から、ひらひらと。白い花びらが降って来る。
 見上げれば何処までも続く藍色の闇。瞬く星屑。金糸雀色をした月は、真円に程近い。
 これも狐の嫁入りというのか。夜空には一片の雲も無いのに、彼方からの風が雪を運んで来ている……もしかしたら、他のものをも。
 弥生に入りながら尚も冷え込んだ夜気は澄み渡り、音さえも吸い込んでいくようだ。
 其の木は人影の無い黒々と沈む建物に囲まれた一角で、月光と雪白に冴え冴えと照らされながら、密やかに佇んでいた。
 しんしんと降り積もる雪片が微かな音をたて、常緑を飾り付けていく。濡れた緑葉は艶やかさを増し、燃えるが如き花弁の赤には白斑が描かれる。
 その葉の厚さで厚葉木(あつばき)と、艶やかさから艶葉木(つやばき)と。柘榴に似た果実からは、海の彼方より来た海榴(かいりゅう)と。どれもがこの木を示す名だ。呼ぶ言の葉が異なるのは、それだけ多くに愛された証明でもある。
 夕刻から降り続く雪は大地の黒をすっかり隠してしまい、人の出入りの少ない庭は処女雪の白さを保っている。足跡ひとつない純白は、月光を反射して仄かな光を放っていた。
 所々にぽつぽつと落ちる紅は、古木が落とした幾つかの花首。
 潔さを称えられ、散る果てさえも美しいと愛しまれる木は他にない。
 葉の緑。花弁の赤。花芯の黄。雪の白。そして、夜の闇の黒。
 闇の静寂の中で完璧な調和が生まれ、庭は閉じたる全き世界を創り出している。
 さくりと小さな音が響き、其の沈黙を破る者が現れたときも、世界はどこまでも静穏の中にあった。



 軽やかな音をたて、一匹の獣が雪原に足跡をしるしていく。
 月影に飾られた柔らかそうな白銀の毛並みが、きららかに輝いていた。
 先程までまるで気配がなかったのに、何処から入りこんだのだろう。
 周囲が闇に沈みこむ中、雪に紛れそうな獣の真白は、どこか確かな存在感に浮かび上がっていた。時折垣間見える脚の裏だけは、暖かそうな薄桃に色づいている。
 犬科を思わせる面立ち。体躯は中型犬程度で、さほど大きくはない。
 そして……何故か感じる違和感。野から紛れた獣のようでありながら、あまりに堂々とした、その仕草。瞳に満ちる、深い叡智。
 獣はゆっくりとした足取りで、椿の根元へと近付いていく。
 たとえ花の『美』を知覚する者が無くとも、其の在り様に変わりは無いはずだが、観測することで生まれる感嘆も有る。触れることで失われる儚さも。
 獣は其れを心得ているのか、落花を乱すことなく慎重に脚を運んでいく。作為無く創造された麗しき均衡が、破れることが無いように。
 やがてその脚が止まり、天地の狭間の幽玄を仰ぎ見る。
 眇められた眼差しは月の黄金。甘やかに鋭い光の色は強く、ひとたび視線を合わせれば、逃れられず捕らえられてしまいそうだ。其処には曖昧な闇に潜む全てを見透かすような、意志の力が満ちていた。
 ――不意に、瞳が閉ざされる。それだけで周囲の色が褪せたような、不可思議な錯覚。
 再び瞼の下からその眼差しが顕れることはなく、その姿は融けるように消え失せて。
 凍れる六花を惑わせる風が吹いた後には、獣の姿は見えず。
 代わりに真白い人の影がひとつ、地の純白に暗く沈んでいた。



 男の熱に敬意を払い、雪が溶けていく。
 いにしえの西の地の盛時を思わせる、白を基調とした古風な装い。表が白、裏は紫の重ねの色目は、白躑躅と呼ばれる春の為の配色だ。最も人目を引いて、何より白き印象を強めるのは、染めては出せぬ光沢を持つ、凍れる銀糸の長い髪。
 如何なる謎にも勝る時代錯誤な風体は、恐ろしいほど似つかわしく。
 こんな寒い宵に素足で出歩く奇しさも、何処から来たかと思う疑問も、あの獣との関係すらも、惚けて何もかも忘れ去ってしまいそうなほど――整いすぎた造作は、色彩と相まって人間離れして見えた。
 はっきりと判る生きて在る証は、冷えた彩りの合間に垣間見える、素肌に触れた雪が崩れていくこと。
 そして万年を封じた琥珀の如き瞳が宿す、謎めいた輝き。其れこそまさしく、獣と同じ眼差しに他ならぬ……人形には有り得ぬ強固な精神。
「――雪月花を共に楽しめるとは、なんという贅沢か」
 心地良い、柔らかくも低い声音が洩れ響く。
 雪舞う月下に花を愛でる男は、緩やかに微笑みを浮かべる。
 花と云えば桜だと、そう嘯く者も多いが。常磐木に花咲く刹那の美しさは、幾度幾年見つめても厭きることが無い。
 ゆったりと手が伸ばされた先には、其の木の――椿の花。
 照る緑の葉色を持ち、深紅の花弁に散る白は積もりゆく雪の色――否。
 花びらには他にも白い斑があった。積もる粉雪の如き其の妙の美しさを、何と喩えよう。
「今宵はまるで、雪をこぼしたかのようだな」
 赤き花片にてんてんと、白き斑紋が浮かぶ。
 故に此れを『のりこぼし』と称するのは、その名の通り、糊を零す風情であるからだ。
 今宵ばかりは天からも、更なる白を贈られて。
 其れは糊をこぼしたようにも、雪を積もらせたようにも見えていた。
 花底へ来たる男が、花に触れるぎりぎりの位置へ伸ばした手の平へぽとりと、花が落ちる。其の花唇へと、匂いを楽しむように、くちづけるように、顔を近づけて。
 そうして僅かに目線だけを上げた先に、淡くぼんやりと揺れる薄靄が起こり、ゆるゆると人の容が顕れた。



