霜月・月下ニテ花ヲ想ウ |
霜月に入っても、暖かな日が続いている。 淳也としては過ごしやすくて助かるくらいだが、紅葉が遅れる――どころか茶色く立ち枯れる並木を見れば、ひしひしと今年の異常気象を感じる。久々に訪れた花屋敷でも、その弊害は顕著に現れていた。 草木が多く、年中花が咲き続けるところから、近隣に花の屋敷と呼ばれる日本家屋が穐月の住処だ。もっとも、その名の由来は屋内から来ているのかもしれない。襖に始まり、障子や欄間に至るまで、あちこちに描かれた花鳥が語源である可能性は高い。それでも例年なら、庭も負けない実りの季節を迎えているはずが、どうにも鮮やかな色彩に乏しい感がある。 淳也が醒花と共にここを訪れたのは、先月の大半を山海堂で過ごした穐月夫婦が、帰還の勢いにのって始めるという大掃除を手伝う為だ。ここも問題ある家屋であり、出来ればお近づきになりたくはない。しかし、開き直ってしまえば穐月の屋敷は、山海堂より数百倍マシな立地条件である。少なくとも電車で誰でも来れる辺りが、人間らしさの残滓を感じる。 だというのに、不意に庭先に現れた人影を見て、少年は深々と溜め息をついた。 この敷地に入ってしまえば、所詮は山海堂と同等の人外魔境と化すらしい。 無言で佇む男は見知った顔ではあったのだが、その背後を見てしまっては何を突っ込んでいいやらわからない。どうして彼が、見慣れたくもなかった『モノ』を連れているのか。 「――こんにちは、真神様」 「久しぶりだな、野々内」 古来からの習慣というものは、斯様に変えがたいのか。この人物もまた、和装以外の格好を見たことがない。さすがに人間に見える格好はしているし、正体を確認してはいないが、大口の真神と呼ばれる男の諸々の行動形式こそが、大和の古くまで遡れる存在だと察させる。そう考えると彼の淡々とした無表情も、神秘的に思えてくるから不思議だ。旧友であるところの醒花は、単に愛想がないだけだと言うが。 「醒花なら、奥にいますが」 「今日は醒花だけではなく、おまえにも用があって来た」 「俺にですか。それはともかく……何を連れてるんですか?」 犬のように引き綱をつけられ、その先で動いているモノ。妙に陽気に笑っている物体。 神無月の末に狩って来た、悪霊宿るジャック・オー・ランタン。 「――山海堂にいたのだ。おまえがとってきたと聞いたのだが」 「いたってか……まあ、俺も『とってくる』のに参加しましたけど……何で一緒なんです?」 嫌味に思われる覚悟で尋ねたものの、相手はあくまで真面目な態度を崩さない。笑いカボチャを語るには、似合わなさも極まっている。 「軒先で雨ざらしのようなので、要らないなら欲しいと言ってみたのだ」 「……まさか、気に入ったんですか」 「ああ」 こくりと素直に頷かれ、ちょっと視線が泳ぐ。 淳也の感覚では、理解し難い嗜好だ。 「ま、まあ好みはそれぞれですしね。散歩も楽しいかもしれないですが……まさか、そのまま公道を通って来たんですか!?」 「まさか。ちゃんと宵の道を通って来た」 山海堂がある通りと同じく、位相が異なる妖の回廊は、普通は人間の眼に見えない。時に百鬼夜行が目撃されようとも、ほとんどは逢魔ケ時の幻として片付けられるのが常だ。その道を通れば、昼間っから踊り狂うカボチャを背後に従えていても目撃者がひっくりかえったりはしない、が。原点に還って、どうして連れ歩く必要があるのか。 「――これを捕えたのは淳也だからな。譲るも譲らぬも、おまえに聞くように言われた」 「いや……俺は全然いらないですから、好きにして下さって結構ですけど――味までは責任取れませんよ?」 「味……というと?」 「食べるんじゃないんですか」 見るからに食欲が湧かないが、それ以外の活用法も思いつかない。 それとも、実は自分も山海堂に毒されているのだろうか。僅かに眉をひそめた男は、明らかに驚き呆れている様子だ。 