師走・去り行きて、来たる


『魔法の時間』――終業式――

 放課後の教室で、野々内淳也はプリントを前に考え込んでいた。
 B5サイズの紙切れは、少年をこれまでの人生で一番と言っていいほど悩ませている。ほんの数行を埋めて提出すればいいだけなのに、どうすればいいのか――自分がどうしたいのか、わからない。
「ホームルームも終ったのに、まだ考えているのか」
「……羽波。急に背後に立つな」
 突然後ろから手が伸ばされる。あっさりとプリントを奪い取った友は、隣のクラスのはずだったが、いつの間に現れたのだろう。堂々と入り込んでいる神経の図太さには、感心するしかない。ビクリと身体を震わせて振り返った淳也は、じろりと犯人を睨みつけた。
「守護者が反応するか?」
「それはともかく、だ」
 手首の痣に二人の視線が一瞬落ちるものの、すぐに話題は戻される。とりあえず淳也の意識はプリントに集中している。そこには進路希望調査票とあり、全クラスで同時に配布されたはずだった。
「その日暮らしに生きてきた自分に、自己嫌悪してるとこなんだよ」
「……真面目だな、相変わらず」
「そういうおまえは、もう提出したのか?」
「非常に適当に書いてさっさと。おまえも、行く先に困る成績ではないだろう」
「…………褒められてるのか、一応?」
 全国的に成績を見ても、淳也は上から数えた方が早い位置に属している。通う高校は進学校でもあるし、大学に進むのに問題ないだろう。しかし多彩な面々が周囲に揃う立場としては、己の未熟さを恥じずにはいられない。人生経験の差が大きすぎるとはいえ、山海堂でバイトを始めてから会うヒトビトは、あまりに優秀すぎるのだ。
 とりあえず、適当に書いたりしては、彼らの前で堂々としていられない。なのに「何をしたい」と言い切れるものが無いのが悩みの種だった。それは、彼が望んでやまない『今時の平均的高校生』なのかもしれないけれど。
「俺は基本的に、平凡に人生を生きたいんだけど……何か間違ってるよなあ」
 溜め息の混じる言葉は、心からの慨嘆。そう在れないからこその、独白だ。しかし何の気なしの言葉は、意外にも友の心を揺るがしたようだった。
「おまえも、魔法の時間を終らせるつもりなのか?」
「なんだそれ?」
 やけにファンタジックな言葉で尋ねられ、淳也は怪訝そうに相手の顔を窺った。存在そのものが幻想的だったりする友は、それでも淳也の中で地に足がついた部類に分けられていたのだが。
「かつて世界は『魔法』に包まれていた。闇には魔が潜み、天には御使いが暮らし、夢には妖精が遊んでいた。だが『科学』を信奉する時代が来ると、やがて人の子の多くは魔法を忘れてしまった」
 一枚の紙切れに記入するほんの数行で、どれだけのモノが決まるのか。本当は、何ひとつ変わるものなど無いのに。
 少年が在るがままに生きるなら、それこそが淳也にとっての『普通』だ。周囲に埋没して、目立たぬよう息を潜めて。望むのは本当に、そんな人生なのか?
「今ではこの国で魔法を覚えているのは、幼い子供だけだ。一生の一瞬を魔法の中で生きるだけ。その時間は幼年期の終わりと共に消える」
 ふと相手が視線を流す先には、赤と緑で彩られたこの時期特有の飾りがある。街を鮮やかに華やかに縁取りながらも、それは幻のごときおとぎ話でしかない。誰もが――誰もと言い切れるほどに多くの人々は、夢物語と思ってクリスマスの奇跡を口にする。その中で、本当に奇跡を信じる者がどれだけいることか。サンタクロースを待って夜の時間を過ごす者が、どれだけいるだろうか。
 神すらも死せり、と。
 万人の前に示されぬものを否定して、平凡に、普通に。
 絵空事など馬鹿にして、常識だけを――常識と言われる多数派の真実を信じて。
 自分の眼に見える秘儀を、無かったものとして?
「――俺は、忘れないよ」
 忘れられない。
 そう呟く声は、自分で思ったよりも暗くはなかった。
 ほんの少し前までは確かに、異常なモノを見せる自分の瞳が疎ましかった。
 けれど今は――楽しくもある。それが良いことなのかはまだ、自信がなかったけれど。
「そういえば、今から暇があるか?」
「構わないが……なんだ」
「クリスマスまで、篠青さんが喫茶店でピアノを弾いてるんだって。聴きに行かないか?」
 バイト先で知り合った相手の名を出すと、少し考えた後で頷かれる。微妙な間があったのは、気になるところだ。多少は面識があるものの、良いとも悪いとも言えぬ仲だと思っていた。彼らが争いだしたら、それこそ魔法が飛び交うだろうなあと、無責任に考えて笑ってしまう。
 こんな風に、淳也の日常の大半は『魔法の時間』に包まれている。
 それは悪い気分ではなかった。