「花の盛りを越えて参られるとは、無粋なこと」
 花の如きかんばせとは、まさしく彼女の為の言葉。
 古木に埋もれるようにして具現したのは、艶美なる妙齢の女だった。
 女が纏うは表は蘇芳、裏は赤。その名も椿と呼ばれる冬の重ねだ。深い緑を周囲に立つ姿は、まさしく椿の花を思わせる。至極当然のことではあったが。
 人ならざる男の前に、人ならざるが故に現れたのは、古木の化身たる女。
 鮮やかな赤を帯びながら、凛とした涼やかな美しさ。華やぎながら軽薄さは無く、厚み有る花弁は儚さからも遠く。絶えること無き永遠の緑は、濡れて一際鮮やかだ。
「――久しぶりだ」
 男は丁寧に礼を贈るが、返されたのは憮然とした表情。
 その態度に男は苦笑を浮かべ、それでも穏やかな空気は失わない。凍えるような冬の名残も、彼にだけ届かないかのように。
「貴女の美しさは、花が散ろうとも損なわれることはあるまい」
 花の容を変えずに落ちる椿の逝き様は、枝を離れても心を打つ。
 雪白の上に幾許か広がる紅は、なおいっそう趣き深く。常盤に濃い緑の葉艶は人の心を惹きつけて止まない。汚れなき白に飾られた椿は、盛りを過ぎてより味わいがある。
 悪びれることの無い姿に諦めがついたか、やがては女も苦笑を浮かべる。彼の賛辞が心からのものだとわかるから、これ以上詰るわけにもいかぬ。更に責めたてたなら、彼は黙って頭を下げて立ち去るだろう。花の我が侭を、一言も怒らぬままに。
 それは少しだけ、淋しい。彼女を訪れる者は、数えるほどしかいないから。
 ひときわ強い風が吹き、男の髪が宙に遊ぶ。彼の供として、氷花と共に来たる寒風は、それでも確かに春の息吹を宿していた。
「――翁が来られる晩は、いつでもこんな風が吹いているな」
 雲を散らし、雪を運ぶ風を感じて、女の表情が穏やかなものに変わる。
 まるで春を告げる花信風のように。
 花の咲く便りを持ち来る風の任を、彼は自らに与えたのだろうか。
 気まぐれに、何の約定も無く訪れる男は、逢いに来る理由を語ることもない。
「つつがなく花を醒ます為に、風と共に巡っておいでか?」
 ――其れは、花咲く時を告げる風。彼方の地からの便りを伝える風の名前。其の風こそが、競って花を開かせる。
 春の使者かと問われた男は、目を細めながら袂を覗くと、ほとりほとりと花を零した。