「これを食べるというのか……それはどうかと思うが」 「――ようやく真っ当な感性の持ち主に会えた気がします」 ふっと微笑んで――しかし。信用しきれず、使用法を確認する。 「食べるんじゃなきゃ、どうするんですか?」 「庭で飼う」 「………そーですか」 一瞬でも期待しただけに反動も大きい。深々と溜め息を吐いた少年は、なおも大真面目に引き取り許可を求めてくる男に、弱々しく頷く。まさしく煮るなり焼くなり好きにしてくれという心境だった。 ケタケタ笑う物体の、どこがそんなに気に入ったのか。 カボチャを貰い受けるなり、そのまま帰ろうとする真神を引き止め、長い廊下を歩く。特に他用が無いとは言っても、挨拶も無しでは後で醒花が残念がるだろう。 奥まった和室の押入れの前で、座り込んでいる目当ての人物を発見し――声をかけようとして思いとどまる。 その押入れから引っ張り出したらしき掛け軸を眺め、醒花はぼんやり心をどこかに飛ばしているようだった。珍しいその姿に小首を傾げてしまう。後ろからこっそり近づいても、気付かぬのか振り返りもしない。益々珍しい様子にいっそ不安になりながら、彼の心を捕えている掛軸を覗き込み――妙に間の抜けたその図柄に、更に訳がわからなくなった。 大振りの葉っぱが、掛け軸の下方にのたくっている。 それ以外に花も無く、鳥も無く、淋しいようで――異様に瑞々しい葉が、目を引く一幅だ。 「…………なんだそれ?」 「かつて、この屋敷に住んでいた人間の好きだった花だ」 首を捻って呟く声に、さすがに醒花が応じる。 「花って言っても……」 植物ではあっても、そこに花はついていない。 ひとつだけある玉ねぎのような物体が、ひょっとして蕾なのだろうか。 不審な思いは露骨に顔に出ていたらしい。醒花が面白そうに笑う。 「――その軸は久々に見たな」 「ああ。整理していたら、久し振りに見つけたよ」 気配に敏い男は、近づく相手にとっくに気付いていたらしい。 突如声をかけて来た相手に驚くでなく浮かべる微笑は、どこか寂しげでもある。 「あの年も、霜月に入っても珍しいほど暖かだった………」 遠くを眺める眼差しは、遥かなる場所ではなく、時の彼方を見つめているように思えた。もはや過ぎ去ってしまった、二度と取り戻せぬものを思い出すかのように。 |
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晩秋と呼ばれる季節になり、強い陽差しさす日中も過ごしやすくなった。 天を仰いだ金髪の洋装の男は、刹那の穏やかな日和にほっと息を吐く。 近年まで鎖国していた東の島国の旧都に、男が訪れてから既に数年が経つ。山に囲まれた盆地の夏は暑く、しかも冬は一息に訪れる。故国英吉利に比べて季節の移ろいは激しい。初老に差し掛かる男にとっては厳しい環境だ。 それでも暇が出来れば京の都を散策するのが、彼の何よりの楽しみだった。いにしえから連なる東洋の息吹は、男を引き付けてやまない。 京は多くの道が碁盤目状に作られてきたから、慣れぬ男でも大通りの道筋は間違えない。しかし、民家が建ち並ぶ細い路地に入ると様相は一変する。そんな地元の者しか使わぬ小道を歩くと、思いも寄らぬ僥倖に巡り会うことがある。だから迷いながら知らぬ道を通るのも、散策の楽しみだった。 その日も見慣れぬ場所に出たと気付いたものの、男は動じることなく足を進める。 こんもりとした森の中にある小さな稲荷を覗いた後は、その背後へ抜ける左右に竹繁る小道を進む。するとやがて小さな通りに出た。 どこからか子供がわらべ唄を歌う声が聞こえる他には、まるで人の気配がない。並ぶ家屋の大半には入口に看板が出されている。商店が続く通りのようだが、ほとんどの戸口は閉ざされて何を商っているのか窺うことも出来ない。 随分と長く歩き続けていた男は疲労を感じていた。少しばかりの休息を求めた彼の目に飛び込んできたのは、大人一人がやっと通れるだけ、引き戸が開け放たれた家屋。 