『流れる響きより』――イブ前夜――

 喫茶店の中では軽やかに音楽が流れている。
 心浮き立つようでいて、甘く酔ってしまいそうな楽の音色。耳の肥えた者でなくても、弾き手の素晴らしい技量がわかるだろう。技術より何よりも、音楽を愛しまた音楽に愛されている者だけが可能な演奏だ。
 店内の中央にディスプレイされた大きなクリスマスツリーの下、設置されたグランドピアノが音色の源だった。
 店中の客の耳を楽しませ――それどころかうっとりとした視線まで集めているのは、二十代半ばと見て取れる青年だった。その若さには似合わぬ深みのある音で客人達を魅了するばかりか、端麗な容姿で視線までも釘付けにしている。楽しげに指を踊らせる青年は、見ている側の心までも沸き立たせていた。
 青年の格好は黒いシャツとズボンというラフなものだ。染めているのか、髪は光沢を放つ銀色だった。椅子にかけられた青いジャケットもフォーマルさからは程遠い。
 だがそれも、昼間の喫茶店には相応しい装いだ。開け放たれたドアから外まで洩れ聞こえる音楽に耳を留めた客達は、軽妙な雰囲気に構えることなく気軽に足を踏み入れて来る。客の数が何時にも増して多いのは、気のせいではないだろう。
「結局、毎日のように通っているのかね」
「――はい」
 奥の片隅にある二人掛けのテーブルで、椿はコーヒーカップを傾けていた。
 篠青がこの店で弾くようになってからの定位置である。表からは隠れるようなこの場所は、店員からさえ半ば忘れられたようになっていて、長居するには丁度いい。おまけにこの場所は、ピアノを弾く青年の横顔を存分に眺められる絶好の席だった。
 もっともここが忘れられているのは、少しばかり細工している所為もある。密かな楽しみを邪魔されたくない椿のちょっとしたまじないが、人の視線を遠ざけているのだ。
 その悪戯も、今のように知人が店に足を運んで来るときには効果はない。ちょっとだけ注意深くあれば気付く程度の、他愛ないものである。
「ここまで出向かなくとも、頼めば彼は何曲でも、おまえだけの為に弾くんじゃないのかね?」
 微妙に距離を取っている二人だとは思う。それだけに質問もまた迂回してしまう。仲が悪い二人だとは思わないが、自分のために弾いてくれとねだるのすら気が引けるとしたら問題だ。そんな遠慮は必要ないと、何故に彼女はわからないのだろうか。
 尋ねる穐月は、青年の友人として娘の師として、奇妙な義務感と同時に諦観をも感じていた。
「いえ、彼が弾く曲も好きですが……こういうところで弾いている顔は、家とは違ってみえますから」
「……顔を眺めに来ているのか、もしかして」
 予想とは違った答を返され、穐月は一瞬だけ沈黙した。思ったのとは異なる方向の理由である気がする。
「それが演奏者に対して失礼だとはわかっていますので、本人には黙っていて下さい」
 気まずげに頼んでくる椿は、心底から本気で言っているらしい。確かに音楽家の観点からすれば、演奏ではなく見てくれを鑑賞しに来ているとは噴飯ものの話だろうが。
「…………篠青ならば」
「何です?」
「いや、何でもないよ」
 不思議そうに首を傾げる弟子に向かって、にっこりと微笑んでやる。
 あの青年ならば、この娘に見惚れられていたと知ったら、却って大喜びする気がするのだが……
「おまえが、知る必要はないことだ」
 師の言葉にさすがに不審気な顔はしたものの、椿はあっさりと答を諦めた。長い付き合いだけに、穐月が微笑んで拒絶する場合に問い詰めても無駄だとわかりきっているのだ。彼が本当に必要なことまでは隠さないという信頼もある。
 後になって、椿が絶対に話してくれない二人きりの会話の内容を篠青に問われた時も、穐月は口を濁すばかりだった。ちょっとした意地悪が許される場面だってあるものだ。
 二人の関係は、一応は夫婦と銘打たれているはずだ。
 しかし『本当は』何と呼ぶべきかは、今年もやっぱり謎のままだった。
 周囲にも、多分本人達にとっても。