 地に撒かれて咲くもまた、椿の花。
 赤と白とが入り混じる、五色の変化と。
 椿に有るまじく、花弁がひとひら、またひとひらと宙を舞う散り姿と。
 その花が『誰』のものかを理解して、女は口元を緩めた。
 同じ名を冠しながら、まるで異なる容色を持つ同胞達。その開花の度に知らせを聞くようになってから、幾度の花の季が繰り返されたろう。
 白の混じるのりこぼし、一枝に異なる色を咲かせる五色椿、花が一片ずつ離れる散り椿。
 変り種の名木と、揃って謳われ始めた日から、どれだけの時が流れたか。永きを在る樹の精であっても、数えることも忘れてしまった。目の前に立つ者は、更に永き時を経ているはずなのに、生き厭きることはないのだろうか。
「……我ら三名、並び称される立場にありながら、わたくしだけが塀に囲まれて美を誇ることが許されぬ」
 流す視線の先には、彼女を隠す囲いがある。此の木が生える庭は、人の出入りが常に制限されているのだ。
 その狭間に垣間見える美を、人々は愛してやまぬのだけど、女の矜持は傷つくばかり。
 樹としての生き方は人と重なるものでもなく、己の生き様の是非を人間の判断に任せるつもりはない。それでも、人が花に何を求めているかを知っている。其処に何を見ているのか判っている。
 爛漫の美を誇れぬ自身は、人にとってどれだけの価値があるのだろう。孤高を保つには、女はあまりに人に近い場所に在った。
 初めて出会ったときから、それを不服とする女の心は、いささかも変わりがない。
 慈しみを湛えながらも、困ったような男の眼差しに気付くと、拗ねたようにそっぽを向いてしまう。
「秘してこその花とはいえ、愛でられずに散る徒花の嘆きがおわかりにならぬか」
「たとえ誰が見つめようと、誰にも愛でられずとも、貴女の姿に変わりはあるまい」
 宥めるような男の言葉に、却って女は苛立ちを露わにしてみせた。
 彼の物言いは、まるっきり子供をあやす大人のよう。幼子の我が侭を、困り顔で聞く保護者と比べて遜色ない。
「醒花翁ともあろう方が、女心に疎いことを仰る。己を見つめる視線を感じてこそ、美しさを意識するものだというに」
 他者の賛美なしに美しさを誇ることは、自惚れといかほどの違いがあるだろう。その逆もまた真理なのだが、比べるもの無しには確立出来ぬものもある。其れを競うのが、良い事なのかはわからぬとしても。
 いずれにしても、元より花は人目を引く為に美しくある。その本能を捨て去ることなど、出来ようはずもなかった。
「……人の出入りで、苔が踏み荒らされるのを嫌ってのことと聞いたが」
 転じては、嘆く者の美しさを守るためでもあるのに。
 弁護する言葉に、耳が貸されることはなく。
「それは人の理屈よ。わたくしの本意ではない」
 哀しさや寂しさを口にしない女は、気高き精神の有り様こそが心地良い。奔放な口調さえも愛でるように、驕慢な女との言葉遊びは、ゆったり延々と、途切れることなく続く。
 此れは幾年も連なる花の季の度の遊戯なのだ。退屈な女のために、いつしか約することもなく重ねられる逢瀬。
 花を愛でていても、此れは愛ではなく、訪れを待てども、其れは恋ではなく。
 絢爛たる春の兆しに、変わらぬ男は時の流れを感じ取り。
 ただその慈しみと感嘆の眼差しに、動けぬ女は慰めを享けて。
 ――其れは恋ではないけれど。ただ女の花を愛でるために。
 ――此れは愛ではないけれど。ただ男の慰撫を享けるために。
 白を纏う男は、未だ凍える冬の最中に艶やかに色取る女の姿を、柔和な視線で愛おしむ。
 語る男を更に白々と、降り来る雪が飾り付けるが、それでも冷えた大気には、僅かにぬくもりが戻っている。
 夜明けと共に、春は再び還り来るだろう。



 いつしか、月は傾き。
 いつからか、雪は力を失い。
 楽しげな笑顔を浮かべつつも、男はついと立ち上がる。
 名残は惜しいが、月の力が及ぶ刻限の内に、帰路へつかねばならなかった。
「さて、もう行かなくては」
「未だ宵の口であろうに、もう去ってしまわれるのか」
 不機嫌さを隠さぬ女の態度も、男を留める足枷にはなれない。
 済まなさげな顔をしつつも、意志が覆されることはなかった。
「この雪はじきに止む。足跡が消える内に消えねばなるまい」
 己という存在を、人の子に知られることは望まない。
 雪が全ての痕跡を無くしてくれる間に、男は風のように消え行くつもりだった。
「貴方は人の法に縛られる立場ではないだろう。もう少し、構うまい」
「――人の法に従う身であれば、そもそも此処に立つことも許されぬ」
 微笑む男の手には、未だ瑞々しさの残る花首が乗せられている。
 一番最初に彼の手に落ちた、女の想い。
 彼は其れを土産とする所存だったが、呉れて寄越した当の女が難色を示した。
「そのようなものを、持っていって下さるな。其れらはもはや、朽ち逝くばかり」
「花は枯れるが故に美しい。散らぬ花、変わらぬ花など何処に在っても何の感傷もあるまい。ひとときの美に心動くからこそ、命はいつも美しくみえるのだろう」
 少しだけ、花を惜しそうに眺めながら。そう言いつつも屈み込み、男は花を地へと還す。生めし者の意志こそが、最も尊重されるべき故に。
 微笑んだ女はつと腕を伸ばすと、己の枝をぱきりと手折った。未だ蕾をつけた枝は、これから最も美しい時を迎えるはずだ。彼女が覚えていて欲しい、完璧な美は其処にこそ生じる。良いところだけ、覚えておいて欲しいと、そう願うのは当然のこと。
 躊躇いなく差し出された其れを受け取りながら、男は微かに首を傾げる。
「・・・・・・また、次の花の季節に訪れても構わないか」
 問い掛けの形をとろうと、それは既に約束の言葉。
 応えぬながらも微笑んだ女の姿は、現れた時と同じく霞のように消え失せて。
 其れを見送る男もまた、身を翻すと雪に混じるように掻き消えた。



 ――夜が明けて、人々が庭を見た時には生き物の気配はなく。
 ただ雪の上、椿の古木の根元にてんてんと、獣の足跡が残されていた。




《終》