戸口に小さな看板がぶらさがる為に、かろうじてそこも店だとわかる。木の板には達筆で『山海堂』という文字が彫りこまれている。 ――意を決した男が戸に手を掛けると、揺れた看板がカタンと音をたてた。 楚の国において成立したと言われる、山海経(せんがいきょう)という書物がある。 中国最古の空想的地理書とされる全十八巻のこの書には、山川の地理を始め、珍しい動植物や鉱物、伝説の帝王の系譜、辺遠の国々や異形の民についてなど、多岐に渡る内容が記されている。 しかしその存在すら知らぬ男は、終生その引喩に気付くことはなかった。 |
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店内はひんやりと涼しく、昼間だというのに薄闇に閉ざされている。 目的も無く飛び込んだ店だったが、そこは思いの他興味を引かれる場所だった。 間口は狭いが奥行きがある造りで、壁際には木目の美しい飾り棚や箪笥が並ぶ。細い通路を残して幾つも置かれた卓は脚まで隙間なく彫刻が施されており、それ自体も立派に鑑賞に耐える品だが、上に所狭しと雑多な『商品』が並んでいる。 鼈甲で出来た簪。異国渡りの硝子瓶。風変わりな形の根付。帆船の模型。 広い卓の上からも溢れんばかりの品物の数々。和洋折衷、古来伝統の品から新しき異国の品まで、如何なる基準に拠るものなのか。不揃いではあるが子供の宝物の如く大切に飾られている品々は、埃ひとつ被っていない。 掃き清められた土間の向こう、一段上がった高い場所には五畳ばかりの小間がある。更に奥の潜り口には暖簾が掛けられており、板張りの廊下が覗いて見える。手前端には勘定台があり、紺の紬でお対に仕立てた長着と羽織を纏う青年が、書を広げて煙管を片手に座っていた。 店内に入ってきた男に気付いて顔を上げると、微かな笑みを浮かべて目礼を送る。 目元涼しげな端正な顔立ちの青年だ。年は二十代も後半にさしかかる頃か。この国の人々は、白人である男の眼では幾つか若く見えるから、もう少し年を重ねているのかもしれない。長い髪は首元で束ねており、若々しい張りのある容貌とは裏腹に、落ち着きに満ちた表情は、壮年の男のような風格を漂わせている。 いささか若過ぎる気もするが、彼がここの店主なのだろうか。 声をかけようとして近付いた男は、青年の背後にある品々に気付いて立ち止まる。小間の壁際にある、低い棚の上に並べられていた幾つかの道具類に目を奪われたのだ。 右端には広重の狐の浮世絵が額に入れられ、その横には白い萩の茶碗が鎮座している。そのまた隣で陶器の招き猫が客を誘って右手を上げた横には、金色の空の鳥篭がある。 どれも素晴らしいものだが、節操の無い有様は他と変わりない。それでいて無造作に品が並べられた土間とは一線を画し、恐らく選び抜かれたその品々は、絶妙の間を持って配置されていた。 やがて棚の上の壁に掛けられた一幅の掛軸に、男の目が留まる。 内容は、取り立てて素晴らしいとは言い難い。左下を中心に植物が描かれているものの、やけに右上部の空白が違和感を感じさせる。葉が生き生きと瑞々しいだけに、間の取りかたの不具合が目立っているのだ。 長細い葉はずるずると何枚も伸びており、やや分厚い葉は仙人掌のようにも見える。葉の途中にある切れ目からは、赤い蔓のようなものが伸びている。その先端に付いている玉葱にも似たものは、果たして果実なのか蕾なのか。ぷっくりと膨らんでいるのが奇妙な存在感を醸し出している。 画題としてはあまりに不恰好な植物である。描かれ足りていない未完成の画をみているようで、それ故に男の心に引っかかった。 「――それはなんという植物でしょうな」 「この掛軸が気になりますか」 男がまじまじと『植物』を眺めているのを見て、青年は楽し気に笑った。 「左下は詰まっているのに、妙に他に間がある絵ですな」 緑の香りが匂い来るような、見事な質感。