『放浪者』――煤払い・26日――

「なんで俺は、こんな事をしてるんだ」
 はたきを片手に、篠青は溜め息を吐いた。
 山海堂の煤払い――つまりは大掃除に駆り出されるのは例年通りだ。ただしいつもは椿と組んでのある意味楽しい時間なのだが、今年は相手が悪い。背後で畳を上げている青年に視線を流し、再び深く深く溜め息を吐く。
 京の稲荷と同じ名を持つ青年とは、昔から相性が悪い。掃除をするのに数名で組むのが義務付けられるのは、ある意味納得出来る。普通はそんなコトは無いだろうが、山海堂なら仕方ない。椿がいない以上は、他の誰かが一緒なのも仕方あるまい――が、しかし。
「煤払いって言うけど、なんか違うだろ!?」
 古きに遡れば、煤払いとは大掃除を指すというより神事の一環であった。
 末たる十二月の十三日に、神棚・仏壇の掃除を行い、年神を祀る用意を整える。正月に向けての用意の事始とされていたはずが、意義が変化してきたのは何時頃からだったろう。いつしか日取りもずれて行き、すっかり大掃除と同義語になりつつある。ただし、其れに文句があるのでもなく。
「十三日にやりたかったのですか」
「そういう問題じゃねえよ。なんで俺がおまえと煤払いをしなきゃならねえのかって言ってるんだ!」
 その言葉に細い目を更に細めた青年は、ちろりと視線を篠青の背後に流す。
 そこで黙々と障子を張り替えている女性を見て、篠青は少しばかり怯んだ。穐月の妻女であるところの佐保は、本来は醒花の配下である。地道に真面目に掃除を続ける彼女の姿勢を見ていると、愚痴る己がやましくも思える。けれど、嫌なものは嫌なのだ。
「……確かに二人きりじゃねえけどな。にしても伏見、あの餓鬼に引っ付いてなくていいのかよ」
「人手が足りないようですし。延々と腕に潜んでいても仕方ないでしょう」
「そりゃ、おまえでも猫の手よりはマシだろうけどな……それが守護者の態度か?」
 自分だったら、こんなモノが傍に延々と控えていたら、一日で消耗し尽くして発狂しそうだ。たまの解放に、淳也が羽根を伸ばしているかもと考えるが、自分の心の平穏には変えられない。意外にもちゃんと少年を守っているらしい使役に、飼い主の元へ戻れと訴える。せめてあの子供が一緒なら面白いし、矛先が自分に向く確率も低くなるのに。
「淳也は醒花翁と一緒ですから心配ありません。そもそも、こんな『奥』まで入りこんでは危険でしょう」
「…………ああそうだよな……危険だよな…………」
 ふっと天井を仰いで、また溜め息が洩れる。
 ここは山海堂の奥にある部位である。既に午前中から十を越える部屋を通り抜けており、なおも掃除を続けるも……とっくに表から見える店の範囲からは逸脱してると思うのに、果ては見えてこない。
 その間、仮にも家の中なのに、何かに襲撃されたり何かに襲撃されたり何かに襲撃されたり……するのはどうしてだろう。ただでさえ神経を使うのに、こんな不仲な相手と組むなど冗談ではない。
「なんで……なんで大掃除でこんなに消耗しなきゃならねんだか」
「文句は醒花翁に直接言うことです。まあ、あなたにそんな度胸があるとは思えませんが」
「――んだと?」
 何のかんのと、朝から神経を張詰めていればストレスを感じぬはずもない。元から不仲な二人の間に、募る苛立ちが後押しして殺気が満ちる。そこにふっと影がよぎった。
「――終わりました、移動を」
「お、おう」
「わかりました」
 絶妙のタイミングで佐保が水を差す。
 互いに不毛な争いと理解するだけに、おとなしく双方は休戦する。余計な争いで力を使い果たしては、命にさえ関わる。
「篠青どの。とりあえず、山海堂まで戻りませぬか。どうせ一日で裏までは到達できぬでしょう」
「……まったく、凄い話だよな」
 宥めるような佐保の言葉に頷きを返す。はてさて自分は知人の屋敷の掃除をしているのか、それとも大迷宮の探索中なのか。放浪者たる己に物悲しさを覚え、やりきれない気分でやって来た襖を乱暴に開く、が。
 その向こうを見た直後に、青年は思わず襖を閉めた。
「………………い、今なんか」
「おや。向こうは吹雪のようでしたねえ」
「道理で寒いはず。我々はともかく、野々内どのには暖房が必要かと」
 襖を開けると、その向こうは雪景色でした。
 そんな洒落にならない情景を見ても、伏見と佐保は淡々としたペースを崩さない。
「まだ掃除していろと、言われているのでは?」
「――さて、どちらなら進めるでしょうね」
 部屋の三方までは襖と障子で仕切られている。他方の襖を開けた伏見は、半ばも開かぬところで素早く境界を閉ざしなおす。
「……こちらは、海底だったように見受けます」
「篠青どのがおられるのなら、必要なら表まで戻れるでしょう」
「どちらへも進めなくては、掃除も出来ませんねえ」
 転移の術があると知る二人は、あくまでも長閑さを失わない。平静な態度を保つのは、焦っていない証拠であると同時に、性格の表れだ。無神経さと紙一重の根性を持つ者が山海堂に多いのは、主人の反映だろう。
「おまえら、他に言うことはないのか――っっ!!?」
 篠青は、わなわなと身を震わせる。
 しかし彼の主張は、店内の誰にも理解されることはなかったのである。