繊細な画風ではあるが、余白の美と感じ入るには大きすぎる隙間だ。 「これでも随分、蕾が大きくなったところなのですが」 苦笑混じりの答は、どこか論点があっていない。 自分の日本語が怪しかったのかと、首をひねってしまう。 「――これはどなたが描かれた絵なのでしょうか」 「名前を言ってもわからぬでしょう。名を知られた者の作ではありません」 微笑む青年の瞳は、慈しむ光に溢れており、無名の画家への愛情が感じられる。 「この植物は咲かせるのが難しいため、画家は終生この花が咲くところを見ることが出来なかった。故にこの画には花が咲くための場所が空けられているのです」 いつか、大きく花開くとき。 美麗なるその大輪が、もっとも映えて見えるようにと。 「右上には月が描かれていたのですが、遺族の保存が悪くて霞んでしまいましてね。それで私が引き取ったんです」 「なんと。それは勿体無いですな!」 思わず男の言葉に力が入る。驚愕にぎょっと眼を見開いた表情を見て、かえって青年の方が驚くが、一瞬の後にそれは微笑ましげな穏やかなものへと変化した。一目見たばかりの書画の為に心を動かす、男を好ましく思って。 「……いつか、この花が咲くところを見てみたいものですな」 永遠にほころぶ蕾のままで時を留めた絵には画家の切ない想いが宿っている。それに感じ入った男が微笑んだところへ、妙に気軽に誘いがかかった。 「お望みとあらば、頃合を見計らって迎えを遣わしましょう」 「……は?」 男の呟きは本心からのものだったが、絵の花が咲く日が来るはずもない。 おかしなことを言うものだと、そう思った男は、青年の戯言を笑い飛ばすつもりだった。 苦笑混じりに視線を青年に戻したところで、笑みを湛えながらも飽くまでも真摯な眼差しに出会い、口ごもってしまう。 「あー……、そうか、これと同じ種が咲くのですかな?」 「いいえ、違います――これも何かの縁でしょう。次は月の美しい晩にお出で頂きたい」 唐突な言葉を告げると、青年が出口を示す。 男は呆気にとられたものの、青年はにこにこと笑うばかりだった。訳がわからず、何だか夢を見ているような心地で出口へと足を運ぶ。 またいずれ、という言葉が最後であった気がするものの、思い返してもいつの間に店を出たのか判然としない。 夢見心地で歩き続け不意に振り返ってみると、そこは見慣れた御所近くの通りだった。 |
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次に男がその通りに辿り着いたのは、十日ばかりが過ぎた頃だった。 霜月にしては暖かな晩である。元来の職である医者としての往診を終え、家路に就いたはずだというのに、いつのまにか一度だけ来た通りに立っている自分に気付く。 あの後も何度かこの通りを訪れようとしたのに、入口である稲荷神社すら見つけることは叶わなかった。あの出来事は、白昼に見た夢の如く思っていたというのに。どうやってここへ来たのだろうか。 静まり返る通りを山海堂まで歩いたものの、当然のように店には灯りがない。 どうしたものかと悩む男の耳に、ふいに涼やかな声が届いた。 「――月下の花宴へようこそ。お待ちしておりました」 声を掛けて来たのは、二十前後と見える娘だった。結い上げた長い黒髪と楚々とした動作、まとう青い色留袖も艶やかな美しい娘だ。 店の右横の狭い路地を示すと、彼女は先に立って歩き始める。彼がついて来ると疑いもせず。 高い白塗りの壁を伝って進むと、やがて屋敷の裏手を過ぎた辺りで、塀は躑躅で出来た生垣に変わった。奥には竹林が広がっており、躑躅は飲みこまれるように暗がりへ消えていく。半ば竹林に隠れるようにして広がる庭園は、夜に沈んでいても見事なことがわかる。 振り返って丁寧に礼をした娘は、低木の生垣のなかに埋もれている木戸を示す。 促されるままに、男は庭へと足を踏み入れた。 しんとした夜気に包まれ、濃淡様々な緑は月光に照らされて、艶やかに輝いている。 鬱蒼と繁る草木は庭園という体裁に相応しいほど整えられてはおらず、無秩序に放置されてもいない。言葉にし難い均衡が保たれ、空間の調和を守っている。 後戻りして家屋へと近付いて行けば、庭に向かう部屋は障子が全て開け放たれていた。縁側には幾つかの人影があり、またあちらこちらの木陰に、庭をそぞろ歩く者の影が動いていた。 庭の各所に小さな卓が置かれ、席に着いた者達が酒を嗜み、供された肴に舌鼓を打っている。それでも不思議と騒々しくはない。月下の宴は密やかに静かに、心地よい空間を作り出していた。何もかもを拒まず受け入れる度量が、穏やかさを生み出している。 「――まだですかな」 「もう少々お待ち下さいませ」 所々で密やかに交わされる声の主達は、何かを待っているらしい。 洋装の異国人は場における異分子のはずが、彼が月光の下に身をさらしても、調和は乱れることはない。 しかし暗闇に慣れた男の方が、天と地の狭間で興じている者達を見定めたとき、彼は息を飲まずにいられなかった。 そこに居たのは異貌のいきもの。人には非ざる証を負うもの。角や翼や鋭い牙や。誰もが人とはどこか違っている。唯一なる神の名前を長らく封じた極東の地には、悪魔が蔓延っているらしい。 しばし呆然と立ちすくむものの、やがて彼らが微塵も自分という『人間』を気にしていないと気付く。ここでは彼こそが異端であろうに、妖たちは男の挙動に全く構う素振りを見せないのだ。まるで在るのが当然だといわんばかりに。 恐る恐るとまだ色付かぬ楓の根元に居を定めて、男は独り座り込む。 「……一献いかがですか」 辺りをきょろきょろと見回す男に声をかけて来たのは、歳若い少年だった。 黒塗りの漆の盃を差し出して、にこやかに微笑む。神社の神主が着ているような古式ゆかしい衣を纏っており、その頬には瑠璃色で幾何学的な刺青が施されている。 おずおずと受け取った盃へとくとくと注がれた酒からは、ぷうんと花の香りが薫った。 異様な風体の者達が思い思いに夜の宴を楽しんでいる光景は、恐ろしいがどこか心躍る。落ち着いてみれば、彼らが楽しんでいるのがわかるから、少しも恐ろしくはない。 故郷に伝わる妖精達の宵の夢を思い出し、伝承世界の一人になった気分をこっそり味わう。一睡の夢のごとく、朝になれば自分も夢の中味を忘れてしまうのだろうか。それとも、妖精達と同じ食べ物を食べたのだから、二度と人の世には還れないとでも? すぐ隣の木の下には墨染めの男が座り、狩衣を纏う男装の女が酌をしてやっている。 艶葉が目を引く椿の下で、大きく伸びをした二股の尾の猫の横に座るのは白い髪の少年。その頭には金色をした鋭い二本の尖りが見える。 いつのまにか男を導いてくれた娘が、縁側に坐してそっと膝の白猫を撫でている。 髪を尼そぎにした童女が、大きな徳利を持って客の間を飛び回り。 やけに顔が赤く鼻の大きな男が豪快に酒を干す横では、被衣の上に女が腰を下ろしているが、その衣の裾から覗いている白くふさふさとした毛皮は何なのか。 限りなく満ちた月だけが、密やかに力強く妖しの世界を染めている。 「――ようこそ、月下の花宴に」 覚えのある声に、男は顔を上げた。わだかまる闇の中から人影が近付いて来る。月光に照らし出されたのは、店に居た青年だ。 しかしその顔を見て、男は驚きに目を見張る。 月の光の加減なのか、ほどかれた長い髪が銀色に煌めいて見えたのだ。刹那の幻のように目を瞬いた後には、その髪は漆黒に色を変える。ぱちぱちと瞬きを繰り返す男を見て、青年は不思議そうに首を傾げた。 以前とは違い、羽織を纏わず銀鼠色の長着を着流している。紺色の帯は片ばさみに締められ、単に粋な着こなしと言うだけでなく非常に似合う装いは、黒髪でこそ映えている。 「……これは、いかなる集まりですかな」 「我が侭で、儚い花の為の集いです」 微笑む青年の手の内には、懐中時計が握られていた。