『その音がもたらすもの』
――仕事おさめ・30日――

 カーンと、甲高い音が聞こえる。
 暗い街角に、何度も拍子木が鳴り響く。
 燈明閣のテーブルでティーカップを傾けていた男は、驚くほどよく通る音に口元を緩めた。
 あいかわらずこの店は、営業しているのか、喫茶店であるのかさえ定かではない。知識がなければ知らず通り過ぎてしまいそうだ。ただ表に掲げられた小さな燈火だけが、店が開いていると示している。
 小さく流れるクラシックは、店中央に設置された蓄音機によるもの。それに負けずに、打ち合わされる木の響きが繰り返される。
 聞こえる音が、本当は何処で流れているのかはわからない。宵闇小路からなのか、何処か遠い彼方からなのか。そこに込められた想いだけが、時空を隔てても変わることなく耳へ届く。
 災いなく、平穏よ在れと。妖の多く潜むこの位相にあっても、祈る者はいる。それは祈らぬ者がいるのと同じく、俗世とまるで変わりない。
 空いたカップに、そっと二杯目が注がれる。
 いつの間にか現れ、前に座った女性に気付き、男は小さく礼をのべた。
「今年はいつもより、繁盛しておいでですな」
「色々あったからねえ。店じまいが出来なくて困るよ」
 微笑む女は、口で嘆くほどは困ってはいないようだ。悪戯っぽい口調にほっとする。
「ここは、年中無休ではないのでしたか?」
「今年だけだよ――客が多いからね」
 その言葉に店内を見回せば、揺らぐ黒い影が幾つも見える。
 人間とは思えぬ其れは、真実異形なのかもしれず、肉体から離れた人の子の魂なのかもしれない。
 彷徨の果て、この店にたどり着いた者達の行く末がどうなるのか。
 ちいさな、ほんのちいさなともしびを頼ってこの店にたどり着いた者に、亜聖は助けの手を伸ばす訳ではない。時に気まぐれに助言を与えても、最後の選択権は己にある。
 この店の燈明は悩める人々を引き寄せるが、店主が分け隔てなく与えるのは僅かな休息の時間だけだ。
 それがどれだけの意味を持つのか。
 その答さえも、人は自分で出すしかない。
「――さて、そろそろ行かなくては」
「ああ、そうだね。魂は千里を一瞬で駆けるとはいえ、あの島は遠いからね」
「祖霊を祀る風習はこちらのものとはいえ、おかげさまで楽しいですよ」
 微笑んだ紳士は、テーブルの上に何枚かのコインを置いて立ち上がった。
 懐かしい故国へ、ひとっとびで還るために。