それがちょうど、戌の刻を示している。 「さて、時が来たようだ」 指し示された先では部屋の中まで差し込む月光に照らされ、床の間のあの掛け軸が明るく浮かび上がって見えた。 何が起こるのか、さっぱりわからぬ男だったが、ふと奇妙な点に気付く。 先日見た時よりも、掛け軸の蕾の部分が丸々と大きくなっている。 記憶を辿る限りでは、あの表装は先日の間の抜けた軸と同じものだが、肝心の絵が異なっているのだ。それともあれは対為す別の軸で、そちらでは花は咲き初めているのか。 男は呑気に首を捻るが、その疑問はすぐに解消されることになった。 絵とは姿形を写し取るもの。 古来より、絵に描かれた事物が動き出すという『おはなし』は、まことしやかに囁かれている。其処に魂が宿るには、上手い下手ではなく込められた想いこそが重要なのだろう。 ――蕾の中央に点のように隙間が現れる。ゆっくりと、その穴は少しずつ大きく開いていく。ほんの少しずつ、じっと見つめていても動きに気付かぬくらいに――それでも、確かに。 重みに葉や枝を揺らしながら、半ばを過ぎておしべやめしべが覗き出し、赤い顎もゆらりと身を捩る。生きているのだと、主張するように。真っ白な花びらの一枚一枚が、意志を持つかのごとく開き行き――涼やかな夜気に、仄かに香りが混じり始めた。 闇の中で強い芳香を放つ白い花は、蕾からは想像も出来ないほどの大きな花となって開いている。 離れていても判るほど、ふくふくと香りが零れ溢れている。見つめる者の感歎の面持ちに応えるかのごとく、誇らしげに薫る花。風に乗って、一帯に香りが漂っていく。 他に例えようもない、その香り。薔薇にも百合にも似ているようでまるで違う芳香は、この白い花だけの香りだった。 月光を浴びて花開く姿を、花宴の参加者達はうっとりと眺めている。 白い花を眺め、また月を見上げる。 このために集ったのだと、それだけの価値があると、疑いはしなかった。この場に在ることが出来た幸運に感謝せずにはいられない。 静かな夜の宴は、数刻の間続いた。 しかし東の空が黎明の藍色に塗り変えられる頃、大輪の花はゆっくりと萎み始めた。 見事に咲き誇っていた大輪の花が、僅か数刻の後には儚く萎んでいく。 それに合わせるようにして、夜の闇も失われていく。 夜明けに気付いた客人達の間に、緩やかにざわめきが広がった――夢が終わるときが、来たのだ。 「さて皆様、我が侭な花の為にお集まり頂き、有難う存じます。これにて一夜限りの花の宴は終幕とさせて頂きます」 細く通る声と共にゆっくりと人々は動き出し、一人二人と青年に辞去の挨拶を残して立ち去っていく。未だ夢心地でそれを見つめていた男は、最後にゆっくりと立ち上がった。自分も再び現へと戻らねばならない。 「そろそろワタシも失礼致します」 「――ではどうぞ、こちらに」 まだ世界が薄明の闇に沈む中、始めに案内を務めてくれた娘が提灯を片手に先に立つ。 木戸を越えて、細道から山海堂の前に出ようとしたところで、彼女は微笑を浮かべて振り返った。 「今宵は縁あってお出で頂き、花も喜んでいたことでしょう。宜しければまた来年もお出で頂きたいものです」 深々と一礼されて、焦った男はつられるように頭を下げた。 何と答えたものなのか、内心で頭を抱えてしまう。来たいのは勿論だが、方法だとかその他諸々の確認が必要である。 しかし娘は男の答を求めることなく、頭を上げると再び黙って歩き出す。まるで答など必要ないかのように。それともどう答えるかなど、お見通しなのかもしれない。何かを言わねばなるまいと口を開いても、言葉は声にならず、叫びは届く事が無い。 そうして気がつくと、男は見覚えのある大通りに立っていた。 夜明け前の都に人通りは無く、静寂が京を支配している。この地において夜の時間を真に支配するのは多分、人ではないのだ。 ――ふと、月下に薫る白い花の残り香を感じた気がした。 |
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当時のこの国では珍しい金色の髪も、異相のイキモノにとっては異端ではない。英国から来た男は、人間としてというより異形の端くれとして、花宴に混ざっていたのかもしれない。 そう言って笑う醒花の正体やら年齢やらについても、もはや淳也はそっとしておこうと心に決めている。開き直れなければ、付き合っていられないのだ。 出会ってから一年を越えて、自分が図太くなったと感じることがある。 時代は移ろおうと、醒花と関わるには同種の覚悟が必要なのかもしれない。 淳也よりも格段に順応性が高く、豪胆というか神経が無さげな異国人は、その後もずっと山海堂を捜し続けたのだという。その日辿ったはずの道が、なぜか違う通りへと続いても諦めず。飽きることなく、忘れることなく、謎の探求を続けて。 彼が再び山海堂を訪ねるには、しばしの時を待たねばならなかったそうだが――彼が求めたのは何だったのか。そして、結局は男を受け入れた醒花が望んだのは? 「彼が数年後にこの花屋敷に移り住んだ際に、この軸を贈ったんだ。随分と気に入っていたようだから」 「じゃあ、その後の花宴は?」 「何度かは此処の庭で行われたよ。彼とは――長い付き合いになったからね」 微妙な含みを感じる台詞に、気まずく表情を窺うが、男は平然として笑っていた。 恐らくは訪れたはずの別れの辛さを、ひけらかしたりしないのは情が薄いのではなく、心が強いからだと思う。出会ったからこそ生み出された記憶の方が、離別よりも重みを持って心に残るのなら、其処に意味が生まれると思うのだ。 幾度も住む地を変えてきた淳也は、違う土地へと移る度に、二度と会わぬ可能性が高い別れを繰り返してきた。それは死別とは違うけれど、その先に思い出さぬような相手なら、出会いの記憶も価値も失われるばかりだ。幾度でも思い出すなら、再び会いたいと思う存在ならば――僅かな間を共に過ごしただけでも意味はある。絶対に忘れられない。別れが待っていても、出会えて良かったと思う。 「彼がいなくなって以来、見たことがなかったんだが……」 いささか痛みはあるものの、瑞々しい筆致は鮮やかに残り、満ちた生気は淳也の目に命あるものの如く映る。 「……仕舞いきりだったとしたら、この花は今まで誰も見るひとがいなくても咲いてたのか?」 淳也の疑問に、醒花は珍しくも虚を突かれたようだった。 悩むように視線を揺らがせ、ふむと頷く。 「勿体無いというか、申し訳ないっていうか……」 「たとえ誰一人咲き誇る姿を知らずにいても、花が花であることは変わりない」 「けど………」 「――そうだな。これが野で生まれた花ならば、そこに咲くことに意はあるだろう。だが、この絵は誰かが見ると知って描いたのだろうからな」 考え込んでいた時間は、ほんの少しだけ。 軸を持ったままで立ち上がった男は、ふらりと部屋を出ると、居間として使われる和室の床の間に、蕾のままの軸を掛ける。家主には一言もないままに、堂々と。 「また、宴でも開くつもりか」 「貴方が望まれるなら、それでも。再び月下の宴と洒落込みましょうか」 「我ら夜に生きる者が観るには、相応しい花ではあろうな」 静かに微笑みあう男達から疎外感を感じて、離れた背後で少年は小さく息を吐く。 決して朝の陽を受けることのない白き大輪を愛でる宴は、確かに夜闇の住人にこそ似つかわしいに違いない。ずっと昔、人間が闇を恐れて縮こまっていた時代から、この花は咲いていた。 闇に咲く花を、最初に見つけたのは誰だったのか。 月下美人。 夜咲きサボテンの一種である。 夏から晩秋の夜にかけて白い大輪の花を咲かせるが、花は一夜花で、咲いた数時間後にはしぼんでしまう。 馥郁たる強い香りを放つが、こちらも花の終わりと共に消え去る定めである。 |
《終》 |