『咲森の宮』――年の瀬――

 雪が森を白く染めている。
 未だ緑残す常緑樹と、葉を落とした木々が同居する森は、暮れ始めた夕闇の中で静かに佇んでいる。
 さくさくと新雪に足跡を残しながら、真神はゆっくりと森を進んでいた。
 目印の無い深い森も、彼の目で見れば道は鮮明だ。たとえ初めて足を踏み入れる森だとしても、人の目に区別しがたい樹木の形は、真神にとって標識にも等しい。ましてやこの森は、彼にとっては見知った場所だ――来ることは、滅多になかったが。 
 山海堂に到るには、京都の一角から咲宮神社を抜けるのが早い。この神社は周囲に広がる森や丘そのものも御神体としているため、本来は奥手の森に入るのは禁じられているが、それは人の子への戒め。祀られる側である真神にとって、森は清浄な気に満ちて居心地が良い場所である。
 彼の存在が場の気を乱すことはないが、普段なら人間の架したものといえど、彼が約定を破るのは珍しい。それでも人の世では数少なくなった霊場に立ち入るのは、探し人が此処にいるという確信があるからだ。そして恐らくは、迎えに行かずば彼は早々には戻らないだろう。待つ者がいることも忘れたように。
 しんしんと雪降る寒い日は、心までも凍えさせる。
 妖の身であれば多少の寒暖の差で苦しみはしないが、それでも。
 進む森の奥で見つけたお目当ての人物は、案の定いつものように和装に草履履きの、見ている方が震えそうな格好である。いつからここにいるのか、その肩には薄っすらと白いものすら見えている。
 視線の先にあるのは、一本の古椿だ。
 雪積もる椿を見つめたまま、男は――醒花は動こうとはしない。
 背後に誰かが来たのを――誰が来たのかさえも、わかっているのだろうに。
「――よく此処にいるとわかったな」
「エヴァンズの命日には、必ずここにいるだろう」
 即座に返された言葉に隠された感情を、測るのは難しい。しかし微かな呆れと同時に諦めをも感じ取り、醒花は苦笑を浮かべた。
「――神主どのが、話がしたいと嘆いていた」
「ああ、年神がじきにおいでだからな」
「わかっているなら、戻ってはどうだ? それとも、まだ――」
「いいや」
 未だ哀しみから逃れられぬのかと。躊躇いがちに続こうとする言葉を、微笑みながら遮る。
 過ぎ去った時の彼方に何時までも捕われても仕方ない。よくわかっている。真神が呆れるのも当然と思いつつ、昔々にいなくなった人のことを、だからと言って語らなくなるのは嫌なのだ。
 忘れたいほどの悲しみは薄れ、ただ懐かしさと慕わしさが残る。
 遠い昔の友の思い出があってこそ、今の己自身がある。
「あまり心配をさせてはいけないな。早く戻るとしよう」
 かつてこの地で客死した友人は、この国の椿を何よりも愛していた。彼の躯と共に、神域の椿の一株を持って海を越えてから経った年月は、妖にとっても短くはない。
 どれだけ過ぎても、嘆きが薄れても、記憶は消え去りはしない。
 過去を変えるのは不可能だが、未来は過去と繋がっている。 
「神主どのも御歳だからな。そういえば、淳也は今年も手伝いに来るのか?」
「暇なら顔を出そうかと言っていたが……何故だ?」
 他人の行動を気にしない友が、少年の行動を確かめるのが不思議で、醒花は真意を問いただす。
「彼を次代の咲森の宮の守人にと、そう決めたのかと思っていた」
「――なるほど」
 宵闇小路と人の世とを、常に結ぶこの神社の主は、代々が小路の住人の意志を享けて世代を重ねて来た。彼らはいつも『ミコトモチ』と呼ばれる神の言葉の代弁者であり、異なる位相と人の世を見る眼を持っていた。故に山海堂で働き始めた少年は、いかにもそれに相応しい。醒花の気に入りようを見ても、そう思うものは他にもいるはずだが――しかし。
「彼の未来は、私の意志が関知するところではないよ」
「放任といえば聞こえが良いが、無責任ではないか?」
 出会いより深い関わりを持ち、守護を与え、雇用者どころか保護者としての立場を貫きながら、そんな言い草はないだろうと。咎める口調は、真神には珍しい。寡黙な彼が、はっきりと非難を口にするのもあまりないことだ。古くより、己が血を引く人の子の守護を務めてきた生き様が、そうさせるのかもしれない。
「いいんだよ。まだ彼は迷っている。迷うだけの時間がある。今の時点で口出しするのは、彼自身の意志を歪めかねないからな」
 よく見える眼を隠して、人の世で息苦しさに喘いでいた少年は、ひっそりと遅々としてであっても生き方を見つけ出そうとしている。手助けは出来ても、過分な介入で道を歪める訳にはいかない。
 時間だけは何者にも留められず、増やすこともできない。無駄にする余裕は無い。
 けれど、人の時間は短くても、人生には回り道さえ意味がある。それら全てが『個』を創りだすのだから。
 過去を捨てられなくても、未来の全ては過去と繋がっている。
 他愛ないひとつひとつに、意味は確かにある。
 年を越えるごとに変わるものがある。失われ消え行くものに、嘆く日もあるだろう。
 しかし変化は、良くも悪くも必然なのだ。



《終》
2006/05/25改稿